ジェイラボワークショップ第66回『リテラシーと教養』【教育研究部】[20231016-1029]
部長挨拶
■ シト
こんばんは。教育研究部部長のシトです。
本日から2週間を通して教育研究部のWSを行います。
よろしくお願いいたします。
今回のテーマは「教育を通したリテラシーと教養について」です。
義務教育とは何か。それは、国が親に対してその子に教育を受けさせる義務を課すということです。それはなぜか。その一つに国民としてこれぐらいのリテラシーと教養を持ってくれないと困るからそれを身に着けてくれというのがあるでしょう。そこにおける教師の専門性とは何なのでしょうか。そして、それを行う際どのようなことが大切になってくるのでしょうか。これらについて扱っていきたいと思います。
科目から見たり、最近の学校教育から見たりしながら質問をしていきます。
それでは皆さん、ぜひよろしくお願いいたします。
蜆担当分 古典教育と教養・リテラシー
■ 蜆一朗
こんにちは。1週間ほど蜆が担当いたします。
ここ1カ月で読んだ本の中で最も印象に残った本に『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた』というものがあります。本書は 2019 年 1 月 14 日に明星大学日本文化学科にて行われた「古典は本当に必要なのか」というシンポジウムにおけるパネリスト発表とディスカッション、参加した方のアンケート、編者の論考をまとめたものです。
否定論者として招かれたのは某国立大学の理工系研究所教授とAI研究者の2人で、両者は「古典は高校教育の必修から外すべき」という点で意見が共通しています。一方で、肯定派として招かれたのは東大と日本女子大の文学系教授の2人で、各自の専門的な見地から古典を学ぶ意義を解説されました。
数学をやった古典好きとして、本を読む前からどんな意見が交わされているかが(肯定派のものも否定派のものも)大体想像できましたし、実際ほぼ想定通りでした。それでも両者の論点や議論の様子からいろんなことを考え反省することができました。今回のWSでは実際に「古典は本当に必要なのか」というテーマを導入としてそれを発表してみたいと思います。
■ 蜆一朗
実は先述のシンポジウムの様子は YouTube にも上がっているのですが、あいにく全部で 3 時間 40 分あります。安心してください、それをぜんぶ見ろというわけではありません。幸いにも登壇された4人の意見を簡潔にまとめてくれた 14 分ほどの動画も YouTube に上がっています。4 人の意見は前半の 8 分 30 秒にありますが、残りの時間は当該シンポジウムの続回から新しく参加された肯定派 2 人のものであり、肯定派の人の意見を知りたい方には有益だと思います。WS 最初の取り組みとして、これら 2 つの動画のリンクを貼っておきますので、後者の 14 分の方だけでもまず目を通していただきたく思います。
[質問] 以下の問いのうち、答えやすいものに答えてください。いくつ答えていただいてもかまいません。⑷⑸はもはや古典が関係なく上記の動画を見ていなくても大丈夫なものですが、後々この方面にもつなげて話をしたいと思っています。
⑴ シンポジウムで実際に出た上記動画の意見を踏まえて、その中であなたが引っかかったものについて意見や感想を聞かせてください(論理的な反論でも愚痴でもOKですが、後々 note 記事として投稿できる範囲でお願いします)。
⑵ 古典を勉強することで身につく力のうち「現代でも役に立つ」ものがあるとすれば、それはどんなものだと思いますか?
