宮澤首相と歴史のIF

昨日の続き。

若者人口が極大期にあった1990年代に革新と成長を実現できなかったのはバブルの後処理に失敗したからだが、歴史のIFとして宮澤喜一首相に政治力があり、二つの構想を実現できていれば、全く違う90年代とそれ以降の日本経済があり得たかもしれない。

実績は総務省「人口推計」
推計は国立社会保障・人口問題研究所「将来人口推計」(出生中位・死亡中位)

一つは不良債権処理で、1992年8月が分かれ道だった。

これ👇は元朝日新聞の証言。

https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/25696

こちら👇は内閣府経済社会総合研究所の研究プロジェクト「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」――分析・評価編4『不良債権と金融危機』の論文「公的資金投入をめぐる政治過程 —住専処理から竹中プランまで」(久米郁男)より。

宮沢のイニシアティブによる、公的資金投入問題の第1幕がここに始まった。宮沢の電話を受けた三重野日銀総裁は、危機意識を共有しており、「私がなんとかしますから、ご相談に応じましょう」と応えた。両者は、金融システム危機を避けるために、日銀特融など必要な公的援助を行うことで一致していた。宮沢の上京、東証閉鎖、そして公的資金投入というシナリオが準備されたのである。しかし、それに待ったをかけたのが大蔵省であった。

当の銀行業界は、公的資金導入が銀行への政府関与の契機となることを嫌い、反対の姿勢が松沢卓二富士銀行相談役など銀行界長老の間で強かった。これら長老銀行家は、経団連などでの財界活動を通じて公的資金投入反対論を強く主張していたのである。

経済界でも、日経連のスタンスはより厳しい物であった。永野健日経連会長は、銀行が「公的資金で助けてもらおうというのなら、賃金など経営情報を公開してもらわなければ世間は納得しない」と発言している。

大蔵省が、公的資金の投入に否定的であった理由も、まさに公的資金投入が国民の理解を得られないという点にあったとされる。

1992-93年に公的資金投入が決断されていれば、1997-98年の金融危機は発生せず、信用収縮と企業のdeleveragingが主因のデフレも回避できていたと考えられる。

もう一つの構想が「生活大国」で、経済を量的拡大から(生活の)質的向上へと路線転換させることが目標とされていた。企業がこの路線に乗っていれば、金融危機以降の新常態となった「技術革新よりも低賃金労働」は回避できていた可能性が大である。

無理なことは百も承知だが、パラレルワールドの2023年の日本を見てみたい。

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