ジェイラボワークショップ第71回『『学問としての教育学』を一緒に学ぼう』【教育研究部】[20240205-0218]

本記事は、2024 年 2 月 5 日から 18 日にかけてジェイラボ内で行いました第71回ワークショップ
  『『学問としての教育学』を一緒に学ぼう』
のログをまとめた記事です。題材として採りあげた苫野一徳氏の『学問としての教育学』の Amazon リンクを貼っておきます:



Day1

■ シト

 こんにちは。教育研究部部長のシトです。これから2週間のWSよろしくお願いいたします。今回のテーマは

『学問としての教育学』を一緒に学ぼう

です。最近、小学校教員による信用失墜行為や国立大附属小学校における指導問題などが話題となり、教育が悪い意味で目立っています。個人的には東京都にですが、いろいろ不満がありますwそんな状況なので、教育学を改めて見ていこうと思いました。

今回WSで扱うのは『学問としての教育学』という本です。この本がやろうとしていることは基本的に教育研究部の理念と同じです。そのため丁寧に展開していきたいと思います。

初投稿は明日からになります。では、よろしくどーぞ。

Day2

■ 蜆一朗(あいさつ)

 こんにちは。教育研究部副部長の蜆です。本 WS では、教育哲学者の苫野一徳氏の著作『学問としての教育学』の第1-2章を中心に採りあげ、多様性の昨今において公教育は何を目標にしどのように実施していくべきなのかについて考えたいと思っています。方針と諸注意を以下にまとめておきます:

  • 蜆は第1章を担当します。第2章を読むにあたり基本となる用語の定義や方針を整理します。

  • 第1章は8つの小節からなります。蜆による要約を1日につき2小節ずつ投稿し、簡単な所感を添えていきます。

  • 質問や意見等はいつでも歓迎しておりますが、用語の定義をするという方針上、文章が流れてしまうことを避けるため、長くなりそうな場合はフォロースレッドにて対応することがあります。

  • Notion を「J LAB Confidential ⇒ Activity center ⇒ D105 教育研究部 」と進んでいただくと、一番下に蜆が作った『学問としての教育学』のまとめがあります。太字と赤字をさらえば大体の流れがわかるようにしていますので、興味がある方はそちらも覗いてみてください。

本日分の投稿は夕方18時ごろを予定しています。それではよろしくどーぞ!

■ 蜆一朗(本投稿1)

⑴ 何のための教育学研究なのか?: 1990年代以降、教育学関連の学会シンポジウムでは「教育学を問い直す」「教育学はどこへ」といったテーマが頻繁に取り上げられるものの、結局共通理解を得られぬまま一層混迷は深まってしまっている。その最大の理由は、何をもって「よい教育」とするのか、何が「よい教育」を構成するのかということに関する追及がほとんどなされなくなってしまったことにあり、教育社会学者の広田照幸はこれを「規範欠如の問題」と呼んでいる。近代学問に必然かつ真っ当な姿勢である"研究分野の細分化"の波が教育学にも訪れ、教育の規範に対する問題を扱うことが難しくなっただけでなく、細分化された個々の研究が大元の教育学にとってどのような意義を持つのか、という基本的な問いですら見失われがちになっている。

⑵ ポストモダン思想の隆盛: 教育の理念・理想・目的といった規範秩序の問題を大々的に語れなくなった背景には「ポストモダン思想」の隆盛がある。この思想によって、例えば

・教育で子供たちを自立させると言いながら、実は権力に従順になるよう訓練しているだけ
・教育によって平等を実現すると言いながら、実は教育こそが格差を再生産している

といったように、近代教育が掲げたあらゆる教育的価値が無条件に肯定すべきものとはみなされなくなった。⑴で述べたように、教育の正当性に関する原理的な指針を問えなくなったことで、原理的・哲学的な探求なしにただ時代に翻弄される形で矢継ぎ早に「教育改革」が遂行され、多くの混乱と反発を招いてきた。したがって、教育学が取り組むべき大きな課題は、規範秩序の問題を克服するとともに、教育改革の指針になりうるような、あるいはそれを批判する原理的な観点となる「新たな公教育のビジョン」を探求することである。

