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遺棄されたものと悲しみのaesthetic

私に欠けているのは何なんでしょう。ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないようなこと......。*1

 1964年、睡眠薬七〇錠を飲んで自殺を図った一人の若い女性が、西ドイツのある精神病院に入院した。

私に欠けているのは、きっと、私にとってわかっていることが、ほかの人たちとのつきあいの中でも——ごくあたりまえに―—わかっているという点なのです。それが私にはできないんです。だからわたしにはぴったりこないことがたくさんあるのです。ほんとにおかしい——わからないのです。ほかの人たちはそういうことで行動しているんです。そしてだれもがともかくそんなふうにおとなになってきたのです。*2

 1944年の東ドイツに生まれたこの女性、アンネ・ラウは、精神病理学者のブランケンブルクのもとで治療を受けた。自身の欠陥を口ごもりながらも辛うじて「自然な自明性の喪失」と形容するアンネは、入院して数日が経った頃から「不適当な感情の動き、移り気なふるまい、軽度の衒奇症のほか、著しい思考障碍やかなり以前の作業力の重篤で急激な低下」のような、成長期の少女の発達として正常ではない様子を見せるようになった。彼女は自分の状態を「たこの糸が切れた」、「まるででたらめ」、「ふつうでない」、「おかしな具合」と表現した*3。

いろいろのことを落っことしてしまっているのです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか――悲しい、卑屈な気持......。一度だってちゃんとしてついていけたことがありません。わからないけど、どういっても同じことです。どういえばよいのでしょう......簡単なことなのです......わからないけど、わかるとかいうことではないんです。実際そうなんですから.......どんな子供でもわかることなんです。ふつうならあたりまえのこととして身につけていること、それを私はどうしてもちゃんということができません。ただ感じるんです......わからないけど......感じのようなもの......わかりません。なにもかもやりなおしです......きっとそうです。それは文句なしに必要なんです。家庭がなければ、そして指導が......両親の指導がなければだめなんです。親がちゃんとやってみせて、いろんなことにぶつかって、自分で正しい道を見つけて、理解できるようになって......私はそれをしませんでした。なにもかもいいかげんだったのです。理解するということも。いまになってやっとそれに気づいたんです。*4

 数年間の治療の末退院した彼女は、1968年、家族の眼を盗んで命を絶った。彼女の自殺という出来事について、ブランケンブルクは事実の記述以上の何も残していない。しかし彼女の自殺は、戦略的な立ち去りではなかったか。彼女の苦痛に対し、ブランケンブルクは何もできなかった。アンネ・ラウをめぐる精神病理学者の理論の蓄積が暴き出したのは、彼の呆れるほどの凡庸さと無力さだったのだ。彼女は結局救いの手を見つけることが出来ず、苦しみから逃れるためにこの世を去った。だが、願わくは――彼女の死が、世界から立ち去ることであってほしい。自殺、それは時に最も聡明で正しい判断でありうる。しかし人はしばしば誤りを犯す。ドゥルーズの言うように哲学が愚劣を防ぐのに役立つものなのだとすれば*5、哲学の使命の一つは、重力に身を預けてビルの屋上から今投げ出されようとしている肉体、駅のホームに墜落しようとしている肉体にとって、言葉がまだ意味を持つように努めることだ。立ち去ることが、この世からではなく、この世界からであることを僕は願う。或る意味で死ぬこと、それこそが「自明性の喪失」への唯一の応答なのだとしたら、どうだろうか。
 彼女の診断に際し、ブランケンブルクはまず「プレコックス感」と呼ばれる、統合失調症患者を目の前にしたときに生じる独特の感覚をもとに診断する方法を用いた。動作のぎこちなさ、巧緻性の障害、独特の表情や空気のよめなさなどから、医師は「統合失調症らしさ」を感じ取る。この手法は1941年に精神病理学者のリュムケが開発したが、精神医学の発達とともにすたれ、現在では分裂症だけではなく発達障害者の診断にも応用できると主張する医者も存在する。まずはこのプレコックス感から始めよう。この耳慣れない用語は長い間表舞台で使われないままでいたが、これから話すことに深くかかわっているからだ。

1 遺棄されたもの

 プレコックス感の第一と第二の次元、すなわち羞恥と猥褻についてはサルトルを引用することができる。自身について「吃りと小心」「醜い男、小さい男、卑怯者」*7と表現する彼のインフェリオリティ・コンプレックスは、内面化されたプレコックス感の視覚を記述するうえで重要である。サルトルにとって羞恥は一時的な感情ではない。

純粋な羞恥は、これこれの非難されるべき対象であるという感情ではなくして、むしろ、一般に、一つの対象であるという感情であり、私が他者にとってそれであるところのこの存在、下落した、依存的な、凝固したこの存在の内に、私の姿を認めるときの感情である。*8

羞恥は他者にまなざしを向けられるということそのものである。猥褻は、反対に、性的体験において他人に向けるサディスティックなまなざしにおいて現れる。猥褻は「品のあるもの」に対する「品のないもの」である。品のある行為は、なんらかの目標に照らされて美的必然性を持つ。それはベルクソンによれば「他人の動きの中に覚える或る種の気楽さやゆとりの感じ」であり、「未来を現在の内につなぎとめるという快感」である9。これに対し、「品のないもの」は、品のよさの要素の一つがその実現をさまたげられるときにあらわれる。滑らかな曲線が急に屈曲するときに現れる偶然性、「身体から完全にその行為という衣服を脱がせ、その肉体の惰性を堅持するようなもろもろの姿勢を、身体がとりいれる」偶然性が猥褻なのである*10。

裸体や背中を見ることが猥褻なのではない。むしろ、歩いている人が尻を無意識に左右に振ることのほうが、猥褻である。というのも、その場合には、歩いている人の内で行為の状態にあるのは両脚だけであり、尻は両脚によってはこばれていく一つの孤立したクッションであって、その揺れ方はまったく重力の法則に従っている。(...)この尻は、あらゆる偶然的な存在と同様、《余計なもの》である。*11

こうしてプレコックス感の本質的特徴が明らかになる。すなわちそれは、過去から未来へと続く現在の滑らかで必然的な運動とは反対に、過去や未来から断絶した、不連続で断絶的な運動なのである。

 その連続性が、具体的な他者との関係を含めた、大きなシステムのなかでの連続性である場合を、遺棄と呼ぼう(プレコックス感の第三の次元)。アガンベンは『ホモ・サケル』で、ただ単に生きている状態の生が主権によって政治に包含されている構造を明らかにし、「法が生とのあいだにもつ関連は、適用ではなく<遺棄>である」と言っている。

実のところ、締め出された者は、単に法の外に置かれて法と無関係なものとされるのではない。彼は法によって締め出され遺棄されるのであり、生と法権利、外と内が混同されるこの境界線に露出され危険にさらされるのである。*12

 僕はここで政治的状況に言及するつもりはない。そうではなく、僕が探究するのは遺棄されたものたちの戦略としての、実践としての立ち去ることである。今日では、この遺棄という状態を様々なところで見出すことが出来る。例えば、『闘争領域の拡大』における主人公の回想。

難しいのは、ただルールに従って生きていればいいというわけではない、ということだ。なるほど、あなたはなんとかルールに従って(ぎりぎり、瀬戸際という時もあるが、全体としてはどうにか逸脱することなく)生きている。期日までに確定申告をする。期日どおりに請求書を決済する。絶対に身分証(そしてクレジットカード入れ!)を持たずに出かけたりはしない。(...)でも友達はいない。*13

 ここで一曲の音楽トラックを紹介しよう。MACINTOSH PLUSによる「リサフランク420/現代のコンピュー」は、2011年にリリースされたアルバム「Floral Shoppe」のセカンドトラックだ。遠いどこか、ゴミの中や読み込み不良のCDプレイヤーからから流れてくるかのように、同じ箇所を執拗にループし、しだいにスローダウンと崩壊を加速させるこの音楽は、Diana Rossによる1984年の楽曲「it's your move」をチョップド・アンド・スクリュードという手法で減速させ、細かく切り刻んで再構築したものだ。アルバムジャケットには、だだっ広いピンク色の空間に投げ出されたように置かれるギリシア彫刻と、雑に貼りつけられた低画質の画像、そして「MACプラス フローラルの専門店」という意味不明な日本語が映っている。
 この曲はVaporwaveという音楽ジャンルの代表的な曲である。この謎めいた音楽が一体何なのかという問いに、未だ明確な回答はなされていない。VaporwaveはOneohtrix Point Neverの名義でも活動するDaniel Lopantinが2009年にYouTubeにアップロードした「nobody here」という楽曲におよび同曲収録のアルバム「Chuck Person's Eccojams Vol. 1」にその起源をもつとされる。
 その後、2011年に発表された上述の「Floral Shoppe」によって、Vaporwaveという名前とともにそのヴィジュアルと音楽性、テーマなどが確立されていった。その手法は主に1980年代のポップ音楽やエレベーターミュージック、テレビCMなどのサウンドを加工・切り貼りし、石像、VHS、インターネット黎明期のコンピューターグラフィックス、当時のアニメクリップなどのヴィジュアルを使用するという特徴を持ち、Google翻訳にかけたようないびつな日本語を使用する。
 Vektroid、INTERNET CLUBなどの初期の主要なクリエイターがシーンを早々に離れ、既に2012年頃から、「Vaporwaveは死んだ」という文言がインターネット上で囁かれるようになったが、それ以降もLuxury Elite、Saint Pepsi、Blank Banshee、猫シ Corp.、t e l e p a t h テレパシー能力者といったアーティストたちの参入によって、Late-nite Lo-Fi、Future Funk、Vaportrap、Mallsoft、Signalwave、Ambientなどの派生ジャンルが生み出されていった。しかし時間の経過とともにシーンは2022年現在では落ち着きを見せており、Vaporwaveは完全に死んだように見える。
 それでも、Vaporwaveの影響は現在でも色濃く残っている。80年代~90年代の日本のポップス、いわゆる「シティーポップ」は、Vaporwaveによる発掘を機に世界中で広く聴かれるようになり、日本においてもシティーポップやLo-Fiが広がりを見せている。
 僕はこの謎めいたVaporwaveという現象が、遺棄されたものに対する態度と遺棄されたもの自身の重要な戦略を示していたと考えている。そしてそれは、アンネの苦しみに対する、物理的死以外の応答の可能性なのかもしれないのである。

