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「小説 名娼明月」 第32話:母娘の悪運(後)

 夜は沈々と更けて、庭の虫の音が浸(し)みるように枕に通うて来る。要助はじっと頭を擡(もた)げた。和平次の寝息を窺(うかが)ってみると、和平次は前後も知らず寝込んでいる。むくむくと起き上がって奥の間を覗けば、阿津満母娘のスヤスヤと眠っている寝姿が、枕元の有明行灯の灯(ひ)でよく判る。隣室に耳傾くれば、家(うち)の者も熟睡をしている様子。
 この時だと思って、和平次から聞いておいたる次の室(ま)の押入に当たってみれば、堅固な錠を卸して容易に破れそうもない。
 さあ困ったと思って、押入の横手の開き戸を開くれば、行灯部屋であって、押入とは板一枚の隔てである。

 「これなら、何のことはない!」

 と、要助が懐中から刃物を取出し、その板壁の横桟の間に突っ込んで、一本二本と捏ね除け大きな穴を作り、首尾よく忍び入って両掛の中を探ってみた。
 中に綺麗な服紗包みがある!
 その大金であることは重みで判る!
 要助はすばやく、これを懐中(ふところ)に押込み立ち上がったが、

 「取らるる衣裳を取残して行くのは、いかにも惜しい」

 と、またも両掛に戻り、阿津満母娘の衣類、一枚残さず取出して、有り合う風呂敷に包み込み、廊下まで持出すと、便所に行く足音を真似て、要助は便所のところに抱え出した。それからは中庭伝いに櫨木(はぜのき)畑に続いている。要助は風呂敷包みを背なに負うて櫨木畑伝いに逃げていった。

 和平次は、喉の渇きに堪らずして熟睡から醒めた。枕元から土瓶を引き寄せ、息をも継がず水を飲めば、咽(のど)がギュウギュウと鳴って、はじめて蘇生(よみがえ)ったような心持ちになった。煙草一喫(いっぷく)燻(くゆ)らしながら、考えるともなく昨夜(ゆうべ)のことを考えてみると、総てが夢のように思われて判然とせぬ。しかし、何か変な料理屋のような家(うち)で酒を飲んだことだけは、朧気(おぼろげ)に覚えている。

 「あんなに固く奥様に禁酒の誓いを立てておきながら、なぜに自分は酒を飲んだりなんかしたであろう? 実に不忠千万なことをした!」

 と心の底から後悔をした。

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