(蜆の所感)
 特に義務教育課程というのは、大人や日本国民として "最低限" 身につけておくべき素養を身につけてもらうことを目的にする一方で、活躍できる人材をさまざまな業界に送りこみ豊かな社会を作るため "最大限" の教育資源を注ぎ込みたいという親心が作用する場でもあります。日本の学校現場は、そういった熱心な先生方によるご厚意でなんとか保たれてきたと言っても過言ではありません。その裏返しとして、学校教員の過酷な労働環境が問題視されたり、学歴を巡る競争等の息苦しさで疲弊してしまう子供たちも増えています。いじめ問題・部活動問題・一部教員の不適切行為等により、優秀な人材が遠ざかるだけでなく一部の優秀な先生方も浮かばれない状況が作り出されていますし、社会の情報化によって、子どもたちに教えこんでおきたいことを伝えられる環境が学校の外にどんどん作られていっています。そんな時代において、公教育ができること・やるべきこととは何でしょうか。本書はそれを探る試みであると言えます。
 過去の note 記事等でも話したことがありますが、僕自身、教職免許をとることを条件に某大学への進学を許可してもらった経緯があります。そのためならば教育学部(ないし教育大学)に進学するのが最善だとは思いますが、どこか「教育学」という学問そのものに懐疑的な気持ちを持っていた僕はその道を選びませんでした。教職課程が僕の価値観を変えてくれることもなく、やはり「どうにもならないのもわかるが誰でもそんなことはわかりきっている」だとか「それは教育学界隈の人だけが思っていることじゃないのか?」と感じることが大半だったように思います。かといって教育学の見地を無碍にするのも違うとは思うので、教職課程で感じたことも適宜添えつつ自分の考えを整理したいと思っています。
 今回の WS では、もし皆さんが教育そのものに興味がなかったとしても、自分が懇意に向き合っている分野について発信する際の熱量や距離感、あるいは対照的に、自分的にはさほど興味がないが重要ではあることへの向き合い方について考えてもらえる回になればと思っています。僕が最近この本を熱心に読む動機も、そういったところへの関心が根っこにあります。教育に関わる人が「日本の学校教育は一斉教育こそを大事にするべきなんだ、歴史的に見てもそれが何より大事にされてきたし今後もそうあるべきなんだ」といくら主張したところで、一般の人にはほとんど賛同してもらえないと思われます。自分が日ごろから多く触れている分野には、そうでない人からすれば「内輪ノリ」としか思えないような独自の文化があり、その独自性(異質さ)は経験を積むにつれ感じ取れなくなっていきます。ゲームや音楽や漫才なら「好みの問題」で終わらせられますが、厄介なことに公教育はそういうわけにはいきません。僕自身もこの WS を通じて学んでいきたいと思います。
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 初日から超長文を投稿してしまいました。本書の要約は Notion に作ってあるのでそちらを見てもらい、僕が考えていることを垂れ流す回になる予定です。興味を持っている分野とか本も紹介すると思います。明日もこの時間頃に投稿する予定です。

Day3

■ 蜆一朗

 こんばんは。光回線の契約で疲れた蜆です。今日の投稿になります。

⑶ 教育学のメタ理論体系: 苫野氏は前作『どのような教育が「よい」教育か』において、ポストモダン思想によって陥った規範秩序の問題に対して次の2つの成果を得た:

  1. ポストモダン思想の論理それ自体を解体・封印することで克服し、公教育の「本質」および「正当性」の原理を明らかにした。これにより、現代教育学が長らく抱えてきた根本問題を解明し得た。

  2. 1. で明らかにした「公教育の本質および正当性の原理」が、さまざまな行政や学校における教育構想の指針原理として採用・参照された。

このことを踏まえて、本書では、「公教育=教育学の構想指針原理」をもとに「教育学のメタ理論体系=学問としての教育学」を作ることを目的とする。ここでいうメタ理論とは、個々の理論や実践事例をより上位で包摂する理論のことである。また、教育を研究する上で「哲学」「実証」「実践」の3部門における各メタ理論を用意し、それら相互の原理的関係も明示するような体系を「メタ理論体系」と呼んでいる。

⑷ 教育学の三部門: 教育学では伝統的に「目的論(≒哲学)」「技術論(≒実践)」の2つの観点から研究が進められてきた。具体的には、哲学の一領域としての倫理学によって教育の目的を考え、その目的のためにどのような教育を行うことが妥当であるかを心理学の観点から考察する、というものである。その後、教育心理学や教育社会学が発展してきたことにより、教育学においても科学的な「実証」性に重きが置かれるようになる。本書ではこの流れを踏まえて、5節以降に定義する形で「哲学」「実証」「実践」の3部門に対してメタ理論を打ち出し、それらの相互関係も含んだメタ理論体系の構築を目指す。