⑶ 学生時代の経験を踏まえて、古典の好きポイントや嫌いポイントを自由に教えてください。
⑷ 「高校数学において初等幾何を必修から外すべきだ」という意見について、あなたの思うところを聞かせてください。
⑸ 学校教育において「〇〇を教えるべきだ・〇〇は必要ないんじゃないか」と思う事柄があれば何でもいいので教えてください。
[今後の主な予定]
・金曜日までは、新規の投稿をせずに皆さんのご意見に反応しようと考えています。
・土日には、このシンポジウムを見て僕が感じたことを紹介したいと思っています。
・議論の盛り上がり具合によって、これらの予定は変更される可能性があります。
僕からの投稿は以上になります。積極的に参加してくださると嬉しいです。
■ 西住
■ 西住(解答)
⑴ 文化の流れを学ぶのに古文(言語)は必要ですかね。源氏を読む人も現代語訳で読むと思いますが
⑵ 大昔の常識
⑶ 古文は恋愛話ばっかりで全然興味が湧かなかったです。漢文は人間いまも昔も変わってないことわかって面白いです
⑷ 初等幾何も数学の古典ですかね。大学で理系に進んだとてほぼ使わないと言う意味で、一考の余地はありそうです
⑸ 民法と行政法は教えても良さそう
■ 蜆一朗(返答)
貴重なご意見ありがとうございます。
⑴~⑶ 古典教育を設計する人たちには、作品として古典を楽しむ心と、現代に通ずるリテラシーを身につけさせる教材としての位置づけとを、両方尊重しつつ分けて考えてほしいと個人的に思っています。そして学校教育では後者に力点を置くべきだと考えます。古文で恋愛話が多いのは、採りあげる題材が平安女流文学に偏っていることにも原因があり、再考の余地が大いにあります。
⑷ 「初等幾何も数学の古典だ」というのが、まさに僕が言いたかった視点です。他者を理解することの前提として誠実な内省が必要なのではないかと思います。現代社会との接続の薄さという視点から古典を批判する人たちは、なぜか初等幾何に同じ目を向けることがありません。数学のカリキュラムに噛みつく人の武器はいつも決まって三角関数です。
⑸ 人文系の科目を教えるというのは本当に難しいと思います。数学や物理のようなピラミッド型の設計が難しい点で、カリキュラムが合理性に欠ける気がしてしまうのかもしれませんね。
■ Kogawa Takuma
■ Kogawa Takuma(解答)
⑴ ・このシンポジウムにおいて「古典」をどう定義するかを最初に決めておいてほしかったと思います。パネリストによって異なるので少し困りました。
・現代文を学ぶことが必要であることが前提になっているように思いました。個人的には、国語教育で何を目標とするかという根幹についてもう少し議論されてほしかったです。
・渡部の「物事は言葉に即して考えられている」には同意します。牧野成一『日本語を翻訳するということ』で説明されていたことを借りると、言語の翻訳や変換によって失われるものがあります。古典を古語で読む意味は少なからずあるでしょう。
・古典が必要かが議論の対象になるのはそれが国語科に含まれているからであって、社会科であれば気にされていないのではないかと思いました。国語科なら言語として古典を学ぶ意味を問われると考えますので、文化的な利点を強調されても私には説得力を感じません。
⑵ 「なろう系」の創作の参考になるかもしれません。即興で詠んだ歌で相手を感心させたりするのはフィクションとして面白く、人によってはその知的な香りが好きだと思います。
⑶ 点数がとれないので嫌いです。
⑷ 図形的に考えるという方法を奪われると、他の領域の指導も困りそうです(ベクトルとか)。高校の初等幾何をすべて義務教育に移せばいいのではないでしょうか。
⑸ 国内には色んな人がいるということを様々な側面から学習できるといいですね。アフリカの貧しい地域に食事や医療を提供したいと思う人でも、国内にいる似たような境遇の人に同じことをするべきと考えるのか、そもそも存在を認識しているのか気になります。
■ 蜆一朗(返答)
⑴・僕もそこが残念でした。結局各自の思う古典観をぶつけ合っただけで議論になっていませんでしたね。そのおかげで「議論のリテラシーを学ぶべき」という主張には説得力を感じました。
・現在の古典教育の目的の一つに、言語を意識的に運用できるようにすることがあり、そのための相対化の手段として"古文"が採用されていると考えます。ただ、古文がその手段として機能するためには、Kogawa さんの言うとおり、現代日本語の読み書きに関する一定レベルのリテラシーが前提となります。個人的にはこの意味で、古典をどうするかよりも「現代日本語の"読み書き"のリテラシーを義務教育段階までにどれほど身につけさせるべきか」についてもっと考えてほしいです。賢い人が議論をすると「議論=聞く話す」ばかりが問題になり、その基礎であるはずの「読む書く」が後回しになってしまうのが残念です。
