この二つは男女のカルチャーの違いと「女の社会進出」による社会の(悪い方向への)変質を示す格好の題材になっている。
以下では男女の分布のずれを0/1のデジタル的に表現していることを断っておく。
Hatelaboの記事では女の心理について考察しているが、
男が衝突を避けることには暴力沙汰を避ける心理が働いているのではないかと推測される。核兵器を持つ国同士は戦争を回避するようなものである。
先月の記事でも取り上げたが、人同士で何らかの対立が生じた際の対応にはhonor, dignity, victimhoodの三つのカルチャーがあるとされている。男の基本はhonor(H)で、暴力による自力解決(果し合い、決闘)がよしとされる。「ナメられたら殺す!!」のカルチャーである。
近代になると公権力が私闘・自力救済を禁じるようになり、代わりにルールに基づいて白黒つけるdignity(D)カルチャーが一般化した。個人は自力救済の権利を公権力に明け渡した代わりに、制度や裁定者に公正・中立を求めるようになる。
あらゆることを裁定者に委ねることは非現実的なので、些細なことは寛容の精神で受け流す「器の大きさ」が美徳になる。この態度はHカルチャーでは「弱腰」と否定的に評価されるものの、DはHから進化したものなので、どちらも「筋を通す」ことを重視する点は変わっていない。
漫画で暴走主婦に激突された被害者の男も、主婦が直後に謝罪していればDカルチャーの寛容の精神で応じていたものと読み取れる。しかし、主婦が悪態をつきながら車に急いだために、男の地のHカルチャーが出て怒鳴りつけたのだろう。「女のくせん」「女が偉そうに」を批判する人もいるようだが、Dカルチャーを共有しない道理から外れた相手に対する発言であることを考慮する必要がある(本当に言ったかどうかも不明だが)。
主婦の夫が出てきたら態度を変えたのは、妻の言動から判断すると、夫が石橋和歩被告のような可能性もあるので、危険回避を図ったものと推測される。怪我するなどの実害はなかったので、夫の裁定で妥協して事態を収拾したわけである。
一方、主婦が内面化しているのが、H/Dとは全く異質のvictimhood(V)カルチャーである。Vでは自分が被害者であることを第三者にアピールしてリンチをけしかける。筋を通すよりも嘘をついてでも被害者を装って味方を増やした方が勝ちにつながる。主婦が自分が被害者であることを強調する漫画を描いてネットに載せた行動にもこの心理が働いている。
Hの時代は男が暴力的なので女は迂闊に男を攻撃できなかったが、Dの時代が長く続くと暴力を封印した男を女が恐れなくなり、Vカルチャーでサンドバッグにするようになってきたわけである(その典型が証言だけで男を社会的に抹殺するMeToo)。女には性的魅力で男を味方にする/従わせるmanipulationalな「力」が備わっているので、ターゲットにされた男は多勢に無勢になってしまう👇。
漫画の最後のコマでは男の暴力性への憧れを吐露しているが、自分が暴力を振るう代わりに子猿のように他者を式神のように使うのが女の暴力である。女の被害者性アピールは暴力的な男が凄むことと本質的には同じで「負の暴力的不良行為」と言える。
問題は、この悪を為すインセンティブを持つ理より情のカルチャーは、社会を確実に悪い方向へと変質させることである。
「女の社会進出」を単純に良いことと考えて推進した男たちは、女も男と同じく道理や公正を重んじるDカルチャーを内面化していると考えていたのだろうが、現実は息を吐くように嘘をつく想定外のVカルチャーだった。現代社会の基本ルールとは相容れないカルチャーによるシステムのハッキングが先進国の混迷の一因となっている。
古代ギリシャ人は理解していたのだろう。
◆西洋社会とは相容れないイスラム教徒の移民を大量に抱え込んだために社会システムが機能不全に陥っていることと似ている。
◆近隣の某民族のカルチャーがこれに近い。