(蜆の所感)
 今日の内容は、苫野氏の著作『どのような教育が「よい」教育か』の内容を振り返り、その内容を踏まえた本書の目標を提示するところまでです。その眼目は、昨日の⑴でも採りあげたように、各自の問題意識に基づいた各論ばかりが集積されている教育学の現状を鑑み、その大元となる指針を見出すことにあります。歴史的な流れも踏まえ、「実証」、すなわち教育学を科学として取り扱えるようにするところまでを視野に入れています。今『どのような~』も手元にあって読み進めているのですが、今回の WS でその内容を精査するところまではいけなさそうです。今年度中に note 記事を書いてみようと思っていますので、興味のある方はどうぞ。
 ここで大事なのは、苫野氏の試みは教育の唯一の「正解」を決めようとするものではないということです。"いい教育"なんてのは人によって千差万別なのだから、そこに共通の見解を見出すことに意味はないというのも一理あるかもしれませんが、かといって各自の信条に反しなければ何でもアリでいいはずもありません。千変万化する世の中の流れに沿って方針を柔軟に変えていこうと言えば聞こえはいいですが、根深い思想や十全な議論に裏付けられることなく、旧来からの貴重な蓄積までもをなげうつ形で、誰の目からしても不適切であることが明らかな教育改悪が繰り返されてきた原因がそこにあるように思えます。昨日使った言葉ではありますが、"最低限" 必要なものとは何なのかについて深く考えることなく "最大限" を実現しようとするから、現場の負担は増すばかりで、誰にとって有益なものになっているのかがぼやけてしまうと思うのです。
 SNS 全盛時代においては、誰もがあまり深く考えることなく自由に意見を発信できるようになりましたし、その一方で専門家や篤志家が一生懸命に "議論" をしようとして疲弊している様子もよく見かけます。いろんな人の考えが可視化されたことにより、とても理解できそうにない思想を持った人がゴロゴロいる現実に気付き「分かり合えるはずだから対話で解決しよう」という発想を持てなくなってきている気もします。僕も正直今採りあげているテーマの壮大さを前にしてへこたれそうですが、明日以降も頑張ります。

Day4

■ 蜆一朗

⑸ 「哲学部門」の根本問題: この部門は教育哲学にあたる部分であり、そのメタ理論は「公教育=教育学の構想指針原理」として打ち出される必要がある(この主張自体も「公教育=教育学の構想指針原理」や「メタ理論」の定義から自然に導かれる)。さしあたっての困難は、このメタ理論をどのようにして導出すればよいのかという哲学的な方法論そのものである。ポストモダン思想による相対化がそれに拍車をかけているため、現状多くの教育哲学者が半ば諦めの境地に立ち、それを試みる研究もほとんど成功をみない。そこで本書では「メタ理論を導出するためのメタ理論」を哲学部門におけるメタ理論Iと位置づけ、その構築を目指す。なお、ここでいう「公教育」とは、私立学校を含む学校教育という一般的な意味にとどまらず、民主主義・市民社会における教育全般、すなわち私教育をも含めた現代におけるすべての教育を指す。また、哲学部門のメタ理論Iを解明する過程において、哲学部門の探求において民主主義を土台に位置付けるべきだということも示される。

⑹ 「実証部門」の根本問題: 実証部門の隆盛に伴い懸念されるのは、事実の解明ばかりが量産され価値の問題が等閑視されてしまっていることである。たとえば教育経済学のような分野は、エビデンスに基づいて教育政策を先導するというその立場上、どのような意味で教育構想に資し、どのような目的意識によって行われるべきであるのかという「規範」に最大の関心を払う必要がある。しかし、このような哲学的な問いを説得的な形で論証することは社会学の範疇ではないとされ、その解明は教育学に投げられているのが実情である。したがって、教育哲学者が行うべき重要な仕事は、哲学部門のメタ理論Iを解明したうえで、その意義を実証部門に対して十分に示し、ただ効果的なだけの教育に異議を唱えつつ協働可能性を開くことにある。

(蜆の所感)
 ここ2日で繰り返してきましたが、各自の興味関心に沿った各論ばかりが積み重なる傾向にある教育学にあって、それらに共通する根本原理をメタな視点から見出そうというのが本書の基本精神です。教育哲学のメタ理論を出すために、原理を追求する哲学という学問の原理(メタ理論のメタ理論)を見出そうとするところもジェイラボと親和性が高そうです。第2章では、フッサール・ハイデガー・ヘーゲルを中心として「現象学」に言及してそのメタ理論を作ってきます。僕自身も現象学に興味が出ていろんな本をあさってみましたが、今年1年を使ってじっくり読むことになりそうです。具体的には

  • ヘーゲル『精神現象学 上・下』(ちくま学芸文庫)

  • 竹田青嗣『ハイデガー入門』(講談社学術文庫)

  • 田口茂 『現象学という思考 -<自明なもの>の知へ-』(筑摩新書)

  • 鈴木俊洋『数学の現象学 -数学的直観を扱うために生まれた現象学-』(法政大学出版局)

  • 信木晴雄『フッサール現象学における多様体論』(人文書院)