・文字に起こしたりしゃべったりする時点で、すでに頭に浮かんだ現像の何%かは失われています。それを他者が読み…という形で伝言ゲームが進み、情報はどんどん不正確になっていきます。その問題点を認識して、なるべく原典に近いものの、客観的に読める部分をなるべく正確に読み、なるべく正確に伝える、という形でそれに抗おうとするのだと思います。数学ならこの重要性が自明として扱われますが、人文系だとそこまでではないという印象があります。筆者の思索の続きを引き受けることまで含めて「本を読む」なのだ、と考えられる人を増やすことが重要だと考えます。
・ひとつ上に述べたような言語の不完全さに自覚的になるということが「言語として古典を学ぶ」ことなのだと考えます。言語としての古文が我々にとって「わかりそうでわからない」ラインを突いているという意味で、現代文でも英語でもラテン語でもない理由が説明できると考えます。
⑵「なろう系」というのは異世界転生ものと近い感じでしょうか。僕はそのへんに疎いのですが、現世に難を感じている人が別の世界に救いを見出す、というのは気持ちとしてよくわかります。古典がその選択肢になればいいことだと思いますが、一般に古典は過去のものとして扱われているのでそうはならないかもしれません。
⑶ 本来「高校で古典をどこまで扱うべきか」と「大学入試で古典を出題するべきか」は無関係であるはずですが、大学入試で出題されなければ学校教育でしっかり扱われることもないというのが現実です。2次試験でも理系に古典を課すのは東大と京大だけですが、理系科目の難度を調節するよりも「国語を課す」ことで選抜の機能性を高めているのかもしれません。僕は共通テストで文系理系問わず一律に古典を課す必要はないと考えますが、現代文と古典とで試験科目を分けるわけにはいかないという事情もありそうです。
⑷ 初等幾何は数学の最前線ではないかもしれませんが、その重要性はある程度認識されていますね。現代社会との接続の薄さという視点から古典を批判する人たちは、なぜか初等幾何に同じ目を向けることがありません。いつも決まって三角関数です。僕にはこのあたりが面白く思えます。まさに Kogawa さんが中庭に貼っておられた画像(注:「結局のところ、彼らに必要なのは貶める対象であり偏見の妥当性は問題ではないのだろう。」)のとおりなのかもしれません。
⑸ 猿倉氏はとにかくエリート層のことしか頭にないのだという印象を受けました。古典や数学は現状でも3年間を通じて必修になっているわけではないのに、その辺のことを無視しているのは残念です。いろんな人がいていろんな考えがあるということを最も庶民(=自分)に近い立場で学べる科目が古典です。彼がいろいろなものに寛容でないのはまさに古典から学べなかったからではないのか、と思ってしまいます。
■ チクシュルーブ隕石
■ チクシュルーブ隕石(解答)
⑴ 理工系の研究者、AIの研究者が古典否定派で文学系の研究者が古典肯定派、という部分があまりにも予定調和すぎて少し物足りなく感じます。理工系で肯定派や文学系で否定派と言った人材がいれば、ポジショントーク的ではなくより突っ込んだ議論ができたのでは無いかなぁと思いました。
⑵ 自分が分かるか分からないかのギリギリのラインの文章を読む訓練になると思います。その意味では、文脈を読む力の涵養には良いのでは無いでしょうか。
⑶ 古典は比較的苦手な人間だったので、古典を自ら進んで読むという経験はほぼ無かったです。ただ、古典を読む中で「古の人間達も意外と下らない事で悩んでいるんだな」という部分を感じとれる事が多かったので、その部分は好きでした。
⑷ 初等幾何は受験的に最重要な項目ではないですが、じっくり考えてと数学するにはとても良い題材と思います。その為、必修から外す必要は無いと考えています。
⑸ 地学の立ち位置は若干気になっています。しっかり教えるなら教える、そうで無いなら科目としては残さないという動きはあっても良いかなと思います。
■ 蜆一朗(返答)
貴重なご意見ありがとうございます。
⑴ パネリストの人選についてはまったく同感です。「古典は必要か」ではなく「古典教育はどうあるべきか」という議題にしていない時点で、建設的な議論より話題作りを優先したのだなという印象です。
⑵ ミーティングでも話したように、古典でも文章をちゃんと読む訓練はできるはずですが、それは本来現代文でやるべきことですよね。「客観的に読める部分をちゃんと読む」という狭義の意味での読解力すらままならない現状では、古典は題材として難しすぎるのだと思います。
