「悲劇のヒロイン願望」とは?

「幸せそうな女性を殺したかった」というだいぶアレな理由で小田急線内で男性が女性を刺した事件について、作家の柚木麻子さんがエッセイを書いていました。

こちらのエッセイに、

幸せになる努力より、「幸せに見せない努力」を女性に求められるのが、日本社会なのではないか。

という文章があり、思い出したことがあります。

まだ私が会社で働いていた頃、職場の人に「どうして女性には悲劇のヒロイン願望があるのか?」という話を振られたことがありました。

その人は「映画やドラマでヒロインがかわいそうな目に遭うものは多いし、女性向けコンテンツでもそういうものは多い。ということは、かわいそうな女性の話は女性に需要がある=女性には悲劇のヒロイン願望がある」という考えに至ったようです。

上記の柚木さんのエッセイを読んでいたら、そのときの会話を思い出しました。

幸せになる努力より、「幸せに見せない努力」を女性に求められるのが、日本社会なのではないか。

もしその職場の人が言っていたように、悲劇のヒロインへの憧れが女性にあるのだとすれば、それは柚木さんの言う、このあまりにも惨めな「社会が女性に求める姿勢」を当の女性たちが内面化していることの証なのではないでしょうか?

「社会が求める姿勢」をとれば他者からは攻撃されなくなります。
なので(どうしても腕力や体力で男性に劣る)女性が悲劇のヒロインであること、幸せではなさそうな姿をすることは、一つの生存戦略としてはアリなのかもしれません。

しかし、もしそうだとしたら、それを「女性の願望」と言ってしまったいいのでしょうか?
それは願望ではなく、「そうせざるを得ないから」というだけなのではないでしょうか?

「悲劇のヒロイン」でいれば攻撃はされませんが、温厚である、従順であると思われ、舐められれば要求を通してもらえなくなります。
そうなると自由に振舞うこともできず、鬱屈して過ごすことになります。

それはその人にとって幸せなのでしょうか?
そんなのは自分の人生ではないとわかっていながら、それでも「そうせざるを得ないから、そうしている」という人もたくさんいるのではないでしょうか?
それを「願望」という言葉で表現することは本当に正しいのでしょうか? 適切な表現なのでしょうか。

女の身で生きていると、比較的フリーダムな性格の私ですら、今の社会では「謙虚で身のほどをわきまえた女性が模範的で善良な女性」だと感じさせられる場面がたくさんあります。
もちろん謙虚なことはいいことですし、男女問わず身に着けるべき美徳だとは思います。

しかしやはり「謙虚で身のほどをわきまえている」というのは「女性の優等生像」として打ち出されることが多いような気がします。
だからこそ真面目で誠実な女性ほど、社会規範としてそういう気質を身に着けようとしている気が。

例の小田急線での刺傷事件や、SNSなどで一部の人が発している暴論などを見ていると、「謙虚で身のほどをわきまえた」のいきすぎた形が「幸せに見せない努力をしろ」なのではないかと思えます。

もしそれを女性が社会規範として身に着けようとしているのであれば、それは願望ではなくただの自己防衛なのではないでしょうか?
ただ防御姿勢をとっているだけ、なのではないでしょうか。

柚木さんのエッセイにはこんなことが書いてありました。

子どもが生まれてまもなく、スーパーマーケットで見知らぬ男性にベビーカーを蹴られた。
(中略)
あの初老の男性からは「赤ちゃんと満ち足りた時間を過ごしている金銭的にもなんの不安もない女」に見えたのかもしれない。妊娠中、または出産後、嫌な目にあったという友達からの報告はとても多い。
(中略)
私は見ず知らず、またはまったく親しくはない年長者に唐突にキレられた経験がかなり多い。

 実際、小説でも映画でも、女性が幸せそうな作品よりも、女性が死んだり不幸になる物語の方がずっと評価が高い。こうしている今も、女性は謙虚で控えめでちょっぴり不幸そうじゃないと痛い目にあうぞ、とあらゆるコンテンツが訴えかけてくる。

こういうことに常日頃から晒され、また小説や映画で「謙虚で控えめでちょっぴり不幸そうな女性が報われる」という物語を見せられ続けているから、防御姿勢をとっている。
ただそれだけの話なのでは?

そんな防御をしなくても理不尽な攻撃にさらされない。不当な目に遭わない。
そういう世界ではじめてうまれる生まれる憧れを「願望」と呼ぶのではないでしょうか。

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