セクシャリティ
厳密に言うと、アアルトのサナトリウムツアーから玄関を出て、2台の車が待っていてくれて、みんなでランチの場所に向かっている時に、フィンランドでのSF安心校正チェックはフィニッシュした。
助手席でも、高速のなか集中できて、ノンストレスで、楽しいしかなかった。
アアルトのサナトリウムは、初期ということもあるだろうが、この作品がコンペを獲れたから首一枚つながって、建築家としての人生がはじまったというのを聞いても、そういう絶妙な生と死が自然に身の上にも訪れているような宇宙タイミングでないと、研ぎ澄まされないような表現に満ちていた。
そんな心境でなにかを生みだすことが、この地球でどんなに貴重かというのを、松果体の中身を巡りながら、自分自身にも投影しながら、いっぱい写真を撮った。
こうやって地球の地上に生きていられることの奇跡は計り知れない。
肉眼でみることでしか刻まれない記憶も、宇宙のブラックホールの事象の地平面に刻まれていく。
その無尽蔵の記憶から組み合わせをチョイスし、地球の地上で経験したい肉体をまとった魂を設定して、物質化され生まれる人類が、今の地上をどれだけ自由奔放につくっているか、自分の部屋や窓の外を見回せば、一目瞭然だ。
ぼくは、地球の地上はホログラムだと感じている。
そして、人間は、みたいように自由に(バイアスもふくめ)変換しながら肉眼を使える。
ゆえに、誰1人、5感で感じとっていることの深さや濃度は同じではなく、パラレルだ。
記憶は、美しく、あるいは、醜く各個人が自由に変換でき、宇宙に刻まれていく。
その宇宙に刻まれた自分自身の記憶の光景が望遠鏡でみられるようになるのは、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の後継機あたりになるだろうか。
「みんないっしょ」や「ワンネス」と仕切りに言われている状態は、この地球の現行のシステム上ありえない。
モラハラがトレンドになるのは、この地球では、全員がパラレルだから、おたがいのすべてが合う、すべてがわかりあえる、ということが、ほぼ不可能だからだ。
「すべてがあう」「すべてがわかりあえる」があったとしても、一瞬や瞬間にしかない。
全員違う「みんなちがってみんないい」という、そもそものデフォルトが、地球の地上であることを認識してないからモラハラは起こる。
セクシャリティも、そうだ。
たまたまテレビをつけて知った、トランペッターの松井秀太郎さんが、情熱大陸で、自分のセクシャリティを表明しなければならない風潮などにとても傷つき悩んでいた、みたいなことを話していて、とてもその発言に、一瞬、無限に、強く強く共感した(勝手に読み取っただけかもしれませんが)。
ぼくと松井さんの人生はまるで違うけれど、なんでセクシャリティのことをワザワザ社会のなかで表明しなければいけないのか、違和感があったし、そもそも、自分自身のセクシャリティがほんとうのほんとうはどんなものか、自分自身がドンピシャにしっくりくる表現がみつからなかったし、既存のものではないのも直感していたし、伝えても伝わりきらない、説明してもまったく届かないだろう、安心して伝えることができない、という経験もあったりして、とてもシンドイ感覚があり、傷つきもした。
話したそばから全否定されるような話し方をされて、なにも話す気をなくすなどといった経験をする人もいたりするだろう。
しかし、ヘルシンキを経て、ヘルシンキ中に自分のパーソナルにとって、とても大事な要素だったのかもしれない(宇宙マッサージをしている理由にもつながるような)5枚のカードが出揃って、ロイヤルストレートフラッシュみたいな心境があらわれ、ずっと感覚だけがあって言葉にできないまま、意識をマイニングしつづけていたセクシャリティのテーマに、今現すとしたらこれしかないのでは?という表現がみつかった感触が、日本にもどって、ボーッと時差ぼけと日本の暑さのなかで、なるべくなにもしないなか、そして台風10号がゆっくりと本州をすすむなか、意図しない休息をホテルで過ごすなかで、すべてがつながり閃く瞬間が訪れた。
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