などに興味を持っています。竹田先生は本書でもたびたび引用される重要人物です。後半2冊は本書とはあまり関係ないですが、フッサールはもともと数学基礎論の研究者だったらしく、変分法に関する論文で学位をとっているようなので、僕の経験も生かせそうで楽しみです。
 また、ここで重要となる点は「公教育」が意味する範囲です。公教育の「公」は「公立」ではなく、一般には私立学校も含めた「学校教育」という範囲で考えられることが多いですが、本書では塾・予備校や習い事、さらには育児も含めた "教育" 的活動すべてを視野に入れています。大風呂敷を広げすぎな気がしないでもないですが、学校外でもさまざまな教育サービスにリーチできるようになった今の世の中において、学校教育だけを特別視してその復権を狙うような試みはもはや現実的ではありませんので、教育全般の中における学校教育の位置づけを再考する筆者の試みはかなり建設的な気がします。また、世の中の流れやプロパガンダに安易に飲み込まれないようにする(このことがまさに日本の教育改革の問題点でもあります)ためにも、教育を効果だけでなく規範的な側面からも精査する必要性を唱えているのは重要で大事なことであると思います。

■ Takuma Kogawa

 教育学が様々な分野を寄せ集めた応用学問であるなら、薬学や農学も同様の構造の応用学問であると思います。「教育学の専門家」だけが理論をこねくり回すのではなく、「他の学問+教育に明るい人」が参入することが「学問としての教育学」に奥行きを与えるのではないだろうかと思いました。
全然関係ない話ですが、しじみさんが使った「千変万化」という言葉を見て、某エロゲーブランドの「千恋*万花」というゲームはこの四字熟語からきたのかなと気づかされました()

▶ 蜆一朗  ありがとうございます。千変万化については、「移り行く」とか「変化が激しい」とかでもよかったんですが、その直前に「千差万別」という熟語を使ったので、韻を踏むというかリズミカルに読んでもらえるようにとの配慮から選んだ言葉です。エロゲのことには疎いので一つ勉強になりました笑 本筋とは関係なくても反応がもらえると嬉しいのでありがたいかぎりです。
 Kogawa さんの「他の学問+教育に明るい人が参入するのがよい」というご指摘はまさにその通りだと僕も思います。僕が教育学部に進まなかったのも、何か専門的に修めた学問を持っていなければいけないと思ったからです。もっとも学校教員やアカデミアの人々は基本的に社会経験に乏しいですし、自分の専門を外れた分野に明るくないのは何もおかしい話ではないとは思います。しかし、これは完全なる僕の偏見ですが、教育学界隈の人たちには「私は教育学の専門家なのです」「あなたたちよりは絶対に詳しいはずです」という態度をとる人が多いような気もしています。力が足りていないことを「教育を専門にしている」ということを盾に隠そうとしてくるというか開き直っているというか。自分の視点が教育学的な見地に偏っていることを自覚して、異なる意見に対して心を開くことのできる素養が必要であるとも思うのです。ちょっと毒が強いですかね。Kogawa さんのご意見に対してパッと考えたものなので、言葉足らずというか表現が雑で危なっかしいところが多々あると思いますが、まずい部分があればご教示願いたいです。

▶ Takuma Kogawa 学校教員やアカデミアに対して社会経験に乏しいと言うと、刺されても文句はいえないと思います(そこは「社会」ではないとか社会性が育たないという意味を含むため)。多くの集団は、その中の「社会」と、地域や国全体などの「社会」は一致しないと思います。でもそれを意識せずに権威性をもって「これが正しいのだ」という押し付けをすることに、アカデミアらの思慮の浅さや傲慢さが見えるのでしょう。そういう人が象牙の塔に集まるのはある意味で「社会」の掃き溜めとして機能しているかもしれません。

Day5

■ 蜆一朗

⑺ 「科学性担保の理路」と「科学的価値の原理」: 科学研究のエビデンスには、RCT(=Randamaized Controlled Trial : 対照実験)およびその統合的手法を頂点とするヒエラルキーが存在する。一回性の高い現象を取り扱うことの多い教育学においては、その序列において高位に位置する研究方法を用いないことも多いが、そのことを理由として、教育学は信頼に欠け科学的な価値が低い学問だと結論付けてはならない。教育学は、多様な子供たちにとっての多様で効果のある教育の在り方をきめ細やかに明らかにする必要があるため、相互補完的な質的研究を行うことが不可欠だからである。常にRCTを実施するわけにいかない教育学研究が "科学的に妥当である" という共通理解を得るために、量的・質的研究の土台となる「科学性担保の理路」を解明することは極めて重要となる。このことと、そもそも科学的に価値があるとはいったいどのようなことであるのか、についての「科学的価値の原理」を合わせたメタ理論Ⅱの解明を目指す。

⑻ 「実践部門」の根本問題: この部門では、さまざまな現場で使える "実践理論" および個別具体的な "実践方法" の開発を目的とする。具体的には次のような方針をとる:

  • 哲学部門のメタ理論Iに基づき、教育実践は何を目的にするべきかを見定め、さまざまな実践を導く中核的な考え方を理論として提示する。

  • 実証部門のメタ理論Ⅱを軸に、どのような実践方法が科学的に妥当で価値を持つのかを精査し、実践理論を踏まえて具体的な実践方法を定義する。

この取り組みを踏まえて、

  • 膨大かつ多様化・細分化した実証部門の諸知見を相補的・共同的・整合的に再構築し体系化すること、

  • 有効な実践理論や実践方法をどのようにして開発することができるのかに関するメタ理論Ⅲを作ること

を目標とする。最後に研究のまとめとして、各部門におけるメタ理論およびそれらの相互関係を整合的に総合した「教育学のメタ理論体系」を構築する。このことにより、教育学の研究の目的や、自分が関心の持つテーマや研究方法がどのような意義を持ちどのような位置づけにあるのかを確かめることができるようになれば幸いである。

(蜆の所感)
 教育では対象とする集団が毎年のように入れ替わるので、ある学年学級でうまくいった実践が他の状況でも効果的になるとは限りません。だからといって行き当たりばったりでよいわけもなく、生徒の反応や状況を踏まえて細部を調節することはあっても、根幹となる部分については再現性を持たせることができるはずですし、そうでないというのであれば "一定の能力を身につけさせる" という教育そのものの可能性や存在意義がなくなってしまいます。

 また、とにかく不評な一斉教育の反動か、"アクティブラーニング"や"反転学習"のような新しい指導法の概念がたびたびトレンドになりますが、これも何か特定の手法を神聖視するものではありません。生徒一人一人の状況が異なる以上、各自が取るべき最善の方法もまた十人十色になります(個別最適化というのも流行ってますね)が、全員を最適化しようとし過ぎて管理の負担が肥大化するようではいずれ立ち行かなくなります。浮きこぼれ・落ちこぼれをなるべく減らしつつも集団授業/生活が破綻しないようなやり方が見つけられればいいなと思います。

 ここまでで本書の概要や方針を説明してきましたが、かなり長くなってしまいました。時間制約上3つのメタ理論のうち最初の1つしか紹介することは叶いませんが、ジェイラボに最も親和性があると思われる哲学部門を採りあげることになります。フッサールに代表される現象学をしっかり採りあげるので、僕の担当パートよりもずっと濃くて難しいものになってはしまいますが、フォローを入れつつ進めていきたいと思います。4日間ありがとうございました。明日からは隕石君が担当してくれます。引き続きよろしくどーぞ!

Day6

■ チクシュルーブ隕石

こんばんは!
今日から僕の担当になります。よろしくどーぞ!

相対主義の興隆  今日の教育哲学はポストモダン思想の影響のもと、そもそも教育とは何か、「よい」教育とは何か、という探究をほぼあきらめている。何も頼ることのできない状態で、その「よるべなさ」を生きることがただ一つの身の処し方でないかという意識は多くの教育哲学研究者が共有するところであろう。教育における相対主義は『このような教育が「よい」教育である』という言説を相対化していく立場である。一つは帰謬法を駆使した論理相対主義、もう一つは歴史的相対化である。

 帰謬法とは何かの命題を例外や矛盾をつくことで「それも絶対に確かとはいえない」と論理的に相対化するものである。近代教育学の父とされるコメニウスは、教育を「神の作った世界を知り、神への敬虔を育む」為のものとした。カントは「人格性」「道徳性」を教育の目的と考えていた。また、近代公教育の父コンドルセは、教育を「権利の平等」を保証するものとして考え、絶対的真理が万人に教えられるべきとした。以上のように、普遍的とされてきた多くの価値観も相対化され、いかなる価値に基づいて教育を構想・実践すべきかについて何も言えなくなってしまったのである。

 それに対して歴史的相対主義は、今日の教育において自明視されていることを歴史的文脈の中で相対化したり、教育が目指してきたものが実はむしろ反対のものを実現してきたということを論証したりするものである。
フーコーが『監獄の誕生』の中で論じたように、自由で自律した個人を育むものと思われていた教育が、実は権力に従順な人間を育ているのでないかということである。以来、教育学は試験や成績、時間割、制服などの装置によって管理されてきた学校教育における権力を暴露することに多くの力を注いできた。

 ただ、近代が以前の時代に比べて圧倒的に自由や平和、平等、健康長寿などの実現への認識が広まったことを背景に、歴史的相対化は一時の流行に比べて勢いを失っている。フーコーの指摘した教育における規律訓練型権力の問題はあったのだとしても、公教育が多くの市民に恩恵を与えたことは間違いのない事実である。