2 暗闇

 Vaporwaveについて行われた数多くの批評のなかで最も有名な記事「vaporwaveとヴァーチャルプラザのポップアート」のなかで、アダム・ハーパーは後期資本主義の退廃のありきたりな描写を一通り済ませた後、James FerraroやINTERNET CLUB、New Dreams Ltd.などのVaporwaveアーティストの音楽についてこう書いている。

それは資本主義への批判なのか、それとも、資本主義への降伏なのか? どちらでもあり、どちらでもない。これらのミュージシャンたちは現代のテクノロジーカルチャーとその表象の欺瞞とずれを暴く皮肉な反資本主義者ともとれるし、心地よいサウンドの波ひとつひとつへの喜びに震える自発的な促進者ともとれる。近年、資本主義の哲学者たちの間で広がっている、ある感情と実践を言い表わすために使われることばを彼らの音楽に当てはめることができるだろう。すなわち加速主義だ。加速主義とは、資本主義によってもたらされた文明の解体には抵抗すべきでないし、また、抵抗することはできない、むしろ、自由のために、革命のために、また破壊が唯一の論理的な回答であるために、究極の結末といえる狂気と無秩序に流動的な暴力に向かって、より速く、より遠くへと押し出されるべきだ、という考え方である。*14

しかし、本当にVaporwaveは加速主義の音楽なのか。まずは、加速主義の理論的・視覚的浅薄さについて話そう。論者の中でも意見の相違と分裂が目立ち、Vaporwaveと同様にいつ死んでもおかしくないこの加速主義という立場を、ベンジャミン・ノイズは次のように定義する。

もし資本主義が自身を溶解させる力をみずから生成するのだとしたら、必要となるのは資本主義それ自体をラディカライズさせることである。すなわち、悪くなればなるほど、良くなる。われわれはこの傾向を加速主義と呼ぶ。*15

また、『暗黒の啓蒙書』のなかで、ニック・ランドは民主主義的な民衆の意志を代表する<声>に代わって資本主義からの<出口>を探っている*16。従って、加速主義は二つの問いに答えなければならない。1,資本主義はなぜ加速されるべきなのか、2,資本主義の出口とは何か。

 ノイズが加速主義の聖典の一つに数えるドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から読み取れる加速主義的記述。

しかし、どのような革命の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々にすすめているように、世界市場から退いて、ファシスト的な、「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。そうではなく逆の方向に進むことなのか。すなわち市場の、脱コード化の、脱領土化の運動の方向にさらに遠くまで進むことなのか。というのも、おそらく、高度に分裂症的な流れの理論や実践からすれば、もろもろの流れはまだ十分に脱領土化していないし、脱コード化もしていないからである。過程から身を退くことではなくて、もっと先に進むこと。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」。ほんとうは、このことについて私たちはまだ何も理解してはいないのだ。*17

 これは、資本主義の脱コード化の運動を進め、分裂症者に倣って欲望をあらゆる制約から解放させよ、という要請に聞こえる。しかし、様々なところで指摘されていることだが、この引用部の次の節でドゥルーズ=ガタリは資本主義と分裂症のプロセスの差異を明確に強調する。

しかし、資本主義の流れと分裂症の流れを、欲望の流れの脱コード化という一般的な主題の下に同一化することは、大きな誤りであろう。(...)なぜなら、資本主義はもろもろのコードの代わりに、きわめて厳格なひとつの公理系を援用しているからである。この公理系は、流れのエネルギーを、脱コード化した社会体としての資本の身体の上に縛られた状態に維持する。この社会体は、他のあらゆる社会体と同じく、いやそれ以上に冷酷な社会体なのだ。これとは逆に、分裂症はまさに絶対的な極限であり、これらはもろもろの流れを、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行させる。」*18

 資本主義の脱コード化の動きは、公理系による欲望の調整によって制御される。ニック・ランドは脱コード化だけを推し進めようとするが*19、これは「不可能なことである。流れが資本主義によって脱コード化され、そして公理系化されるのは、同時なのである。」20資本主義は、脱コード化をおこなう分裂症のg外的で絶対的な極限を「自分自身の内在的な相対的極限に代えなければ機能しえない」ものだからだ20。加速主義は、従って、『アンチ・オイディプス』に依拠できない。本当に資本主義が自己破壊的であるということを示すためには、資本主義についての新しい理論が必要である。加速主義はその理論を構築できているだろうか?

 暗黒の啓蒙、闇の自己啓発、<ダーク>な思想。加速主義やその周辺の界隈は暗闇に憑りつかれているように見える。ニック・ランドはこう言っている。

その語の歴史的な意味を踏まえるかぎり、啓蒙された状態になるということはそのまま、なんらかの導きの光を受け入れ、そしてそれに付きしたがうことを意味するわけである。*21

彼は啓蒙の光を遮るものとして「暗黒の啓蒙」と言っているようだ。しかし、導くものの不在としての暗黒という発想は、それ自体日中の発想ではないのか。真の暗闇のなかでは、導くものの不在は、空虚な空間が《ある》ことによって無意味となる。そこでは導くものという発想すら無力だ。書くべき本もなければ、ましてや書くという行為すらないはずだ。

 光は空間を照らし出す、言いかえれば、座標を形成する。僕は上でプレコックス感の第三の次元として遺棄を提起し、それを連続性からの逸脱という性格で捉えたが、ここで遺棄されたものをより具体的に捉えることが出来る。事物は、照らせば照らすほど、その裏面の影を濃くする。確定申告の期日の光、請求書の期日の光は、主人公の本質(=うまくやっていくこと)を照らし出し、主人公をある社会体に座標づける。「でも友達はいない。」

 遺棄されたものは、暗がりに住んでいる。それは社会性の光によって、ダサいもの、醜いもの、馬鹿馬鹿しいもの、無力でぐったりとしたものに分類されながら、世界から立ち去りかけている。

3 異邦人

 コードは、「汝なすべし」である「我欲す」、つまり「欲すべし」を呼び掛ける。消費のコードは「消費すべし」である「消費したい」を呼びかける。ショッピングモールで買い物を楽しむ。ショッピングモール、それはコードを巧みに配置した座標系だ。一階はフードコート、二階は婦人服売り場。縦横高さのモールの座標系と、「ここで買うことを欲すべし」と呼び掛ける様々なブランドのコード、バロック様式の噴水のコード、植木のコード。楽し気な店内BGMと開放的な吹き抜けが心を解き放つ。居たいなら居ろ、居たくないのならば去ればいい。そこには本物の享楽があり、不満足は常に偽物である。なぜなら、不満があるのなら帰ればいいのだから。

 コードの撚糸はその求心力にもかかわらず、いやむしろその求心力によって、二つのタイプのものを遺棄する。一つはコードのすぐそばで、コードに従ってコードを支える、BGMや楽し気な笑い声が、モールの広大な壁にぶつかって反射するエコーや、綺麗に磨かれた床の小さな傷や隅に揺蕩う埃であり、もう一つはコードが「消費すべし」と呼び掛ける、招かれざる客、モールに赴いた異邦人である。

 Vaporwaveは遺棄されたものを発見する異邦人の視聴覚だ。猫シ Corp.の「Palm Mall」において、異邦人は人びとの足音やおしゃべり、店内アナウンスやBGMの、モールの広大な空間の壁にぶつかって反射したエコーを聞き取る。反響した声やBGMにおいてコードはほつれ、アナウンスの内容などもはや聞き取れない。七曲目の「I consume, therefore I am」では、もはや「我思う」の領域にまで浸透したコードの「消費すべし」が、減速され、リヴァーヴをかけられ、ほつれている。Vaporwaveはコードが作り出す座標系や「Floral Shoppe」の無限に広がる空間の空虚な《ある》に赴き、コードの統制力を逃れ遺棄された事物を見つめる。異邦人はモールで安いものを少しだけ買うか、或いは何も買わないまま家に帰る。異邦人はモールの座標系にしか興味がないのだ。招かれざる異邦人は座標系の端で立ちすくむ。

 Luxury Eliteの「World Class」はこのことをあからさまに示している。ギゾーさながらの「金持ちになり給え」はもはやほつれ、裕福のパラメータの目盛りはゆがんでいる。プロレタリアの指先で再生ボタンを押す異邦人は、どこかの都市の夜景とイタリック体の文字が醸し出すそれっぽさで完全に満足する。豊かさの満足を得るためにはもはや裕福な感じしか必要ない。裕福のコードが作り出す座標系の中に彼/彼女は一時的に赴き、そして立ち去る。

