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言葉について

 エッセイを書くことを勧められた。大学で言葉を通して思考や感情を表すことを学んだので、言葉を書くことを勧められるとうれしい。
 エッセイを読むことは好きで、ついこのあいだも星野源のエッセイ『いのちの車窓から』を読んでクスッと笑ったりグッと瞳に涙が滲んだりして心にまた、新たな余白が出来るような感覚を経験した。(とても良い本だった。)私がエッセイを読むことが好きなのは、特別に着飾ることなく、ありのままの出来事がつらつらと述べられている文章を読むと、その言葉の選びかたや出来事の捉え方から作者の人がらがふんわりと感じとれるからだ。その人の温度を感じられる部分に、文を読むことで触れることが出来る。
 今私は、エッセイとは何だろうと考えながらこの文章を書いている。私は私が普段読む、日常の出来ごとや過去の経験をツラツラと綴るようなエッセイはうまく書けない。だけど、読む言葉、書く言葉の持つ力を強く実感している。なので、私の頭の中にある"言葉について"をこのエッセイのテーマとして、思うことを言葉にしてみようと思う。

言葉の使いかた

 日常の出来ごとや過去の経験をツラツラと綴るようなエッセイが書けないと思う理由の一つは、出来ごとを言葉にする過程で、"そのままに残す"ことが出来ないことに焦燥感を覚えてしまうからだ。日記も同じような理由で書けない。一日の中でみたもの、聞いたこと、感触や温度全てを文字で書き残すことは不可能だ。もちろん何もかも全てを残す必要はなくて、素敵なエッセイを書く人たちは、自分にとって大事な出来ごとをきちんと見極めて文章にまとめることで、一つのストーリーとして完結させることが出来る。そんな文章に憧れ、書こうと試みたことはあるが、どうしても文章にのらなかった出来ごとたちを考えずにはいられなくなってしまった。出来ごとを言葉を使って物語へと変身させることは、おそらく私には向いていないのだと思う。
 私は言葉をたくさん知らないし、綺麗な文章の書き方も知らない。分かりやすく説明する文章も楽には書けない。だけど、私は言葉をとても信頼している。言葉に世界があると思う。私が言葉に大きな力があると感じるときは、そと側に見えるものを文字でなぞっているときではなく、目に見えないけれどたしかにうち側にあるものを捉えようとするときだ。何かを伝えるための道具としてではなく、形がなく触れることの出来ない感覚をどうにか掬いとる器として私は言葉を使う。

哲学と言葉

 私は大学で哲学をするようになってから、正しさや効率よりも"本当のこと"を知りたいと思う気持ちが強くなった。"本当のこと"なんて知ったって意味が無いし、そもそも手の届くところにそれが無いかもしれないことは分かっている。だけど、哲学をする過程で"本当だと思っていたこと"が本当では無かったかもしれないことに気づいて以来、"本当では無いかもしれないこと"を信じるふりをしながら生きることに漠然とした虚しさを感じている。    
 哲学対話はとても不思議で、哲学の問いから対話をはじめるのに、深めるほどにそれぞれが個人の感覚の説明をし合っていることが多い。哲学対話の参加者が、自分ですらまだ見えていない奥底にある感覚をどうにか取り出して説明しているとき、そのときの言葉選びはいつも本当に美しい。"本当のこと"を追求する哲学対話のなかで、たどり着くところの言葉たちを聞いたり、自分自身から出てくる言葉を掴まえたりしていると、"本当"はすべて"言葉"のなかにあるのではないかと思ったりする。

心の声

 大きく心が揺さぶられて眠れない夜には、私は決まって言葉を探す。じっと静かに耳をすませて心の声を聴く。真っ暗な部屋の中で携帯のメモ帳を開いてそのようにすると、自然と言葉がやってくる。そうやって同時にいくつも存在する心に順番に言葉を当てはめることで、どうにかその輪郭を掴むことが出来た。心の波が大きければ大きいほど、溢れ出る言葉の数は多い。
 気持ちに溺れてしまわないように整理するつもりでひとつひとつ言葉を当てはめていくのだが、そのときに書いた言葉をあとから読むと、言葉そのものが持つ意味以上に言葉と言葉の間にある余白にさらに深い世界が広がっているのを感じる。形ないものをできるだけ形ないままで、ある意味で形のある"言葉"に当てはめようとすると、だんだんとその言葉は抽象的になっていく。きっと誰にも伝わらないのだろうなと思いながら、誰かの感覚にピッタリとはまったらうれしい気持ちになるかもしれないなと思いながら私は私だけの言葉を待つ夜を幾度か過ごした。

読む言葉

 若松英輔の『悲しみの秘儀』をここ一年ほど、お守りのように近くに置いている。ずっと本棚に眠っていたこの本をはじめて手に取ったのは、悲しみの底にいる時だった。たまたま目に留まったこの本を読んだとき、そこに散りばめられた言葉たちが、そのときの私の心にピッタリとハマった。一人で抱えていた重たい心を、はじめて誰かの言葉に委ねることが出来て、言葉は魔法だと強く実感したことを覚えている。言葉と人には相性があるようで、心に直接スっと飛び込んでくるような、運命としか言えないような言葉との出会いがたまにある。そんなピッタリのタイミングで出会った言葉や文章や本が本当の宝物として私の心を支え続けてくれていることを幸運に思う。

これはエッセイ?

 世界は心の奥底にあるということ。言葉で世界は表しきれないが、言葉をひとつ置くことで世界の深さを感じることが出来ること。言葉は装飾品ではなく、器であるということ。これらのことを芯として、私は形を問わずに言葉を書きつづけたい。

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