⑶ 僕としては、古典の登場人物を「昔の人」ではなく「人間」として捉える意識を持つかどうかで向き合い方が変わってくると考えています。時代背景による細部の違いはあれど、大体似たような問題意識を持っているのも現代に通ずる何かを見出せるのも、古典には人間の本質的な部分がしっかり表出されているからだと思います。
⑷ 数学が好きな人は、数Aで学ぶ初等幾何・整数・数え上げの少なくとも1つにハマった時期がある気がします。このあたりは時間をかけて手を動かさないと力がつきませんが、多くの科目を勉強しないといけないという制約上そうもいかない残念さがあります。
⑸ 物化生地にしろ地歴公民にしろ、本来は不可分であるはずの科学をこうして割っている事情をこそなんとかしたいですね。古典は話題になるだけマシなのかもしれません。
■ YY12
■ YY12(解答)
⑴ 近藤先生の「空間の多様性や歴史的変化の構造を学ぶために有効」というのは僕が感じてることに近いです。
⑵ ⑴にも繋がりますが「日本人」としてのアンカー(錨)にはなっている気がします。歴史的な深みや文化、文学などを一律に学ぶことで日本という島国の歴史が色づいて、同じ民族としてのアイデンティティも強化されている面はあると思います。(それが役に立ってるかは断言できないけど、個人的には良いことだと思う。)
⑶ 好き:昔の人の生活や感性に触れられるのが面白い。
嫌い:単語や文法を暗記するのがめんどすぎる。
「言語体系を正確に身に着けてそのルールの中で物事を考えていく」という教育における核心の役割は果たしているが、「それは数学や英語で事足りるんじゃないか?」という気持ちがあって全然前向きになれなかった。
答えにくかったので(4)は飛ばしてます。すいません。
⑸ 小中の「音楽」には意味を感じられませんでした。ミュージック自体は大好きですが、リコーダーやピアニカ吹いたり「俺なにしてんだろ..」と子供心に泣いてました。
■ 蜆一朗(返答)
貴重なご意見ありがとうございます。
⑴ 僕も近藤先生の説明には納得します。多様性とか構造とかを学ぶだけの下地がなかなか手に入らないのと試験で問うことが難しいのとで、本来の目的が実現しにくいのだろうなと感じます。
⑵ 自分の生活にちゃんと目を向けると、衣食住のほぼすべてが自分でない誰かの労働の成果であることに気がつきます。同じように、日本で今享受できている文化や言語もまた誰かが受け継いできたものです。YY 君が仰るように「役に立つ」とは別の次元かもしれませんが、無意識のうちに得たものに自覚的になるのは重要だと僕も思います。
⑶ 古文単語や古典文法をみんながみんな覚える必要はないと僕も思います。⑵ で述べたような古典を学ぶ意義は試験で問える類のものではないのですが、試験で問われなければ真面目に取り組む人が減る、という難しい問題があります。僕は古典について「必修から外さないほうがいいが試験で問う必要はない」という立場です。
⑸ 音楽や体育は軍隊的な側面を持っていて、それが原因で嫌いになった人も多くいると思います。本来目的とするところにも学校で扱う意義にも疑う余地はないのに、実際の現場で採られているやり方がマズくて機能していないケースは多そうです。みんなの前で強制的にやらせるという形は試験以上に残酷かもしれませんね。
■ 蜆一朗
ご意見を投下してくださった皆様ありがとうございました(引き続き他の方のご意見もお待ちしております)。
■今回この話題を取り上げた理由
「古典は必要か」という議題から入りましたが、正直この問いに答えを出すことにはあまり興味がありません。理系の生徒がこう問いかけてきたなら宥めて時間をつぶせば十分ですが、国家規模で教育課程を変えるなんて大きな問題は僕の手に負えません。隕石君が触れてくれたように、このシンポジウムには人文系と理工系の両方についてある程度の見識を持つパネリストがいませんでした。おこがましいですが、数学をある程度かじった古典好きとして、そこそこ中立な立場で意見を出せそうだと思ってこの問題を取り上げた次第です。せっかくなので思うところを書いてみたいと思います。
① 古典を教える異議は、古典そのものではなく「古典を読むという意思や選択肢を持たせること」にある