 教育がその本来あるべき姿からかけ離れているならば、批判は妥当である。しかし、その批判は公教育の本質及び正当性の原理の観点から為されるべきなのだ。

Day7

■ チクシュルーブ隕石

こんばんは。本日の投稿はこちらになります。

現象学による相対主義の克服  公教育の本質・原理を解剖するにあたって、より問題となるのは論理相対主義の方である。前章で述べたように、論理相対主義という強力な論理が教育の原理を強く打ち出すことを抑制している。しかし、著者の苫野氏は根本的に克服が可能であると述べる。

 まず、私たちは何らかの絶対的真理を把握することなどできない。絶対に「よい教育」も「正しい教育」も私たちは知り得ないし、想定することもできない。

 たとえば、私たちは目の前にある黒いマグカップが絶対に黒であるということを証明することはできない。デカルトの「夢のたとえ」にあるように、究極的には我々が現実と思っている世界それ自体が夢であるということも証明しようがない。つまり、私たちが外部に客観的に存在していると信じている世界は、原理的には確実に存在していると考えることのできないものなのである。 このようにデカルトやフッサールは徹底して、哲学は懐疑可能な事柄を「思考の始発点」としてはならないと考えた。 このことから「目の前に黒いマグカップが存在する」ことも究極的に懐疑可能となる。マグカップの存在自体も絶対的には確かめることができない。つまり、客観主義もまた思考の始発点にするわけにはいかない。そこでフッサールは客観世界があるとする考え方(現象学では「自然的態度」と呼ぶ)は一旦脇に置いておかなければならないとする。フッサールは、素朴な客観存在への信憑を保留することをエポケーと呼んだ。ここまでの考え方は、先述した懐疑主義・相対主義と大きく異なるものではなく、古代ギリシアの懐疑主義者たちが用いていたものである。現象学が単なる懐疑主義・相対主義と大きく異なるのはここからだ。

 「主観-客観パラダイム」は、主観は絶対的な客観物に的中するかというもので、主観が客観を最終的には正確に知りうるというものや、限定的に知りうるとするもの、そもそも主観など存在しえず全ては物理法則であるとするものまで様々なバリエーションがある。それに対し、相対主義は客観的なものなど存在しないということを帰謬法を用いて相対化する。しかし、現象学からすれば相対主義は何らかの客観を措定して相対化を行うので、懐疑可能な前提を敷いてしまった点で「主観-客観パラダイム」と同様に誤った思考の枠組みとして考えられる。その意味で、相対主義も結局のところ「主観-パラダイム」の思考の枠組みから抜け出せていない。自然的態度をエポケーしても、何らかによってわたしに確信されているという意識作用については疑うことができない。この意識作用をフッサールは「超越論的主観性」と呼んだ。懐疑主義・相対主義はあらゆる命題を懐疑し相対化するが、懐疑主義者や相対主義者もマグカップが「見えてしまっている」ことは疑うことができない。この確信成立の条件と構造を解明することこそが現象学思考の肝なのだ。教育の文脈を用いると、現象学では客観的な「よい教育」の真理を探すのでなく、相互の「確信・信憑」を基に「よい教育」の共通了解を見いだすことが肝要なのだ。

 現象学はしばしば最終的に「他者」を私へと回収する暴力的な哲学と批判されることがあるが、それは誤りである。ここで大切なのは、私から見た「他者」は私の「確信・信憑」にのみよるということだ。このことから現象学は、自分自身の「確信・信憑」を絶対的なものと捉えない最もラディカルな「他者」の尊重をする哲学といえる。

Day8

■ チクシュルーブ隕石

こんばんは、本日も投稿を行いたいと思います!

個的直観と本質直観  現象学の本質は「確信成立の条件と構造」を解明することにある。では、私たちの様々な確信を司る最も原的な源泉は一体何なのか。フッサールはそれを「諸原理の原理」と呼び、その中身を「個的直観」と「本質直観」とした。「個的直観」とは、「見えている」という知覚のことで、もう一つの「本書直観」は、本質的な「意味」が理解できるというものである。これら二つの直観は不可分なものとして直観される。つまり、私たちの直観は知覚と意味を同時に捉えて様々な確信を生じさせる。これまでで述べてきたように、私たちは「対象が見えている」というところまでは遡ることができるが、自らの認識の究極的な原因を確定することができないのだ。

Day9

■ チクシュルーブ隕石

こんばんは!続きになります。

「状態・事実論的アプローチ」とその問題  ハラリは『ホモ・デウス』で人間がアルゴリズムにすぎないならば、AIが社会を支配する事に問題は無いとする「データ至上主義」について論じた。これは、何らかの仮説的事実からあるべき社会のあり方を構想する「状態・事実論的アプローチ」の典型的な例である。しかし、この思考法には3つの原理的問題点がある。