 人はなぜモールに赴いたのか。人はなぜ空間に来訪するのか。人はいつもすでに、予め空間に配置されるのだ、まさに光に照らされて。「神が天地を想像した初めに――地は荒涼混沌として闇が淵をおおい、暴風が水面を吹き荒れていた――「光あれ」と神が言った。すると光があった。」*22コードは空間の上に諸々の勾配を配置し、地形を形成する。人は空間内のある座標にある住まいを予め獲得することになる。容姿を照らす光。学歴を照らす光、収入を照らす光。性別を照らす光、それぞれの光がそれぞれのコードをつくって、それぞれのパラメータを持つ。学歴のパラメータ、貧富のパラメータ、性別のパラメータ、容姿のパラメータ。そのなかから一つか二つを取り出して、高さとして価値のパラメータを付け足せば、一つの空間をつくることができる。例えば学歴のコードとコミュニケーション能力のコードでxy座標をくつり、xとyの関数としての就職の有利さのz軸を、基本的に正の相関を持つようにとることで、かなり雑な形ではあるが現実の事態を再現できる。他の諸々のコード化されたパラメータを持ち出して(容姿のコード、性格のコード)、より高次の空間を想定することで事態はもっと鮮明になるかもしれない。社会的公共空間は、周波数が異なるそれぞれのコードの光を組み合わせ、最終的にz軸のコードの白色光に照らされた光景を実現する。あそこに山の深緑、ここに鼠色のアスファルト。問題はパラメータ形成のための情報圧縮の作業とz=f(x,y)のfの式の内容の決定というコード化の過程であり、トマス・アクィナスの「真理は事物と知性の一致である」というあの伝統的定式に従って、コードは洗練され、様々な空間が形成される。コード化は事物の値を照らし出す光学なのだ。「ワイが見て「コイツ陰キャやろなあ…」と思うのは姿勢が変なヤツ 障害とかがあるわけではなさそうなのに異常に猫背とか常に肩すくめてるとか」*23、背筋や首の角度を含めた様々な変数で形成される姿勢のパラメータが、「陰キャ」のパラメータの関数となり、陰キャのコードを構成する部分となり、姿勢-「陰キャ」の空間を創設する。今度は「陰キャ」「陽キャ」のパラメータが、スクールカーストという価値のコードを持つ教室の空間の形成に使用される。ベックの鬱病自己評価尺度は、憂鬱度のパラメータ、不安度合のパラメータ、罪悪感の度合いのパラメータ、自己嫌悪の度合いのパラメータ、劣等感の度合いのパラメータ、希死念慮の度合いのパラメータ等々の21個のパラメータを持ち、最終的にそれらの関数である鬱病のパラメータで患者は1~40のうちのどれかの値を取る。10点以下は正常、17点以上は要診断。本当に賢い人の16の特徴、成功する人の9つの特徴。教養のために読むべき本はこれ、教養とはつまり、云々、云々。いや、本物の教養と言うのは、云々。いや、本物の陽キャはいじめをしない。いや、本物の鬱病は、云々。日常的なおしゃべりや病院の診察室、教室やカフェテリア、InstagramやTwitterで、こんなふうにひとはちょっとした大工仕事をしては、コード化の光で混沌を照らしてパラメータ化し、様々な空間を形成しては、変換し、変形し、ダブらせ、矛盾させ、矛盾を解消させ、また矛盾させ、それを別の空間と同一化させ、或いは差異化させ、接続或いは切断し、包含或いは排除する。

 様々な形をとる価値のコード(勝利のコード、合格のコード、貧富のコード、快楽のコード、幸福のコード等々)は、一貫して「価値を欲すべし」「勝利/合格/豊かさ/快楽/幸福を欲すべし」という呼びかけであり、その都度n個のパラメータを加えて空間を構成し、座標上の点に割り振られた人間にその値の上昇、即ち努力を要請する。こうして欠如としての欲求が、主体とともに登場する。

(...)呼びかけられた個人は振り向くであろう。このような一八〇度の単純な物理的回転によって、この個人は主体となる。なぜか?なぜなら、彼は呼びかけが「まさしく」彼に向かってなされており、また「呼びかけられたのはまさしく彼である」(そして別の者ではない)ということを認めたからである。*24

 アルチュセールはここで、呼びかけられた個人が呼びかけられる以前に或る照明された空間にいることを見逃し、従ってイデオロギーが主体ともつ一方的な契約関係を見逃している。光はまず照らすことによって人間を空間に座標づけ、その座標、まさしく彼がそれである座標、彼が所有する座標——これが所有と贈与の起源、所与そのものなのだが――を人質にとって、そのあとでコードが呼びかけるのだから。彼は「まさしく彼である」こと、彼の存在、彼の実存を人質に取られた後で、「価値を欲すべし」と呼び掛けられるのである。レヴィナスは光という権力が「まさしく彼である」を掌握する危険について、アルチュセールよりも敏感だった。

照明された空間は、絶対的な間隔ではない。視覚と触覚のあいだの、表象と労働の間の紐帯は、本質的なものであり続ける。視覚は掌握に変わる。視覚は、一つの視野や地平へと開かれ、飛び越えることのできる隔たりを記述し、運動や接触へと手を誘い、運動と接触を保証する。*25

 主体は己がそれである所有物を人質に取られることで光=イデオロギーによって制定され、「欲すべし」の呼びかけによって欲求する主体性=能動性になるのだ。


 ボードリヤールは予め答えの決められた問いとしてコードを特徴づけることで、光は視る権力であると同時に視させる権力であるということを言い当てる。

今やわれわれはモノを使うひととしてというよりはむしろ、モノを読みとり、かつ選ぶひととして、つまり読解の細胞として生きているのである。だが、注意が必要だ。あなたが選択をおこなうと同時に、あなた自身がメディアによって選択され、テストされているのだから。調査のための見本を選ぶように、あらゆるメディアは、神経衝動のような触覚的で収縮的な不断の干渉や実験的調整と言う循環運動的操作によって、メッセージの束(要するに選択された質問の束)で、メッセージの受け手という見本を枠にはめて切り抜いている。*26

 光はテストする出題者であり、出された答えを〇と×で次々に判定していく採点者である。どうして間違いなのか、考えてごらん。光は0/1のどちらかの値をとる正解のコードのz軸を持つ空間の中に、枠の中に書き込まれた答え、僕が書いた答え、僕がそれであり、僕が所有する答えを視る=人質にとる=贈与する。そのうえで、「考えてごらん」という呼びかけは、主体性=能動性への呼びかけであり、同じ光のもとで、同じ空間の中で視させること、つねにすでに視させること、使役形以前の視させることなのである。こうして光と主体の関係は一方的な契約関係と所与としての贈与を隠蔽して共犯関係に移行する。光は視覚と触覚を可能にする掌握という権能を主体に授ける=主体化することで、主体と共犯関係を結ぶのである。僕=主体は、一つの部屋、僕の部屋、僕の所有物、僕の勉強道具、僕の靴、僕の食器を掌握する。主体は、僕という中心へ向かう食器に働く引力であり、僕がこの食器を使って食事をとることが出来る自由である。僕は机に座って勉強をすることができるし、そうすることで学歴のパラメータでより高い値をとることができるが、勉強しないこともできる。部屋を出て洋服を買いに行くことができ、そうすることで容姿のパラメータでより高い値をとることができるが、部屋から出ないこともできる。

 

 どのように勉強したらいいのか、どのような服を買ったらいいのか、どのように生きたらいいのか。自分で考えてごらん。この返事かあの返事か、この参考書かあの参考書か、この服の組み合わせかあの服の組み合わせか。この会社かあの会社か、この道かあの道か、わからない、どんなに考えても。

アンネはどんな生地がどんな場合に合うのかということでいろいろ迷ったときには、この生地とかこの色とかがこんな場合に合うのはなぜなのか、合わないのはなぜなのか、といったことを徹底的に理詰めで解決しようとする。そんなことをしてみても結論の出ないことはわかりきったことである。*27

 なぜ結論が出ないのか。それはそもそも彼女が自分で「繊細な感受性」と呼ぶもの、歴史的には一般感覚、共通感覚、常識、良識と呼ばれてきたものを欠いているからだ、とブランケンブルクは言う。そしてそれは、デカルトが『方法序説』の最初で記しているように、光と同一なのだ*28。容姿を照らし出す光=良識、学歴を照らし出す光=良識。それぞれの光=良識がそれぞれ別のコードとパラメータを伴い、別の空間を作ったり、パラメータを組み合わせて一つの空間を作ったりする。だが彼女はその光を持っていない。

だれでも、どうふるまうか知っているはずです。だれもが筋道を、考え方をもっています。動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、だれもがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきりわからないのです。私には基本が欠けていたのです。だからうまくいかなかったのです。ものごとはひとつひとつ積み重ねていくものなのですから。*29

