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占星術を始めたばかりの頃、手書きしていたホロスコープの円はいつもいびつだった

初めて読まれる方もいると思いますので少しお話しします。私が生まれたのは愛媛県の松山市。戸籍にはそうありますが、両親はある時、それは違う、知らない、間違いだ、と言ってのけて戸籍に明記されていることを目の前で否定するということがありました。それは進学する時のことです。住民票などを準備する必要があり、偶然目にした時に内容を見て知り、後日やっとの思いで私が口に出したことがきっかけでした。それまで「大阪」生まれだと聞かされていたからです。
今ではこの話は私にとっては笑える話なのですが、当時は全く理解出来ないことでしたし、不信感と不安感しかありませんでした。どういうことなのか何がなにやらわからずでしたので、これは私が学生の頃のことですが、今思えば精神の不安定さもあって当然のことだなと思います。

出生時の場所についてのことを聞くと「何も喋らん! 墓場まで持っていく!」という激しい言葉とあまりの母の剣幕に、これはひょっとして決して聞いてはいけないという類いのことなのだと受け取って、自分なりに判断してそれっきり聞くことはありませんでした。
それ自体が幼かった私の人生の中で問題となったのは当然のことなのですが、それは例えば他の皆には当たり前にあるように見える「故郷」「実家」「祖父祖母」「兄弟姉妹」というものが無いということとか、自分の確かな出所がわからない、それを知っている人や共有できる存在が周りにいないということで日常のあらゆることに対しての不安感というものが大きくなっていました。
どこにいたらいいのか身の置き場が無くて、自分の居場所がよくわからないままただただうろたえている、という感じです。けれど、同級生や先生達から私はひとり好きなように集団からはみ出して動いている人に見られていることが多かったので、持っている悩みというものは外側からは見えてこないものだったということだと思います。
自分のことや両親のこと、両親それぞれの家系や一族というものについての謎もたくさんあってそれが知りたくて、けれど聞くことは出来なくて、特に中学1年2年生の頃が一番その気持ちが強くて混沌としていました。明確に自分の感情を言葉にすることも難しく、他者に向けての自分の状態を説明することも考えられず、実際の行動として起こしていたのは中学時代の不登校でした。

町が静まった夜中に起きていて、窓を開け星を見上げて風に吹かれているのが好きでした。ふと思うのは「ずっとここには居たくない」「あるはずの、どこかに行きたい」ということでした。
それが何なのか、どこなのか、さっぱりわからないままその想いは募るばかりで「本当の家族に会いたい」という風に思っていました。その家族はこの地上にいるという意味でも無くて、大きな宇宙の何かで、どこかで、みたいなものに思えていました。
両親は不登校の私には何一つ言わず放任、家に訪れる学校の先生には「本人に任せてますから、何も問題ありません。」と笑って言って、お茶の一杯を出すというような具合でした。当時の私は複雑な思いをしていたことを覚えています。「本当は問題だらけじゃん」そう思っていました。

中学に入ってから自分で当時流行っていた占い雑誌や占星術の本を手に入れて、手書きでホロスコープ(出生図)を計算して出し始めるということをしていました。難しくて読めないながらも私には教科書でした。本当の自分についての手がかりみたいなものを探していたのですが、誰にも見つからないように狭い家の中で隠しながらホロスコープを描いていました。
計算して出した10個の天体の位置や12個のハウスという部屋区分を手書きの円の中に書き込んでいきます。何かあったらすぐに隠さなきゃという思いと、コンパスを使って綺麗な円を描くことに抵抗もあったので、雑誌に印刷されているホロスコープの円を紙に手描きでトレースしていました。なのでその円は綺麗な丸ではなくて、出っ張ったりへこんだりガタガタしてゆがんでいました。

