#29

年度が変わりました。学校を卒業し社会人と呼ばれる身分になる人や、住み慣れた場所を離れて新天地で頑張ることになる人など、出会いと別れの季節と言われております。他方でわたくし、部署は特に新人が入るでもなく、また仕事の内容的にも年度に区切りがあるようなそれではないので、実にいつも通りな4月初旬を過ごしております。

身の回りに特に年度を跨いでの変化がないとはいえ、何かしら区切りがあるとするならば、社会人と称される身分になった年数が、この4月1日をもって3年目から4年目になったということがあります。このブログというかnoteをはじめたのは2021年9月、"社会人歴"まだ半年のペーペーでありました。それから約2年半経ち、この散文集もなかなか続いてきたものです。会社が変わり、家が変わり、iPhoneが変わりました。2年半そこらとはいえ、累積で見ると少しずつ人生は変わっているようです。

来月の半ば、高校でクラスが同じだった友人と夕食を共にすることになりました。彼女とは7年前の高校卒業以来、これまで会って話したことは一度もなかった上に、そもそも在学時にも長い時間ちゃんと話をしたこともなかった気がします。そんな友人ですが、卒業後もSNSを知っており、なんとなく動向が目に入ってはいました。転職してわたしと近そうな職種の仕事に就いていたり、なんとなく気になるなーと眺めていたところで、ひょんなことから軽率に声をかけてみたところ、トントン拍子でごはんどうですか話になり、僥倖にもこうした予定が生まれるに至りました。

これに限らず、昨年の後半以降、これまでなかなか会ってなかった人とひょんなことから会って話したりする機会が、以前より明らかに増えているような気がします。同い年の人であれば、大学時代は大学の交友関係を軸に置いていた人たちが、社会に出たことにより、大学時代と大学以前のそれがフラットになり、彼ら彼女らの交友関係における選択肢として再び浮上しやすくなったのかもしれません。あるいは住むところが変わり、東京都内などわたしの近所がそうした人たちにとって単純に近くなったのかもしれません。ただそれだけでなく、わたし自身がなんとなく昨年後半以降、少し会う人の広がりが出たような気がしています。その要因の一つとして、やはり自由な時間が以前より増していることがありましょう。

わたしは昨年5月から完全に独り身の身分なのですが、自分の可処分時間をすべて自分の好きなように使うことができており、なおかつ一人暮らしであるということから、好きなときに好きな場所へ行ったり、人間関係のしがらみなく自由に会いたい人に会いに行くなど、自分の人生の主権を今までで一番自分に帰している実感があります。これはなかなかクオリティ・オブ・ライフの高いことなのかもしれない、ということを少なくとも自分の中では実感しており、同時に自分が世にいう一般的な恋愛的なものに向いていないのだろうなという感覚も一緒に覚えていたりしています。交際相手がいたとしても、その相手を理由に交友関係が著しく制限されるということは概してそこまで多くはありませんが(もちろん限度はありますが)、相手と呼ばれる人の存在が、己の交友関係の広がりに対する心理的な枷に少しはなってしまうというのも間違いではありません。少なくとも、人間の時間は誰に対しても有限である以上、特定の相手を特定のポジションに置くということは、その相手とそれ以外の人の扱いに多かれ少なかれ優位な差をつけることが求められますし、前者に対して多くの時間を割こうとすれば後者に充てられる時間が少なくなってしまうのは詮方のないことでしょう。

(おそらく)誰かにとって自分が特別な存在になれる、というのが一般的に言われる交際と呼ばれる行為の利点(というとあまりに損得的な言い方になってしまいますので「理由」と言い換えてもよいでしょう)と思われますが、それを得るためにはその逆、すなわち誰か特定の人物に対して少なくないリソースを割き続けるという行為(=テイクに対するギブ)を続ける必要があります。その「誰か」に対して誰に頼まれるでもなくそうした少なくない(敢えて言えば)犠牲を払えるのであればもうそれで充分なのですが、残念ながらそう思えない場合、あるいは最初はそう思えていたが次第にそう思えなくなってしまったような場合、その犠牲を払い続ける合理性がない以上、無駄な骨折りをし続ける必要があると言わざるを得ません。詳しくは誰も興味がないと思うので書きませんが、結局のところ上記のような変化もあり、これを無理に続けても誰のためにもならないなと思ってしまい、短くはなかったそれに終止符を打つに至ったのが昨年5月のことでした。(うすうす感じていたのが徐々に増大してピークになって突然にそれを切り出してしまったので、そういう意味で罪悪感がない訳ではないですが、一方で自分の人生を守るためにこれ以上時間を浪費するわけにも行かなかったのも事実でした)

そんなこんな(と雑にまとめますが)あり、仕事も前職より労働時間少なく、通勤時間も引っ越しにより圧縮されたことから、自身の可処分時間は就職以来おそらく最長になっており、また心理的な自由度ももっとも高い状態で、約10ヶ月ほど経ち。実のところ、自由に羽根を伸ばせる開放感が8ぐらいありつつ、いざとなったら結局わたしは孤独なのでは?というちょっとした憂いも2ほどあります。この8:2は、常にその比率で存在しているというよりかは、だいたいは8側なのですがたまに2側に倒れる、即ちその時々のメンタルのコンディションによります。向こうしばらく人と会う予定がなかったり、それなりに会ってた人との約束が途絶えたりして、土日のいずれも予定がゼロみたいな状態になると割と2側に傾きます。こればかりは自由であることの裏返しみたいな側面でもあるかとは思い、そういうもんだろと8のときは理解してますが、2のときはちょっと辛くならないこともないです。ないですが、そうはいってもすぐにどうこうできるものでもないので、なんとなくのつらさをなんとなく紛らわせるしかありません。本を読むとか、音楽を聞いてぼーっとするとか、あたりを歩き回るとか、知り合いの店に顔を出すとかして、その時々をうまく往なしながら、のらりくらりと生きていくのです。

心理的に自立することは依存先を多数増やすことだ、みたいなことを誰かがどこかで言っていました。今の状態になって十数ヶ月経つわけですが、連絡を取る友人とは連絡を絶やさないようにしながら、常に新たな交友の広がりには貪欲にありたいと思って過ごしています。最近なってありがたいことに、継続的に一緒に何かをしていくというお話がいくつか舞い込んできて、{ZINE+イベントの企画団体}{街を舞台に集団創作をするコミュニティ}{空想の都市を使って新しいことをしたい人々}の3軸が動き出しつつ、近所の書店ではわたしの作品(地図)のファンとも呼べる方々ができつつあり、トークイベントをやらせてもらったりしながら少しずつ関係を構築しています。そういったさまざまな角度からの縁を大切にしながらも、とはいえ思わぬ出会いや再会というのはそう企図して起こせるものでもない(ひょんなことから生まれがち)で、焦って人間関係の拡散をしてもうまく行かないと思っていもします。

偶発性に身を委ねながら、その偶発性がうまいことどんどん生まれるように、なるべく可能性のある方に人生を進めていけたらいいんじゃないかなとか、そういうことを思いながら過ごす年度始まりでした。

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