 光はコードを、従ってパラメータを、従って空間とその地形、構造を再生産する良識であり、安定性を目指すフィードバック機構である。ニック・ランドが光の住人であることが明らかなのは、彼が着目する、安定性をめざすネガティブ・フィードバックと加速とカオスのプロセスであるポジティブ・フィードバックの区別それ自体が、そもそも良識的だからだ*30。ノーバート・ウィーナーはサイバネティックスを制御のシステムとして開発したのだから。着目すべきなのはネガティブ・フィードバックのほうなのであって、そしてそれがウィーナー曰く「適当な監視」と「適当な調節」を必要とするということ*31、すなわちそこで要請されるのがあの良識であり、あの理性、光である、ということなのである。従って、採点者は採点室というサイバネティックスを適当な監視で運用し、そのフィードバックがはじき出した各受験生の点数をのせたパラメータが、今度は教授たちの会議室というフィードバックを構成するパラメータとなり、適当な調節によって合格者が出力される。出力された合格者は成績のフィードバックによってさらに適当に入力-出力され、就職活動のフィードバックによってさらに適当に入力-出力され、オフィスの業績のフィードバックによってさらに適当に統御され、オフィスのサイバネティックスは幾重もの階層を登って企業のサイバネティックスに従属し、企業のサイバネティックスはまた幾重もの階層を登って国家のサイバネティックスに従属する。勿論この直線的な流れは別の流れや側枝を持ち、複雑な過程を経て最終的に一つの巨大なサイバネティックス、グローバル市場すなわち資本主義というサイバネティックスに従属するわけである。それぞれのサイバネティックス、それぞれの座標系のエコロジーは、それ自体コードによって純粋性を保ち、出口から別の空間にパラメータごと値を送り込むが、これらの断絶した複数の空間は、最終的に資本主義という巨大なサイバネティックスの、あちこちがちぎれ、縫い直されたつぎはぎのテーブルクロスを構成している。この良識、理性、光は、出口の門番としてひたすらに出力の安定を目指しているのであり、そこからシステムのあの無責任さ、ちょうど新型コロナウイルスのパンデミックによって僕たちが直面した学校の、企業の、国家のあの無責任さが帰結する。
 まさにここに新自由主義的自己責任論批判の焦点と盲点がある。木澤佐登志は「鬱病の原因はいつだって自分にあり、自分の不幸の責任は自分にしかなく、それゆえその苦しみを受けるに値する、と。再帰的な悪循環と無能感。ここから、また別の自己責任が招来してくる。貧困、機会の喪失、失業、それらもまた自分自身だけの責任であり、その境遇を受け入れなければならない」*32と書いているが、これは光=権力が責任者として命令するのではなく、責任を持つことになるのは主体であるという点では完全に正しいが、それをシステムの不正として糾弾しているという点で完全に誤りである。システムは無責任に始まり、無責任に作動しているからだ。


4 吝嗇家

君の思慮深さと正直が人々に知られているとすれば、年々六ポンドの貨幣を一〇〇ポンドにも働かせることができるのだ。毎日一〇ペンスを無駄使いすれば一年では六ポンド以上無駄使いすることになり、ちょうど一〇〇ポンドを借りるための対価となるのだ。自分の時間を毎日一〇ペンスの価値に当たるだけ(おそらく数分に過ぎぬだろう)無駄にすれば、一年には一〇〇ポンドを使える特権を無駄にしてしまったことになる。五シリングの価値にあたる時間を無駄使いすれば五シリングを失い、五シリングを海に投げ捨てるのと少しも変わらない。五シリングを失えば、その五シリングだけではなくて、取引にまわして儲けることができたはずのその金額も全部失ってしまったことになる。——そうした額は、青年が年配となるまでには、そうとう大きいものになるだろう。*33

 ベンジャミン・フランクリンのこの「吝嗇の哲学」は、資本主義の至る所に存在し、それどころか資本主義批判の至る所に存在する。時間のパラメータと価値のパラメータのこの厳格な対応関係が、あまりにも広範にわたって個人の自意識に組み込まれているのだ。確かに学歴のパラメータは学歴資本と呼ばれるし、教養のパラメータは文化資本と呼ばれる。しかしそうはいっても、こうしたパラメータは貨幣の量のように絶対的なゼロ点と厳密に数値化され計測されるような値をのせることはない。ではこのパラメータとは何か。それは如何にして客観的にはっきりと実在するように振舞うことが出来るのか。

個人を特徴づけていた現実的差異は、彼らを互いに相容れない存在としていた。「個性化する」差異はもはや諸個人を対立させることはなく、無限に続く階段の上に階層化していくいくつかのモデルのうちに収斂していく。差異はこれらのモデルにもとづいて巧妙に生産され再生産されるのである。それゆえ、自己を他者と区別することは、あるモデルと一体となること、ある抽象的モデルやモードの複合的形態にもとづいて自己を特徴づけることにほかならず、しかもそれゆえにあらゆる現実の差異や特異性を放棄することでもある。*34

ボードリヤールのこの指摘は、自己と他者を区別する限りにおいてモデルが再生産されるという事実を踏まえてのみ意味を持つ。パラメータが再生産されるのは、明日になっても自分が不細工であったり低学歴であったり低能であったりするのは、あの子よりも私がこのくらい可愛く、別のあの子よりも私がこのくらい可愛くない限りにおいてである。このあの子-私-別のあの子の線分がパラメータの構成要素となる。すなわちそれが別の主体を中心に形成された数々の別の線分と一致団結して、モンタージュとしてのつぎはぎのパラメータを、この場合もまたつねにすでにという性格で、あの主体化の過程を伴いながら形成する。高校に入学した井の中の蛙は現実を知り、社会の中での自分の本当の位置という「真の」認識に達することができるが、それは高校で自分よりも可愛い人間に出会ったというだけの衝撃ではなく、自分の線分が全体の一部でしかなかったという衝撃でもあるのだ。
 コード化と主体化の過程が問題含みなのは、貨幣という一義的な価値の表現方法を回避し、資本への従属を表向きは拒絶することがあったとしても、結局どこまでも資本主義的だからである。ドゥルーズ=ガタリは脱コード化された分裂病的な絶対的極限の公理系化された内在的な相対的極限への置き換えという資本主義の現象で、あらゆる剰余価値が貨幣の一義的な剰余価値の形式、x+dxに収斂することを表現している。コードという語をドゥルーズ=ガタリとは少し異なる意味合いで使ってきたが、ここで公理系化という現象も再解釈される必要がある。あらゆる剰余価値は貨幣だけではなく、なんらかのコード化されたパラメータに収斂されるのである。自撮りとノリのいいツイートを投稿する勉強アカは、わたしよりも可愛くないあの子との相対的な関係によって容姿のパラメータを、普通な生真面目なツイートとの相対的な関係によってノリの良さのパラメータを、高偏差値を記録できた模試の結果によって頭の良さのパラメータを再生産すると同時に、それらの三つのパラメータで表現された稀少な点である私も再生産する。その過程ではあらゆる流れ、あらゆる剰余価値が、私の座標を再生産する限りにおいて三つのパラメータでの自分自身の座標へと、容姿のパラメータでのx+dxへ、ノリの良さのパラメータでのy+dyへ、頭の良さのパラメータでのz+dzへと変換されるのである。いまや至る所でこうした「公理系化」の現象が見られる。インスタ映えに搾取されたあとのカスとしての食べ残し、自らの正当化に飢えた人々によってここぞとばかりに批判されるフェミニスト。あらゆるものを材料にして怒りを爆発させるミサンドリー、全てをDSにこじつける陰謀論者、ヤフコメ欄の主婦、街頭で他人の学歴をバカにするYouTuber、これらすべてが再生産する資本主義の最前線なのであり、時間と手間を惜しんで価値を簒奪する吝嗇の哲学に貫かれているのである。
 

 「鬱は資本主義に固有の病である」という木澤の命題をどのように受け取れば良いのか。彼は鬱病が資本主義によってどのように引き起こされ、それがどのように現象するのかについて、あまりにも乏しい分析しかしておらず、せいぜい以下のような記述にとどまっている。

能力主義社会では、入試試験に合格し、エリートコースに進めなかった者、社会の落伍者と見なされた人々は、グローバル化とオートメーション化に常におびやかされる単純労働作業に従事することを余儀なくされ、そこから抜け出すチャンスはついに訪れることはない。(...)つまるところ、現在の新自由主義リベラル能力資本主義を生きる、上位一パーセント以外の人々を支配するのは、マーク・フィッシャーの言うような「再帰的無能感」であろう。みずからが原因ではないのにもかかわらず、「自己責任」の名目のもとにすべての責任が個人に帰属されることによる弊害と無能力のフィードバック・ループ。この閉塞感には逃げ場がない。資本主義リアリズムに出口がないのと同じように。*32

能力主義社会で取り残された人々を、パラメータで負の値に座標づけられた人々として解釈しても問題はないだろう。自らの無能力のイメージを反復する人間の何と多いことか。今やネット上の至る所で彼らの叫び声が聞こえてくる。俺はダメだ、劣っている、私はブスだ、発達障害だ、等々。ドゥルーズ=ガタリは「壁をうがち、流れを交通させ、自分の機械や融合集団を飛び地や周辺の中に構築する」革命的分裂者的な備給として、「私は永遠に劣等人種に属する。私は獣だ、黒人だ。」という振る舞いについて語っている。

まともなひとたちはいう。逃げてはいけない。それはよくないことだし有効ではない。改革をめざして努力しなければならない、と。しかし、革命家は知っている。逃走は革命的で、引きこもりや気まぐれさえも、テーブルクロスを引っ張って、システムの一端を逃げ出させるのなら革命的である。*33

