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言えない本音というストレス

おはようございます。2024年4月3日です。
雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)最終日です。


イブニングノートが停滞しつつある。停滞というか、迷走というか、ボリュームは減らしつつ(M5になったので)書き続けてはいるのだが、何を書いているのか分からなくなっている。

昨日も書いたように、根本的に書く時の心持ちがこのnoteを書く時とあまり変わらなくなってきているのだ。

今日の内容は、特に落とし所を意識することもなく、思いつくままに書き出してみた。書き出してみたと言っても、大体いつもこんな感じではあって、ある意味モーニングノートの吐き出しに近い。そこまでのボリュームではなく、一つのことについて書くというだけの話だ。

モーニングノートであれ、イブニングノートであれ、こうした行為に効果を感じる人というのは、「言えない本音があることにストレスを感じる」人たちなのだろう。

それ自体を悪いということはなく、そういう人もいるだろうというか、それを上手く処理できない人たちがやらかすのが「失言」という奴なのかなと思ったりはするが、普通に有り得る心持ちなのだろうとは考える。

すくなくとも、うっかり失言してしまうよりは、モーニングノートなどで吐き出してしまった方が互いにとって幸せであるのは確かだ。

もちろん失言に類する話だけでなく、何となく言語化できない考えとか、ネガティブなだけでなくポジティブな感情においても、同様の事は言えるだろう。むしろポジティブな本音を言語化する方が、実感できる効果としては高いかもしれない。


そういう心情が、多分自分にはない。noteに書けるのは、それが「言えない本音」ではなく、「言える本音(あるいは建前)」だからだ。言えないことがないとは言わないが(いくらでもある)、それを自分の本音だと思ったことがなく、そうした言えないことがストレスになりにくいという事かもしれない。

そもそも、「本音と建前」があるという考え自体が、幻想だとさえ思っている。「言えること」「言えないこと」は、社会的な規範の中にあるだけで、自分の中にあるのは「言うこと」と「言わないこと」だけだ。どちらが本音でどちらが建前ということもなく、どちらも本音でどちらも建前でしかない。

言う言わないは自分の意思だが、言える言えないは本来意思ではない。本音と建前議論は、そのあたりを曖昧にして、さも言ったことが自分の意思ではないような言い訳をするためのものでしかないように感じている。

念の為書き添えておくと、言いたくもないことをある意味「言わされる」ことがない訳では無い。したくもない謝罪をするなどはその典型だが、だからといって、そこで「本音は謝る気がない」などとは考えないようにしているということだ。

言いたくないことを言うのも、自分の意思でしかないのだ。


本日は以上です。

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