 1つ目の問題は「事実」とされるものとそこから導出される「当為」との繋がりが極めて恣意的であるという所だ。当為を一意的に導く過程に恣意性が生じるのである。

 2つ目の問題は、「事実」とされているものが絶対の事実と決していえない事である。哲学は懐疑可能な前提を「思考の始発点」とすることを禁じている。仮説の上に仮説を重ねる社会理論は共通了解可能性を著しく欠く脆い理論であるほか無い。そのような脆い仮説に基づく「当為」の導出もまた原理的に成立し得ない論法なのだ。

 3つ目の問題は、「事実」から「当為」を直接導出する危険性である。この危険性は人類の歴史を見れば火を見るより明らかだ。教育の世界でもそれは全く変わらない。

 次節では、教育政策の「正当性」の原理を「一般福祉」の原理として提示する。教育政策は、ある一部の子どもの自由だけを実質化するものであってはならず、全ての子どもの自由を実質化するものでなければならないという原理である。仮説的「事実」は、何らかの「当為」を導出する前提には決してなり得ないが、「当為」を実現するための一つの参照材料にすることはできるのである。

Day10

■ チクシュルーブ隕石

こんばんは、続きを投稿したいと思います。よろしくお願いします!

「情動所与」の発見  哲学者の竹田青嗣はフッサール現象学において「諸原理の原理」を発見し、「一つの知覚体験に本質的に属するのは、個的直観、本質直観、情動所与の三つの契機である」と述べた。人が認識をする際に何らかの気分、感情、欲望が発生すること、竹田はそれを「情動所与」と名付けた。苫野氏によれば、情動所与は人間・社会科学におけるさらなる可能性を開くものであるという。私たちは常に何らかの情動の中を生きており、必ずそれを「確かめる」ことができる。しかし、それらの気分がなぜ現れているかは分からない。私が確かめられるのは何らかの情動を持っているという所までなのだ。また、私たちの認識において、個的直観と本質直観、情動所与が「原的な所与として等根元的な基本契機」であることも押さえておかねばならない。私たちは、これらを最も根本的な根拠として世界確信を抱いているのである。

Day11

■ 蜆一朗

 我々はどのような営みのことを「教育」と呼び、どのような基準をもって「よい教育」「よくない教育」だと判断しているのか。また、このような問に対する答えやその「確信・信憑」をどのように成立させているのだろうか。こうした問いに対して、先ほど紹介した「情動所与」の概念が重要な役割を果たす。

 たとえば音楽を耳にしたとき、リズム・メロディー・ハーモニーという聴覚的な個的直観を知覚し、音楽だ、ピアノ曲だ、ジャズだ、〇〇の曲だ、といった性質に関する本質直観を持つだけでなく、心地よさ・感動といった情動が同時に与えられる。このような意味や価値の本質は、絶対的な真理として存在するものではなく、個々がそれぞれに確信するものであり、だからこそ我々の情動所与に相関的に成立するのである(このことを「欲望ー関心相関性の原理」と呼ぶ)。

 対象が万人に共通するという想定が可能な物理学などとは異なり、教育学を含む人間社会科学においては、現象の観察・概念の定義・量的情報の測定法までもが観察者の欲望ー関心に大きく依存する。たとえば「よい教育だ」という「確信・信憑」が
 *この先生が人間的に好きだ
 *こんな学校に自分の子供も通わせたい
 *この指導方法によって生徒の成績や学習意欲が飛躍的に伸びた
といった欲望や関心に結びついて得られるように。もっというと、物理学などにおいて「研究対象として共有されている=複数の人々の間に共通する「確信・信憑」がある」と感じられること自体もまた私自身の「確信・信憑」に他ならないのだ。「すべての実証科学は超越論的にエポケーに服さなければならない」とフッサールが言ったように、各自の「確信・信憑」を内省的に省察することは、教育の本質や正当性を述べるためのメタ方法論であるにとどまらず、あらゆる学問をもっとも底の部分で支える思考の原理なのである。

 最初の問いに戻る。我々は何をもって「よい教育」だと「確信・信憑」し、その際に我々に所与される「欲望ー関心」とは何なのだろうか。もしそれを共通了解可能な仕方で「よい教育」だと呼びうるならば、その成立条件となる "普遍的に了解され得るような「欲望ー関心」"が存在するのだろうか。存在する場合、それを十全に達成しうる社会や教育の根本条件=「公教育=構想指針原理」とは何なのだろうか。このような方針のもとで教育学を構成していく営みのことを「現象学=欲望論的アプローチ」と呼ぶことにしよう。この時点で答えを出すことは叶わないが、相対主義を克服する形で件の難題に力強く答えるためには、哲学的観点からも我々の認識の在り方からしても、この方法以外にはありえないのだ。