しかし、bio欄に発達障害、鬱、希死念慮、リスカ、OD、毒親、ネガティブな言葉を並べる病み垢は、全く革命的でもなければ、清々しいほどの革命家の逃走でもない。それは、脱領土化、脱コード化としての「私は永遠の劣等人種に属している」ではなく、一つの領土性であり、一つの秘密のコード化だからだ。そこではパラメータで負の値をとった劣等人種が、そのパラメータのx軸とxと負の相関を持つ秘密のy=f(x)のy軸からなるじめじめしたカタコンベで身を寄せ合っている。レッドピルを手にしたインセル、発達障害者は天才である、等々。しかし最も臭気が漂っているのは、不憫さのy軸を持つ孤独な空間、地下深くにひっそりと掘られた一人用の空間である。彼らは徐々に小さくなる声で言う。俺はこんな悲惨な目に遭った。どうだ、可哀想だろう?しかし、後半はもう誰にも聞こえない。なぜならそれは聞こえてはいけないからだ。パラメータは値の上昇を呼びかける限りにおいて欠如としての欲望と主体を喚起するが、主体は可哀想であることを欲することはできないからだ。少なくとも表向きは。だから、後半は他の誰かの声によって補われなければならない。誰かの声とは、自己憐憫の投稿につくいいねの数やフォロワーの反応である。彼らはこうしてツイートに勤しみ、手首の傷の本数を競い、不憫さのy軸で高得点を取り続ける。

 こうした中途半端な価値転倒の試みの過程では、報われなかった努力についての資本家のあの嘆きが聞こえてくる。

(...)自分は自分の貨幣を、これでより多くの貨幣を作り出すつもりで、前貸ししたのだ(...)こんなだまし射ちは、二度と食わない。(...)労働者がそれをもってのみ、またそれにおいてのみ、彼の労働を体化しうる素材を、自分は彼に与えたではないか?(...)自分はみずから労働したではないか?紡績工にたいする監視の労働を、総監督の労働をしたではないか?自分のこの労働も価値を形成するのではないか?紡績工にたいする監視の労働を、総監督の労働をしたではないか?自分のこの労働も価値を形成するのではないか?*34

 労働者でありかつ資本家でもある鬱病の吝嗇家は、こうして自らの苦しみから価値を形成しようとする。彼らは自分自身の劣悪な境遇を反復し、そこから秘密のy軸での剰余価値を簒奪する。~~で鬱、これ禁止カードだろ、等々。彼らは友人やフォロワーに自身の苦境を告白しながら、卑屈な上目遣いで応答に耳を澄ませている。あまりいいねされなかったな、じゃあ次はこういう書き方にしよう。フォロワーが増えた、やったぞ。鬱病の吝嗇家は1ポンド硬貨を数えるフランクリンのように、ベッドから起き上がれない重いからだのかろうじて動く指先で、いいねとリツイートの数を数えている。「悪くなればなるほど、良くなるのだ。いざ最悪の方へ……。」しかしそれが良くなるのは、ポジティブ・フィードバックによるシステムの崩壊によってではなく、ネガティブ・フィードバックによる小さな工場経営によってである。

 それは無責任な再生産を繰り返す。秘密の地下空間で剰余価値を得るためには、自分自身がx軸でマイナスの値を取り続けることが必要である。従ってこの小さな工場の経営者は利益を得るために絶えず社会性のパラメータを、美醜のパラメータを、有能さのパラメータを、自分を苦しめるパラメータを再生産しなければならない。ゲントのハインリッヒはメランコリー者について以下のように書いている。「彼らは自分の精神を位置と大きさを越えた高みに飛翔させる能力を持たない。彼らの考えるものはすべて空間・時間的なものであり、空間・時間の中に――点のように――位置を占めるものである。」*35これは空間化=主体化のプロセスが極めて鬱病的であることを示している。

 お前に何がわかる?俺の苦しみの一体何が。そうだ、僕には何もわからない。僕は何も知らない。あなたのことも、僕のことも。異邦人はそう答えて、吝嗇家のもとから立ち去る。「ここはむっとする。少し外との関係が必要だ:。」その前に異邦人はこう訪ねるかもしれない。あなたはあなた自身について一体何を知っているというのか。あなた自身がひとからどう視られているのかでびくびくしているではないか、と。吝嗇家の自己表現は、自前の良識の光と借り物の光が合わさって、いびつな色を帯びている。彼は何を恐れているのか。秘密のy軸で自分が高得点を出すことができるのかを恐れているのであり、不憫さのy軸で自分が高得点を出すことができるのかを恐れているのだ。なぜなら秘密のコードと不憫さのコードは、社会的に形成されるあらゆる一般的なコードと同様に、集団の合意によって形成されるからである。そのパラメータ上で自分は評価されるのか、されないのか。すなわちその恐れは、自分が資本に認められるのか認められないのかという葛藤であり、結局のところ資本主義のあの「公理系化」への期待なのだ。「鬱は資本主義に固有の病である」という命題の意味がこうして判明する。鬱は一つの小さな経済であり、資本主義なのである。

5 存在論的斜視

 なぜ人生に熱くなれないのだろう?いつか聞かされた素晴らしい人生は、僕が触れたところから色あせていった。やりたかったことは気づいたらすべて、やらねばならないことになっていた。やりたいことはたくさんある。でもどうして何もする気が起きないのだろう?時間が刻一刻と過ぎていく。予定表に書かれていた時間になっても、身体が動かない。本来だったら机に向かっているはずだった現在に対して、ベッドに横たわっている現在が遅延していく。「価値を欲すべし」の呼びかけが聞こえる。レヴィナスはこの遅延について書いている。

疲れるとは、存在するのに疲れることだ。どんな解釈をも差しおいて、疲労の具体的な十全性によってそうなのだ。疲労の単純さ、その単一性、その暗さにおいて、疲労は実存者によって実存することにもたらされる遅延のようなものである。そしてこの遅延が現在を構成する。*36


現在に遅れる現在という遅延、この不可能な遅延は、どこまでいっても不可能な遅延に留まる。やる気を出す方法11選。向上心が出る環境、生活の規則正しさ、目標の具体性など11のパラメータがやる気のパラメータの関数となり、時間tを含めた13次元の空間のなかにまさしく自分である点が座標づけられる。遅延は消えない。別の目標を立てる。次の試験でいい成績を残したい。再び空間のなかに座標づける。遅延は消えない。選択肢が増えるにつれて息が詰まっていく。現在地の座標は秒針と同じスピードで空間上を予定通り移動するが、身体が動かない。

 テレンバッハはメランコリー者にインクルデンツとレマネンツという二つの特徴を見出している。インクルデンツという語は、自分自身をある空間的秩序のなかに閉じ込め、その秩序から脱出することが不可能な状態、すなわち「みずからを閉じこめること」を意味している。レマネンツという語は「自分自身におくれをとること」であるとされる37。レマネンツとインクルデンツは、パラノイア的備給と分裂病的備給を行き来する振り子のように、吝嗇家と異邦人の間での審級の役割を果たす。すなわち吝嗇家においてはインクルデンツへの固執とレマネンツの拒絶が、異邦人においてはインクルデンツへの固執が不可能に終わる諦めとレマネンツの物憂げな受容があり、レマネンツとインクルデンツという二つの本質を有しているという点において両者は区別されることができない38。両者はともに到達すべき座標を見据え、そこへと歩を進め、己の足取りの遅さにたえざる焦燥感を抱かずにはいられないとはいえ、一方は結局目的地に達し、他方は気が付いたら謎の場所で足踏みをしている。両者はともに壁にぶつかったまま全力疾走するゲームのキャラクターとして同じ場所で走り続けるが、一方は方向転換して進行方向を取り戻し、他方は壁をすりぬけて暗闇のなかに迷い込む。両者の運命を分けるのは時の運でしかない。吝嗇家のなかにはいつも別の方向へ走り出そうとする異邦人がいるし、異邦人のなかにはいつも軌道修正をはかる吝嗇家がいるのだ。あのなぞのばしょへの郷愁が、リサフランクの音色とともに両者の耳に届いている。

 遺棄されたものを視る眼は、存在論的斜視の体験から始まる。遺棄されたものとは、搾取が起きている現場であり、コードがその上を滑らかに走り去っていくにもかかわらず、コードがそこでほつれているものである。それは空間とコードの再生産のために必要な犠牲であり、グローバル市場が難なく機能するにもかかわらず、いやそれゆえに放置されるイラクの内戦や、クラスメイトのにぎやかな会話の材料として笑いものにされる、教室の端で寝たふりをしている同級生である。それは投稿者の小顔アピールに利用された友人の顔の大きさであり、子供が無邪気に破り捨てるクリスマスの包装紙である。それは三種のチーズ牛丼を頼む男の似顔絵であり、丁寧な暮らしのための家具の製造過程で伐採された森林や、ファストファッションの巨大企業のサプライヤー会社でミシンを使う発展途上国の子供であり、アントワーヌ・ロカンタンが浜辺で見つけた小石であり、最終話の大団円のシーンでヤンチャなクラスメイトを追い回す委員長の怒りである。

 存在論的斜視は、ありえないはずの遅延、しかし解消不可能な遅延、コップに伸ばすはずの自分の手に遅れる実際の手の体験や、文字の上をすべる眼の体験を通して理解されねばならない。それは、遅延を誘因としていくつもの異質な光が「同じもの」を同時に照らし、別々の空間に座標づける視覚の混乱であり、光景の混乱、たえざるゲシュタルト崩壊である。白色光が実は赤色光線であったり、やはり白色であるかもしれないのだ。これが緑色なのか青色なのか、もうわからない。カラスは白いか?はい、あなたがそうおっしゃるなら。存在論的斜視はコードを幻視し、あるいは見失い、コードを引き伸ばして別の空間に混入させ、あるいはそれを空間から追放する。存在論的斜視はあらゆる方法で視させる権力としての光をかく乱し、空間を歪ませ、地形を疑い、主体をデリートする。ある離人症者の証言。

