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科学≒哲学

『理想的な官僚とは、憤怒も不公平もなく、さらに憎しみも激情もなく、愛も熱狂もなく、ひたすら義務に従う人間のことだ』

この社会的システムを謳うマックスウェーバーの引用に、『シニカルで歪んだユーモアの持ち主』はフーコーやベンサムの言葉を引用して返すだろう。

『システムというよりは巨大な監獄では。パノプティコン。一望監視施設の最悪の発展系。最小の人数で最大の囚人をコントロールする』

進みすぎた科学と政治は、哲学による風刺描写の餌になる。
もしも、科学技術によって人間が犯罪者になる可能性を数値化することができ、危険性が排除されるとするならば、果たしてそれは『最大多数の最大幸福』を実現し得るのだろうか。
その数値は何を基準に判定され得るのか。
そしてそれは、「正当な」数値なのだろうか。

私がこの議論の席に着くのなら、ミルの言葉を引用する。『人間には快楽の他にも追求すべき目的があり、快楽だけを目的とするのは獣と同じ』なのであって、『あらゆるものを評価するときにはその量だけでなく質も考慮している』のである。
『満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方が良い』とするのも言い得、より利己的でない「人間」としての感情が手に入るのではないか。


科学と哲学。
相交えない排反事象だという勝手な印象は、『PSYCHO-PASS サイコパス』を視聴してから転回した。
人間が罪を犯す可能性を『犯罪係数』として数値化するシステム『シビュラシステム』。公安は基準値を超えた者を、数値に比例した罰を与え執行する。
この世界ではあらゆることがテクノロジーで補完されている。どんな職に就くか、犯罪係数と適正によって自動的に選択されたり、『ハイパーオーツ』と呼ばれるただ一種の人口食で全ての食事が補われたり、あらゆる事象がシステム化されている。
犯罪や悪事を未然に防げる「完全なシステム」と謳うも…
と、これまでにしておきたい。

果たしてそこに本当の幸福はあるのか。
数値とは抽象的記号である。
目の前の事象を測定するための手段。
しかし、人間を抽象的に説明し得るのか。
万物は具体性の体現であり、
人間も漏れなく具体的生命体。
数値化による優劣が、
その人間を幸福たらしめるのか。
パノプティコン。
言い得て妙である。
抽象化装置の餌食となり、数値化された人間像によって生涯のルートを決定され得る。
システムに従う囚人。
常に監視される異様な世界。

この『PSYCHO-PASS サイコパス』という作品には、人間の在り方という美を、行き過ぎた科学の醜悪さを感じざるを得ない。
システムに「従う」ほど人間らしさから乖離していくように思え、人間としての生を得たいものほど「犯罪者」となるようにも思える。

私がシビュラシステムの的になるのならば、犯罪係数が基準値を下回るのだろうか。
だが、「人間の抽象化」の渦に呑まれる世界であるとするならば、やはり私は『不満を抱えたソクラテス』であることを望みたい。

『PSYCHO-PASS サイコパス』https://psycho-pass.com/archive/sp/index.php

著:J.S.ミル , 訳:川名雄一郎 , 山本圭一郎『合理主義論集』

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