Day12

この日は投稿がありませんでした。

Day13

■ シト

 こんにちは。
 今日から担当するシトです。
 よろしくどーぞ。

人間的欲望の本質は〈自由〉である  わたしたちが「よい教育」であると確信する条件(欲望―関心)は、わたしたちの〈自由〉への欲望が実質化されることだ。そして、このために必要な社会的―教育的条件は、社会が〈自由の相互承認〉の原理によって構想され、公教育がその原理を最も根底で支える土台になることだ。ヘーゲルは、人間的欲望の本質は〈自由〉であると言っている。人には誰にしも必ず複数の欲望を持っている。その欲望自体によって、つねに規定され、制限されることによって不自由を感じずにはいられない。愛されたいと思っているが、愛されないという不自由を感じずにはいられないのだ。また、その複数の欲望は、衝突し合うことさえある。人に好かれたいからといって自分を曲げるのは嫌だといったようなことはあるだろう。つまり、何らかしらの形態となった欲望をもとに考えるときりなく人は不自由と自由の循環を繰り返していく。しかし、そのなかでも常にある共通するものは〈自由〉への欲望だ。そういう意味で、人間的欲望の本質は〈自由〉であり、どれほど自由だと感じるのかという「感度」なのだ。

Day14

■ シト

 こんばんは 遅れましたが、投稿します。内容的には、〈自由〉と幸福・〈自由の相互承認〉の原理の2つとなっています。

〈自由〉と幸福、〈自由の相互承認〉の原理  人間は「幸福」ではなく〈自由〉を求めると言った方が原理的である理由を3つ述べる。
 1つ目は、自らが欲望存在であり、またそれを自覚しているがために、本質的にそれら欲望に規定された不自由を感じている。そのため、この欲望を達成するなりなだめるなりして、〈自由〉になりたいと本質的に欲さざるを得ないというものだ。「幸福」への欲望は確かにあるが、それは、何が自身にとっての幸福かがすでに規定されている。そのため、それを達成するなりなだめるなりして〈自由〉になりたいと本質的に欲さざるを得ない。つまり、「幸福」は形態であるが〈自由〉は諸形態すべてに共通する本質的なものだということだ。
 2つ目は、「幸福」なき〈自由〉の感度はあり得ても〈自由〉なき「幸福」の感度はあり得ないというものだ。ここでいう「幸福」とは“満たされた自由”の“有りー難さ”の味わいである。人はしばしば、災害などで“有りーふれた”と思える日常をつつがなく暮らせている状況を「幸福」だったのだと気づくことがある。それはそこに“有りー難さ”があるからだ。「幸福」とは、絶えず〈自由〉を求めることをやめ、もはや〈自由〉を求めていたことさえ忘れてしまうほどに自らの存在がただただ満たされていることの実感だ。そういう意味で「幸福」には〈自由〉が必ず関係するが〈自由〉に「幸福」はなくてもいいのだ。いじめから解放される方法として通っていた学校をやめた際、〈自由〉は感じても「幸福」までは感じないだろう。
 3つ目は、社会・教育思想の観点からは、〈自由〉を起点にしたほうがより強靭な原理が導出できるというものだ。ヘーゲルによれば、承認を欲する者としての人間は、まずは自らの〈自由〉を他者に承認させようと努める。つまり、なにをしようにも他者という不自由が付きまとうのだ。そのため、人間の歴史は〈自由〉をめぐる命の奪い合いとなっている。戦争で勝った者が主となり自由を手にし、敗れた者が奴となり不自由を手にする。奴は不自由な状態に置かれているがために、強く〈自由〉を求める。その一方、主は〈自由〉をただ享受するのみとなる。そして、戦いをすることで、奴が主になり、主が奴になるといった連鎖が始まる。連鎖とあるように結局は〈自由〉を手にすることはできないということを意味している。この〈自由〉を手にするには、相手が〈自由〉な存在であるということ、〈自由〉を欲する存在であることを、まずはお互いに承認し合うという〈自由の相互承認〉が必要だ。その上で、互いの〈自由〉の在り方を調整し合う社会を作り出すほかないのだ。

■ シト

 こんばんは 2週間、『学問としての教育学』の第1章と第2章の半分ほどを一緒に見ていきました。普段、触れないような教育の一分野(教育の中でもすごくマイナー)ですが、教育研の理念とかぶるものなので、次回のWSでも続けていきたいと思っています。これをもとにこれからの教育について皆さんと引き続き教育について考えられたら幸いです。

では、2週間ありがとうございました。

最後に

 時間の都合上、本ワークショップでは第2章の途中までしか採りあげられませんでした。教育研究部が来年度以降も継続して活動できるかどうかが不透明ではありますが、個人的には引き続きこの本を精読していこうと思っています。

 また、近日中にシト部長による本ワークショップの振り返り記事が公開されますので、公開され次第そちらのリンクも貼り付けます。


 今回のログは以上になります。ありがとうございました。

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