自分というものがまるで感じられない。何をしても自分がしているという感じがしない。感情というものがいっさいなくなってしまった。音楽を聴いてもいろいろの音が耳の中へ入り込んでくるだけだし、絵を見ていてもいろいろの色や形が眼の中へ入り込んでくるだけ。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらの無数の今が、今、今、今、今と無茶苦茶に出てくるだけで何のまとまりもない。空間の見え方もとてもおかしい。奥行とか、遠さ近さとかがなくなって、何もかもひとつの平面に並んでいるみたい。何を見てもそれがちゃんとそこにあるのだということがわからない。*39

 存在論的斜視は、空間からの絶えざる遅延、いつ終わるか分からないロード中の時間であり、空間の奥行を見失い、時間の連続性を失い、主体性を失う視覚である。アンネはこう言っている。

はじめのころ、痛い感じがはじまったのは、なにもかもが疑問になったときでした。いろんなものごとの感じがないのです。たとえば病気とか苦しみとかそれも、いやなことばだけではなくて、喜びとか、健康とか、歳をとるとかいったことばの意味もわからないのです。こういった言葉の意味がわかる前に、まずはじめに痛い感じがするのです。*40

自明性の喪失は、単に光を持たないことを意味するのではない。それは様々な光によって照らされること、どの光に頼ればよいのかわからなくなることをも意味している。「存在するということは、お母さんのやり方を信頼するということです。」「なにもかも、ほんとになにもかもがとても疑わしいのです――生きているということも!」

 存在論的斜視の経験についてロカンタンはこう書いている。

<余計なもの>、それだけがこれらの樹々、これらの柵、これらの小石の間に私が樹てることのできた唯一の関係だった。マロニエの樹の数を<計算し>たり、ラ・ヴェレダとの関係において<位置をきめ>たり、その高さをすずかけの樹と<比べ>たりしても無駄だった。それらのものはそれぞれ、私がそこに閉じこめようとした関係から逃げ去り、孤立し、溢れでていた。*41

 重度の斜視で右目の視力をほとんど失ったサルトルは、二つの視線の交点としてではなく、ただ一方向から存在を見つめ続ける。「人間は、世界についても、自己自身についても、存在のしかたに関する限り、その責任者である。(...)事物の逆行率や、その予見不可能性をまでも決定するのは、私ではないだろうか?」*42

6 立ち去り

 「死にたい」という表明は、或る意味で十分に理のかなったものである。というのもそれは、自分自身の肉体や精神的特徴が与えられ、それを所有することになったあの一方的な契約に立ち戻っているからだ。この立てこもり犯は一切の始まりである光に対して、まさに自らの命を人質にとって応答を求めているのである。彼/彼女は光に、世界に問いかけている。この命は、この存在は、一体誰のものなのか、それはどれほど価値があるのか、と。自分がそれであるこの座標の責任はどこにあるのか。母さん、どうして俺なんかを産んだんだ。どうして私にあんな言葉をかけたの、ねえ、どうして?しかし、残酷だが当然な結果として、応答は与えられない。なぜなら世界は初めからずっと無責任だからである。
 この無責任は、はやく治るといいね、という言葉がどれほど残酷に響くのかを知らない。精神科医が発達の遅れについて「少しづつ取り戻していきましょうね」と言うときや、離人症を「現実感喪失」や「彩度の低下」として表現し、分裂病を「統合失調症」と表現するとき、患者がどんな絶望に囚われるようになるのかを。少しづつ取り戻していきましょうね、という呼びかけは、患者と世界の間に一つのコード、一つのパラメータを設置し、患者をそのパラメータ上の負の値として、すなわち欠如として主体化する。現実感の低さ、統合度合の低さ、発達度合の低さから見られた正常値との距離、この絶望的な距離、普通の人との、皆との、「本当の生」とのこの距離を、精神医学は無責任に設置する。地獄に垂らされた一本の糸。取り戻すことを欲すべし。でもどうやって?
 無責任を告発することに意味はない。この無責任は、それがなぜこんなにも多くの人間が自殺しているのかの理由だったとしても、責任を取る主体が不在だからこその無責任だからだ。従ってビョンチョル・ハンが言っていたような「憤慨」は不十分である*43。それはパソコンのエラーメッセージに対して怒鳴ること本質的に変わらないかもしれないし、新たな無責任なコードを生むことになるだけだからだ。重要なのは、本当の生、本当の価値、本当の幸福、本当の喜びから、本当に見放されているのか否か、ということだ。立ち去りという壮大な実験が始まる。コードの真偽を見極める危険なプロセス、統計的な一般性と個別性との生死を懸けた対決が。
 
 今、加速主義について立てた二つの問いに答える材料がすべてそろっている。資本主義はなぜ加速されるべきなのか。なぜなら「現代」は訪れるはずだった未来、本当の生からの遅延だからである。80年代につくられた資本主義の座標系での、時間tに対する遅延だからである。訪れるはずだった未来からの遅延を生きる加速主義者のなかでは、「自分自身へ遅れること」すなわちレマネンツの拒絶が渦巻いているのだ。そして、資本主義の出口とは何か。それは、「現代」が資本主義の内部であるという表明であり、斜視を恐れ、資本主義の座標系を再生産しようとする意志である。それは、「みずからを閉じこめること」、インクルデンツへの固執である。「失われた未来」とは、この約束された繁栄からの遅延を受け入れられなかった加速主義者が設置する絶望のコードであり、よじ登ることが不可能な蜘蛛の糸、訪れるはずだった本当の未来と現在の間に距離を創設する声であり、資本主義の座標系を補強し再生産する声である。それは「少しづつ取り戻していきましょうね」を呼びかける声であり、あの絶望的な主体化であり、吝嗇の哲学なのである。

 Vaporwaveは呼びかける声の破損と主体化の拒絶によって「失われた未来」から立ち去る。░▒▓新しいデラックスライフ▓▒░の「 ▣世界から解放され▣」というアルバムは、アーティスト名、アルバム名、曲名、曲の構成のすべてにおいて、呼びかける声を機能不全に陥らせている。そこで使われるすべての言葉が現実的な意味を持たないまま浮遊し、テレビCMの音声は文章になる前に切り刻まれ、一部を不気味にループさせられ、次の瞬間には全く別の曲が始まりぶつ切りに終る。それは主体化する声への徹底的な拒絶であり、この音楽の価値がわかるかわからないかを呼びかける声すら存在しない。

 天気予報の「真夜中の天気」は、繁栄を約束する資本主義の座標系が形成された時代に立ち戻って、当時の天気予報の音を収録している。天気予報は次の日になってしまえば全く意味はなくなる。何十年も前の沖縄県の天気を知っても何の役にも立たない。天気予報は放映された瞬間に消費され、そのあとは遺棄されるのだから。当時の天気予報を伝える声を現代において聴くことは、その声が機能不全に陥り、破損していることの発見なのである。

 Vaporwaveは80年代を参照することで、80年代を支配していた消費や豊かさのコードが、長い年月を経て弛緩し、ほつれていることを示す。70年代から90年代にかけてアメリカ全土に店舗を展開し、21世紀に入ってからはWalmartなどの競合他社に敗北し破産したホームセンター、K-martの店内GMやテレビコマーシャルをVaporwaveが頻繁に用いることで、当時の「消費せよ」の呼びかけが既に主体を創設する力を失っていることを示しているのだ。

 INTERNET CLUBの「VANISHING VISION」は、異邦人の斜視の体験である。そこでは様々なコードが飛び交い、抽象的な虹色の光景の創設と崩壊が、こことは薄布で仕切られているような向こうで繰り広げられる。色あせ、ぼんやりした、変わり映えの無い視界。ビルの窓明かりが通りを照らし、ネオン看板の色とりどりの光が「いらっしゃい」と呼び掛けている。繁華街を歩く異邦人の眼が移る。どの店に入ろうか。それとも通りを抜けてタクシーで家に帰ろうか。何も決められないまま、スペクトルの幻惑的な眩暈で、異邦人の視界は色あせ、ぼやける。しかしこの異邦人の視線は、コードがそこでほつれている点、あの「いらっしゃい」とこの「いらっしゃい」のコードが互いに衝突し、砕けている点、だがもうどの座標系の点なのかわからない点、もはや点ではない点を見つめている。異邦人の斜視は、晴れ渡った昼下がりに咲いている向日葵を見つめ、LEDのバーライトで照らされたオフィスで手元の資料を見つめる視線ではない。それは、光がコードを再生産し、従って光景を再生産するにもかかわらず、そこでコードがほつれているもの、座標系に確かに位置づけられているにもかかわらずそこから逸脱しているもの、すなわち遺棄されたものを視る視界である。遺棄されたものは座標系の窮屈さに抗しているのではなく、壁にめりこんで振動する3Dオブジェクトのように静かに逸脱している。アンネは自明性のコードによって自分自身を絶望の空間に位置付けた。しかしVaporwaveはそんな空間からの立ち去りを示している。

  a e s t h e t i cとは、繁栄を約束する座標系のあらゆるコードや呼びかける声、浜辺のヤシの木、スポーツカー、夜の街のネオンの光とWindows95の起動音に対しての、異邦人の孤独な呟きである。アルファベットの一つ一つの間にスペースが入っているのは、その呟き自体が座標系のなかに主体を呼び起こす声になってしまうことを拒否しているからだ。Vaporwaveは過去への単純なノスタルジーではない。というのも、もしそうだったとしたら切り刻んでリヴァーヴをかける必要などないからだ。Vaporwaveは90年代以降に生まれた人々が中心となって制作されたという事実について、木澤は「ミレニアル世代にとって、「未来」とはもはや「喪失」に他ならないのだ。そのようなノー・フューチャーな状況のもとでは、若者たちはノスタルジアと「失われた未来」に取り憑かれる」*44と言って、「失われた未来」の座標系に彼らを連れ込む。こんな馬鹿馬鹿しい仮説を笑い飛ばさずにいられようか。多くの製作者やリスナーはそもそも繁栄の神話が生まれた時期に生まれていないというのに。彼らは「失われた未来」の座標系の異邦人なのである。Vektroidはインタビューでこう語っている。