学校の勉強は私にとっては試験に向けてのものでした。そこそこ上位に居続けることで普段学校に行かなくても通用するということをとある時に学んでしまったので、当時はそれで適度に試験の前後の時に学校に行くというスタイルで押し通していました。
行ったとしても授業が面白くないので、すぐ帰っていました。帰ってから自分の好きな世界のことを考えたりイラストを描いたり、様々な物語や過去の人たちのこと、占星術や宇宙のことを知りたくて図書館で借りてきた本を読んでいました。もちろん夜中には起きていてラジオの深夜放送を聴くのが楽しみのひとつでした。
いつの間にか根負けしたのか、学校側からはお好きにどうぞと放置されていたような感じです。

中学時代の放課後の部活動は1年生から「校内の新聞社」に所属。社長や副社長という役があったりしてその部活動は面白かったのですが、私は時々いたりいなかったりする社員という位置でした。
1枚ものの新聞で、表裏で紙面割りやコピーを考えたりイラストを描いたりして6人位で印刷しては発行していました。私は校内の行事や先生や生徒の取材では無く、外部に取材に行っては記事を書くという企画ものの担当をしていました。郷土の歴史、遺跡や変わった伝説について調査や取材、お年寄りに昔のことを尋ねるというようなことをやっていて、顧問の先生や先輩である社長に重宝がられていました。
そんなこともしていたので学校内では大きな問題にもならず、大人から見ても同級生から見ても、おそらくは何を考えているのかわからない人でした。

私の生まれた時の図であるホロスコープでは「水星」は蠍座にあって、12ハウスにあります。「水星」は8~15歳位を発達年齢域としていて、その年齢の人生の傾向、特徴を見ていきます。
「水星」は、例えば知性の傾向、コミュニケーション、学習能力や言語能力、会話、認知力、仕事の技術などがどのように発達していくのかということを見ていきます。
12ハウスというのは、無意識を表したり、隠れた部屋と呼ぶ場合もありますし、インターネットやメディアのような世界も表します。それは実際のところ社会よりもどの部屋よりも広い部屋です。
占星術からすると私はそのまんまの「水星期」を過ごしていることになります。占星術を知っている方がここまでを読まれた時には「やっぱりそういう感じだよね」ということになると思います。
後から占星術を知って自分の人生を振り返ってみると、その通りのことを行動していることを知らされることがとても多いでしょう。

占星術は教える先生の持っている世界観が重要です。例えば「良い悪い」の捉え方ひとつがどの位置から見て説明しているのかによって、そのスケールや内容はまるで違ってくるからです。占星術の教科書として読んでいたいくつかの本からも、それぞれの占星術師の方が住んでいる「世界観」が強く反映されていることがわかってきます。「階層」や「型」ということを学ばせてくれる先生に最初に出会って私の人生はさらに面白い旅となりました。

出生時のこともそうですが、身体が極端に弱く病弱だったことや両親が長く籍を入れていないままだったり旅人だったこと。また父が大きな寺院に縁し世話係をしていて大勢の他人の中にいることが当たり前だったり、母の仕事によって水商売の様々なワケありのたくさんのお姉さん達の中で育ったということなど、一般的な環境ではありません。
北陸にいた時代には、父が次から次へと何か考えては行動を起こすという自営的、母が老舗旅館での水商売に縁して「御姫様(おひいさん)」と呼ばれて売れっ子となっていたり、日常生活の運営自体が不安定なのが当たり前というというのが私にとっての普通でした。
後になるほどわかるのですが、一般性から外れているがゆえに「一般的な社会」というところからの判断によって困ったなと思う体験を多くしてきています。
広いところに出て行ったなら自分の経験は普通過ぎるくらい当たり前だったということになるのかなと思っていたこともあったのですが、それはどうも違っていたようです。振り返ると面白かったなと思うことばかりになってしまったので、どれもこれも今となっては経験してきてよかったなと思っています。
今回は「水星期」についての体験の一部をピックアップしてみました。


写真と文 sanae mizuno
https://twitter.com/SanaeMizuno


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