昭和の大反省会

今は「昭和の捉え直し」の時代なんだな、と思う。

じいさん政治家の偏見にまみれた女性蔑視発言が問題視されたり、某大手アイドル事務所の社長の長年に渡る性的搾取が芸能界を揺るがす大問題になったり、そもそも「昭和かよw」という発言が悪口としてそのまま通用したり。
とにかく今の世では「古き良き昭和」を「悪しきもの」として捉え直すのがブームだ。

「昔はいろんなことが許されていたのに……」と嘆く人もいるだろう。
しかし「昔は許されていた」のは、そのことで嫌な思いをする人がいる、ということが無視されてきたからだ。
今は「その誰かを踏みつけにしてまで許すのはやめましょう」という時代になった。

それは社会が一歩前進したということだと私は思う。
しかし同時に、今から遡って、未来の価値観で一方的に過去を断罪するのは必ずしも正しいことなのか?と疑問に思うことも、たまにある。

……が、まあ、事実としてそういうことが流行しているのが今という時代だ、というのが私の現状認識だ。

少し前まで昭和はノスタルジーの対象として捉えられてきたと思う。
しかしここ数年、「古き良き」が「平成レトロ」にとって変わられて、昭和は断罪の対象になった。
過去が美化されて、いい面ばかりが注目されたフェーズが終わり、では冷静にその功罪の「罪」のほうを見てみようか、というフェーズに突入したような気がしている。


……と、そんなことを思ったのは、映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観たからだ。
友人の勧めや口コミでの評判が気になり、仕事終わりに鑑賞してきた。

先に簡単に総評を述べると、めちゃくちゃおもしろかった。
前情報では「横溝正史の世界観」や「因習村系のストーリー」と聞いていたが、そういった既存の作品が作り上げたイメージからまた一歩踏み込んで、昭和という時代の功罪に切り込んでいたように思う。
(ただだいぶスプラッターかつ後味が悪いので、そういったものに耐性がない人にはおすすめしない)

ここから先は映画のネタバレもあるかもしれないので、嫌な人は見ないでほしい。
あまり具体的な内容には触れないつもりだが……。

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』あらすじ

廃墟となっているかつての哭倉村に足を踏み入れた鬼太郎と目玉おやじ。目玉おやじは、70年前にこの村で起こった出来事を想い出していた。あの男との出会い、そして二人が立ち向かった運命について…

昭和31年─日本の政財界を裏で牛耳る龍賀一族によって支配されていた哭倉村。血液銀行に勤める水木は当主・時貞の死の弔いを建前に野心と密命を背負い、また鬼太郎の父は妻を探すために、それぞれ村へと足を踏み入れた。龍賀一族では、時貞の跡継ぎについて醜い争いが始まっていた。そんな中、村の神社にて一族の一人が惨殺される。それは恐ろしい怪奇の連鎖の始まりだった。

鬼太郎の父たちの出会いと運命、圧倒的絶望の中で二人が見たものとは──。

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』公式サイト

舞台は昭和31年(1956年)の日本。まだ戦後の爪痕も色濃く残る時代だ。
調べてみると、この時代は高度経済成長期の初期に当たるらしい。

第二次世界大戦で焼け野原になった日本を復興させた高度経済成長期は、「東洋の奇跡」と言われ世界中でもてはやされてきた。そして日本人自身もそれを誇りに思ってきた。

働けば働くほど生活は楽になる。日本はもっと豊かになる。
そう思えていたであろう戦後の人々を、令和の鬼太郎はどう描くのだろう……と思って見ていたら、結構なアンチ高度経済成長期の物語で驚いてしまった。

いわゆる「戦後の日本の復興を担った人たち」を悪人に描いていたのが印象的だった。
それがなんだか新鮮で、私には「イマドキっぽく」見えてしまった。

一度すべてを失ったからこそ、「頑張れば今よりもっと世の中は良くなる!」とまっすぐに信じられていた「古き良き、あの時代」。
それを大っぴらに腐すような雰囲気の作品は、今まではあまりなかったように思う。
作品の中で描かれる昭和はいつも「あの時代はよかった」という郷愁とセットだった。

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』などは「古き良き昭和」を否定し、次の時代である平成に向かう話として描かれていたが、あの映画で否定される昭和も「捨てがたく、美しいもの」として描かれていた。
昭和は決して「悪」として真っ向から否定されるものではなかった。


それに対して2023年の『ゲゲゲの謎』で描かれた田舎の昭和時代は「昭和の価値観を持った嫌なヤツに味わされた不快なことを、かき集めて凝縮したような世界」のように感じた。

若年層に嫌われる「昭和の嫌な面」がとにかく強調されていたのだ。
昭和を美化するフィルターがまったくかかっていなかった。

昭和的な価値観では美徳とされがちな「競争心の高さ」は、美化フィルターを外すと「他人を蹴落とす醜さ」や「他人の犠牲を何とも思わない卑劣さ」になり、昭和の勝ち組は「裁かれるべき悪しき存在」として申し分ない、悪逆非道の限りを尽くす悪人になる。

こんなふうに昭和の価値観をものすごく悪どく描いていたので、個人的にはスカッとしつつも「攻めてるなぁ」と感心してしまった。

実際に高度経済成長期を支えた人たちや、そういった親のもとで育った世代の人たちにとっては、当時の自分たちの苦しみや貧しさを正当化しないと、美化しないとやっていけない面もあったのではないかと思う。
だから今まで昭和は「振り返るべき、美しき過去」として扱われてきたのだ。

一度はすべてを失った日本を豊かな国にまで押し上げてくれた先人たちは、すごい。そんな彼らに敬意を払う気持ちは私にもある。
でもきっと、そんなことよりアンチ昭和は儲かるんだろう。

今は昭和の「がむしゃら!希望!根性!」な空気感を引きずった人たちに踏みつけられてきた、下の世代の人たちが社会の層として厚くなりつつある。
私を含むその層は経済社会の一員に成長し、社会を回し、いまや自分で自由になるお金も持っている。

だから『ゲゲゲの謎』は昭和の時代に支配的だった価値観に「馴染めなかった人」に焦点を当てた話になったのではないか。
昭和の競争レースに乗れなかった人間や、競争レースに乗らないことを自ら選んだ人間が、2023年の観客の共感対象になった。
そんな彼らが「ウザい昭和の勝ち組をぶっ殺す」というストーリーラインがウケた。

おまけにゲゲゲの鬼太郎は原作者の水木しげる先生が昭和の世を厭世的に見ていたことが知られている。
アンチ全体主義の気のある水木先生の作品は、令和の「昭和の大反省会」で引き合いに出すのに相性がよかったのかもしれない。


「昭和の大反省会」が終われば、きっと次は平成の番だ。
今は「平成レトロ」とかわいがられている平成だが、令和の次の時代がくれば平成への断罪がはじまるのではないか。
こき下ろされるのは「昭和のおっさん」から「ゆとり世代」に変わり、その次は「さとり世代」に変わり、その次は「Z世代」、その次は……と移り変わっていくんだろう。

でも、それでいい気がする。
だって新しい者が古い者を打ち倒さないと、歴史はおもしろくないから。(歴史オタク)

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