クィア(異性愛やジェンダーバイナリズムのみに当てはまらない人)な人間として、この社会に居心地の悪さを感じている人間として、その目線で世界感を表現しようと今までやってきました。それまでは、人とのコミュニケーションにいつも緊張感を感じていました。でも、音楽は他人とわかりあうだけでなく、自分自身と対話して、この人生のなかで何が大切かを発見するための術となりました。私の音楽は、ほとんど私が聴いていたものから生まれています。子どもの時に世界をどのように観察していたかを思い出させてくれる日記でもあるんです。だから、ポップなビデオゲームや、サイバーパンク、90年代のコマーシャルソングなどの影響が見えるんです。*45

 彼女の言葉の一体どこに「失われた未来」にすがる絶望が見出せるのか。INTERNET CLUBは幼少期の音楽の趣味についてこう語っている。

多分11歳くらい(2007年の夏頃)までは、音楽との関係はぜんぜんなかった。その頃は、初めてノートパソコンを手に入れてインターネット上で人生を無駄にしていたよ。*46

 異邦人は一つの同じa e s t h e t i cのなかに消費社会と消費社会批判を投げ込んでごちゃまぜにする。なぜなら消費社会批判は結局のところ消費社会と同じ座標系で行われるからだ。a e s t h e t i cとは、「失われた未来」のコードから立ち去り、繁栄を約束する資本主義の座標系から立ち去った異邦人が、外側からそれらの座標系を眺める目線である。すなわちそれは、加速主義者が血眼になって探している資本主義の外側なのである。

 立ち去りの実践は、自分自身を遺棄されるがままにすることで成就する。授業中に音楽を聴いているわけではないのにヘッドフォンをつけ、別の授業では机に置いたヘッドフォンから音楽を微音量で流す学生について書いているところで、マーク・フィッシャーはこの学生がすでに彼の前から立ち去っていることに気が付かない。

それは、ヘッドフォンが耳にあるという存在感、または音楽が(聞こえないにせよ)流れているという了解によって、母体がまだ手の届く範囲に或る、という安心感を得ることができるからだ。それに、インターパッシビティの典型例のように、もし音楽が鳴り続けていれば、自分には聞こえなかったとしても、ミュージックプレイヤーは自分の代わりにそれを楽しむことが出来る。ここでヘッドフォンが使用されていることは意義深い。というのも、ポップミュージックは公共空間に対して影響力をもち得るものではなく、むしろOedipod的な消費=至福へ引きこもるための、社会性に対する壁として経験されるからだ。*47

 実のところ、ヘッドフォンから音楽を垂れ流す学生は、教室中の特定の座標で自らを遺棄されるがままにし、また音楽をきちんと聴くことも拒否することで、「学歴を欲すべし」の呼びかけと「音楽の理解を欲すべし」の呼びかけを衝突させて粉砕し、教室と音楽の両方の座標系から立ち去っている。フィッシャーが「まるでハンバーガーをほしがるような感じでニーチェを読もうとする学生」に、「彼らは、この消化のしにくさ、この難しさこそがニーチェであるということを把握しきれない」として批判的に光を当てるとき、彼はまたしても立ち去りを見落とす48。すなわち、彼の「ニーチェの理解を欲すべし」の呼びかけから、学生が立ち去っていることを。ニーチェの言葉が主体化する呼びかけと同じならば、そんな息苦しいところからは立ち去ればいいのだ。ツァラトゥストラはこう言った。「わたしの涙をたずさえて、あなたの孤独の中に行きなさい」と49。

 一体誰が吝嗇家で誰が異邦人なのか。ここが故郷なのかそうではないのか。僕にはわからないし、どんな光が彼らを照らすのかによって答えは変化するだろう。確かなのは、それが立ち去りの実践のなかで判明するということだ。自分の視界がどんな光のもとにあるのか、自分自身がどんな隠された経済を駆動させているのか。異邦人は知っている。異邦の地での自分の存在、自分がそれである座標、すなわち自分の資本、自分の財産が、増えるのか減るのか、価値があるのかないのか、そんなことはどうだっていいということを。座標系から、空間から立ち去ること、それは「欲すべし」の呼びかけを破損させ、それに見切りをつけることである。
 吝嗇家は恥辱を恐れている。なぜならそれは一夜にして財産を失って逃げ出す王族のみすぼらしさであり、一文無しの表情だからだ。吝嗇家は後悔することを恐れている。なぜなら何年後かに自分が何を欲望することになるのか、自分がどのような主体なのかがわからないからだ。立ち去りのプロセスは、本当に恥ずべき事とは何なのか、本当に欲望すべき事とは何なのかの、人生を懸けた実験である。Vaporwaveの方法に倣って、面接官の声を録音し、低速させ、エコーをかけることでもいい。コードを創設するネット記事を翻訳にかけ、再び翻訳にかけることでも。SNSや掲示板の投稿を再翻訳するbotを作ることでも。かつて愛していたもの、名残惜しいものを切り刻むこと。自分を拘束する言葉に全角スペースをねじこんで、アカウントを消せ。重要事項を聞き逃し、それが本当に重要だったのかを検証すること。急を要する選択を遅延させて、何が起きるのか確かめること。その時に出会う抵抗は、吝嗇家の抵抗である。闘争領域という絶望の空間から、ティスランは最初から立ち去っていた。少し遅れて主人公もそこから立ち去っていく。闘争を生きることの諦念、そしてかすかな爽やかさとともに。

数年来、僕はひとりの亡霊とともに歩いてきた。そいつは僕にそっくりで、机上の楽園に住み、世界と密接にかかわっている。僕は長いことそいつと行動を共にするのは自分の義務だと考えてきた。それももう終わりだ。僕はもう少し森の奥へ進んでいく。地図によれば、この山の向こうにアルデッシュの水源がある。それはもうどうでもいい。とにかく僕は先へ進む。もうどこが水源かも分からない。今やどこもかしこも似通っている。景色はますます和やかで、気持ちのいい、陽気なものになる。そのせいで肌が痛い。僕は裂け目の中心にいる。自分の肌を境界のように感じる。そして外部の世界を壊滅的な圧力のように感じる。分離はすみずみまで行き届いたようだ。このさき、僕は自分と言う檻の囚人だ。崇高な融合なんて起こらない。生存の目的は達せられなかった。現在、午前二時。*50

 まともなひとたちはいう。主体性をもって積極的に行動しよう。何に悩んでいるのか教えてごらん、と。しかし、異邦人は知っている。彼らは決められた答えしか求めていない。沈黙すること、あるいは嘘八百を並べることは、立ち去りを遂行させることができるのなら革命的である。つぎはぎのテーブルクロスの一部しかもぎ取ることが出来ないのであれば、もぎ取られた一部がすぐにまた縫い付けられてしまうのであれば、逃走は革命的ではない。分裂症的な逃走が社会的にコード化され、それが多すぎる選択肢の一つになっているのであれば、異邦人はそこから静かに立ち去る。立ち去ることがまた別の意味での拘束を意味したとすれば、そのときは立ち去りではない別の方法を創り出す。何が好きかで自分を語ることの代わりに、新しい表現が必要だ。新しい言葉が、新しい色や形、新しい運動、新しい何かが。
 美醜のコードから立ち去ることは可能なのか。不細工で低学歴で鬱病でも幸せに生きることは可能なのか。或いは幸せではなくとも価値のある生を生きることは可能なのか。或いは価値のない生を生き抜くことは可能なのか。好きなものが何もなくても生きることは可能なのか。鬱病を生き抜くことは可能なのか。離人症を生き抜くことは可能なのか。価値の有無を誰が決めるのか。本当の生がここにあるのかどうか。一生不細工のままなのだとしたら、「容姿の美しさを欲すべし」の呼びかけが一体なんだというのか。一生苦痛しかないというのなら、苦痛の定義とは何なのか。前代未聞の問いが始まる。一生発達の遅れが治らないのだとしたら、成長という概念にもう用はない。僕の奇妙さを嗤え、私の愚かさを嗤え、俺の気持ち悪さを、醜さを。再生産が差異の消費に根付いていることを忘れてはならない。吝嗇家が差異に飛び付いたとき、それは吝嗇家が罠にかかったときである。差異を、気持ち悪さを、醜さを、くれてやれ。異邦人は知っている。彼/彼女は何も失ってなどいないということを。
 アンネは自殺した。彼女の判断が正しかったのか、僕にはわからない。自殺することは間違いなのか、僕にはわからない。しかし、自殺して統計の上での1となるか、矛盾を背負う覚悟とともに、あらゆる物事に疑問符を投げつけて生きるのか、後者を選択したのならば、自分自身の問いに生きることで答えを示せ。本当の生を挑発せよ。それが本当に俺に関係があるのか否か。お前に見放されたとしても、俺は何も失っていない、と。
 
 この悲しみの色があなたにも見えるか。ある声を聴くことで聴き逃された他の声の悲しみ、届かなかった言葉の悲しみ、僕のことを誰もずっと理解しようとしてこなかったこと、僕がずっと誰のことも理解しようとしてこなかったこと、理解しようとすることで理解してこなかったことの悲しみ、ずっと遺棄されてきたこと、ずっと遺棄し続けてきたこと、これからも遺棄し続けるであろうことの悲しみ、吐き捨てるように使ってきた言葉の重み、僕の筆跡やイントネーションの癖、どもりやくぐもった声、作り笑いや媚びるような目つき、泳ぐ目線、服の選び方、勉強の仕方、物の視方の角ばった表面が裏切ってきたもの。喜ぶべきことに喜びで答えられなかったこと、悲しむべきことに悲しみで答えられなかったこと。あちこちに悲しみの色が滲んでいるのが見えるか。水飲み鳥のように滑らかなエスカレーターの動きのなかに、ゼンマイ人形の地面を滑る足取りのなかに。厚みのない表面をすり抜けて重なる3Dモデルのように、遺棄されたものが堆積して、世界を覆っていく。この悲しみを照らしているあなたの光に向けて、僕はこれから文章を書き続けるだろう。全てはこれからだ。ほんとうは、あらゆることについて僕はまだ何も理解してはいないのだ。


脚注

*1 W・ブランケンブルク『自明性の喪失』木村敏他訳、みすず書房、1978年、73頁。
*2 同上、74頁。
*3 同上、86-87頁。
*4 同上、75頁。
*5 ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳、河出文庫、2008年、212頁。
「哲学は、別の関心事をもつ国家や宗教の役には立たない。それは、いかなる既成の力能〔権力〕の役にも立たない。哲学は悲しませるのに役に立つのだ。誰も悲しませず、誰も妨げない哲学など、哲学ではない。哲学は愚劣を防ぐのに役立ち、愚劣を或る恥ずべきものにする。それは、思考の下劣さをそのあらゆる形態のもとで告発すること以外の使用をもたない。その源泉と目的がいかなるものであれ、あらゆる欺瞞を批判しようとする学問が、哲学以外にあるだろうか。」
*6 ジャン=ポール・サルトル『存在と無Ⅲ』松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫、2007年、122頁。
*7 ジャン=ポール・サルトル『存在と無Ⅱ』松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫、2007年、382頁。
*8 同上、184頁。
*9 ベルクソン『時間と自由』中村文郎訳、岩波文庫、2001年、24頁。
*10 『存在と無Ⅱ』、461頁。
*11 同上。
*12 ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』高桑和巳訳、以文社、2003年、45-46頁。
*13 ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、河出文庫、2018年、16頁。
*14 Adam Harper ”Comment: Vaporwave and the pop-art of the virtual plaza”, DUMMY. 詳細は以下を参照: https://www.dummymag.com/news/adam-harper-vaporwave/
*15 木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う<ダーク>な思想』、星海社新書、2019年、165-166頁。
*16 ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』五井健太郎訳、講談社、2020年、26頁。
「「声」とは民主主義それ自体のことである。声は民衆の意志を代表するものとして国家を設計し、いかにして声を聞き届けさせるかが政治そのものと同義であることになる。政治的な権利を付与された民衆による大衆的な自己表現としての選挙が、この世界を覆いつくす悪夢である以上、その喧騒にたいしてなにかを付けくわえたところで、そんなことにはなんの意味もないわけだ。<平等>対<自由>ではなく、<声>対<出口>これこそが目下高まりつつあるオルタナティブであり、ようするにリバタリアンたちは、声なき戦いを選択しているのだといえる。」
*17 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』宇野邦一訳、河出文庫、50頁。
*18 同上、60-62頁。
*19 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う<ダーク>な思想』、109頁。「だが、なかでもランドが参照するのは、この書物の中で概念化されている「脱領土化」と「再領土化」という二項対立である。(…)ランドは、このペアのうち「脱領土化」のみを徹底的に推しすすめるべきであると提言する。」
*20 『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』、62頁。
*21 『暗黒の啓蒙書』、21頁。
*22 『世界の名著<第12> 聖書』中沢洽樹他訳、中央公論社、1968年、59頁。旧約聖書創世記より
*2 なんでも実況(ジュピター)の書き込み。詳細は以下を参照:「陰キャの特徴ってなんや?」https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1635701097/
*24 ルイ・アルチュセール『再生産について イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』西川長夫他訳、平凡社、2005年、266頁。
*25 エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』藤岡俊博訳、講談社学芸文庫、2020年、336頁。
*26 ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』今村仁司他訳、ちくま学芸文庫、1992年、152頁。
*27 『自明性の喪失』、137-138頁。
*28 デカルト『方法序説』谷川多佳子訳、岩波文庫、1997年、18頁。「(…)こうしてわたしは、われわれの自然〔生まれながらの〕光をさえぎり、理にしたがう力を弱める恐れのある、たくさんの誤りからだんだんに解放されたのである。」光=理性=良識は、それが「この世でもっとも公平に分け与えられている」(8頁)という前提(良識)を持ち、「明晰判明」性のために不可欠であるという二点から、光を持たない者の存在を、抹消するというより明晰判明に分類して遺棄し、お前も光を持っているのだというように視させようとする権力として働きうる可能性が生じる。
*29 『自明性の喪失』、131-132頁。
*30 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う<ダーク>な思想』、178-179頁。
*31 ウィーナー『サイバネティックス 動物と機械における制御と通信』池原止戈夫他訳、岩波文庫、2011年、191頁。「これらのことからわかるように,外界に対して有効な動作を行うには,健全な効果器(effector)を持つばかりでなく,次のことが重要である.すなわちこれらの効果器の動作を適当に監視して中枢神経系に送りかえし,これらの監視器の読みを感覚器官から入ってきた他の情報と適当に結合してから,適当に調節された出力として効果器に送るということである.」ここでは運動失調症の患者がどのようにしたら正常な動作をすることができるようになるのかが書かれており、サイバネティックスの発想が正常と異常の良識的な区別と正常化を目指す理性を前提していることがわかる。
*32 木澤佐登志『失われた未来を求めて』、大和書房、2021年、223-224頁。
*33 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989年、42-42頁。
*34 ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司他訳、紀伊國屋書店、2015年、132頁。
*32 『失われた未来を求めて』、214-215頁。
*33 『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』、120頁。
*34 マルクス『資本論(二)』エンゲルス編、向坂逸郎訳、岩波文庫、1969年、31-33頁。
*35 テレンバッハ『メランコリー』木村敏訳、みすず書房、1978年、218頁。
*36 エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳、ちくま学芸文庫、2005年、66頁。
*37 『メランコリー』、「ここでは境界は、「みずからを秩序の中に閉じこめること」(Sich-einschließen in Ordnungen)として、求心的防衛(konzentrisch-defensiv)の意味方向をもつ。(…)メランコリー親和型の人が境界のうちに閉じこめられ、あるいは自分を閉じこめるという布置、この境界を乗り越えてみずからの秩序の規則正しい営みに到達するということが遂には不可能になってしまうという布置——インクルデンツという現象によって示されているこの布置は、内因性メランコリーの病変にとっての決定的な病因的観点をわれわれに提供してくれる。」(248-249頁)、「キルケゴールがこの《精神生活における停滞》ということばでいおうとしていることは、「自己自身におくれをとること」(Hinter-sich-selbst-zurückbleiben)であり、これがレマネンツ(Remanenz)である。(...)以下において示したいのは、レマネンツがメランコリー親和型の人の精神病以外の時期における平均的なありかたを特徴づけるような構造であること、またそれが前メランコリー的状況へと向かって状況が変化する可能性の基礎をなしており、現存在の発展を緩徐化し、それを停滞のせとぎわまで追い込みうるものであること、である。」(267頁。)
:*38 ここから明らかなように、僕は鬱病者を資本主義者や吝嗇家として批判したいわけではない。そうではなく、吝嗇家と異邦人をめぐる問題が、きわめて鬱病的かつ資本主義的なのである。
*39 木村敏「西田哲学と私の精神病理学」、西田哲学会『年報』第十号所収、2013年、21頁。
*40 『自明性の喪失』、145-146頁。
*41 ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』白井浩司訳、人文書院、201頁。
*42 『存在と無Ⅲ』、312-314頁。
*43  ビョンチョル・ハン『疲労社会』横山陸訳、花伝社、2021年、60頁。「現代社会に広く見られる加速化や過剰な活動のなかで、私たちは憤慨することも忘れてしまっている。(…)憤慨は現在をその全体において問う。(…)不安と同じく、憤慨も個別の事態には関係せず、全体を否定する。この点に、憤慨の否定性というエネルギーの本質がある。」しかし、一体何に対して憤慨すればよいのか。僕が問題にしているのは憤慨する対象を選別する良識を「喪失している」事態である。
*44 木澤佐登志「ミレニアル世代を魅了する奇妙な音楽「ヴェイパーウェイブ」とは何か」、現代ビジネス、2019年。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59738?page=2
*45 「#3 過去ではなく、未来に。——Vektroid インタビュー」、TABI LABO、2018年。https://tabi-labo.com/289089/vw-vektroid
*46 『MASSAGE 9』、2014年。
*47 マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ他訳、堀之内出版、2018年、67-68頁。
*48 同上、66-67頁。
*49 ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳、岩波文庫、1967年、108頁。
*50 『闘争領域の拡大』、202頁。


(文責:a/イラスト:manpowerspot

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