現在の古典教育で扱われる題材は、源氏物語や和泉式部日記に代表される平安女流文学と、宇治拾遺物語や古今著聞集に代表される中世説話集の2ジャンルに大きく偏っています。いずれも文学作品として「イマ」と切り離して楽しむことができるので、これらに触れた人が古典は過去の存在だと感じるのもやむを得ないかと思います。また、古典文法による説明がつけやすいという指導上の利点もあり、無味乾燥な暗記に辟易した人が現代語訳で十分だと感じるのも無理はありません。でも、本来の古典というのは、現在に行き詰まったときに一旦「イマ」を相対化することで問題の本質を炙り出しやすくするためのものではないでしょうか。古典とは、過去の人の思考を構造(=知識)として引用するためのものではなく、現在を生きる我々の思考や表現がその先を目指すための指針とするためのものだと思います。今現在、メディアの発達や本人の性格的な問題も多分に影響しているとは思いますが、悩みに直面したときに「本を読む」ことが選択肢に入る人は珍しいのかもしれません。いわんや古典をや、でしょう。でもそこに古典という選択肢がある、ということこそに意味があります。教養を身につけるつもりで古典を読もうとするのは本末転倒で、古典を読む意思を持つ人が古典を通じて自身の思考を掘り下げることで、その思考や言動が教養として結実するのだと思います。
古典でこの話をするのがピンとこない方は、歴史や哲学に置き換えてもらってもかまわないと思います。最近戦争が始まってしまったイスラエル・パレスチナの問題を理解するためには、シオニズムの歴史や第一次世界大戦中のイギリスによる三枚舌外交を理解する必要があります。しかしあくまでも歴史を研究すれば中から解決策が掘り当てられるわけではありません。これまでの知を結集しても現在の問題は解決しません。哲学の諸問題を考えるときも、先人たちの蓄積を学ぶことは意味を持つでしょうが、あくまでも自分で頭を働かせないことには哲学とは言えません。同様に、古典の中にどっぷりつかっていても現代に通用する価値を見出すことはできません。つまり、古典教育の目的は古典を読み解く力をつけることではなく、自分の力で「イマ」に立ち向かえるようになることなのだと考えます。
② 現制度の文系科目を勉強しても人文・社会・芸術系学問の容貌が見えない
シンポジウム参加者の猿倉さんが「教育課程の縦割りがひどい」と仰っていました。それは確かにそうなのですが、彼が専門とする範疇の数学と物理は、高校と大学との間で議論の厳密性や抽象度には当然大きな違いがあるものの、名前通り「物理学」「数学」という学問にそのまま接続されます。茨の道であることの覚悟さえ持てれば「好きだから・得意だから」という理由一本で進学することができます。ただ、社会から見れば「好きだから・得意だから」という理由で大学に進む高校生はごくわずかです。モラトリアムや卒業資格を求める子は措いておくにしても、ちゃんと学問を修める気がある子であっても、卒業先の職業を見据えて近しい分野に何となく興味を持つぐらいが、進学動機として多数派を占めます。「物理が好きだから理工系の学部に行きたい」は自然でも「医学が得意だから医学部に行きたい」「経済学が好きだから経済学部に行きたい」というのはほぼあり得ません。興味を持ってもらうところから始めなければならない分野がたくさんあります。しかも私立経済学部の半数は政治経済で受験することすらできません。長くなるので人文・社会・芸術系のことを「文系」と括ってしまいますが、文系分野に興味を持ったとしても真っすぐに追求しづらい状況が受験によって生まれています。今回のシンポジウムで「古典を必修から外すかどうか」について議論がありましたが、選択科目を増やすという視点を持つのであれば、受験でサブ扱いされる理科社会の柔軟性を高めたり、(西住さんが民法・行政法に触れてくださいましたが)大学の一般教養レベルの文系・理系科目を下ろしてくることも選択肢に入れてほしいなと思います(その意義や方法については座談会で…)。
WS 準備を始めた段階では、今僕がここに長々と書いたことがまったく整理されておらず、アイデアの萌芽だけがぼんやりとある状態でした。本当は事前に準備したものをここに出すべきなのですが、書き進めるうちに考えがガラッと変わったり興味関心が移ったりして、最初に思っていたのとは全然違う内容になりました。時間が来てしまいましたので、いったん僕の担当する分は終了しますが、
・今自分が関心を持っている本と記事、
・これから興味を持って勉強してみたいこと
を事後スレッドに投下しておくので、もし共有できることがある方はぜひ声をかけてくださると嬉しいです。ジェイラボの皆さんにはあまりなじみのない話題を一週間取り上げましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
シト担当分 あ
■ シト
残りの1週間を担当します。シトです。よろしくどーぞ。
これまで、蜆さんに高校での勉強を用いて語ってもらいました。ここでは、そのベースとなる義務教育段階について扱っていきます。
教育は、やり方が昔から全然変わっていないということで古いとよく言われます。そんな中、新しい取り組みをしている学校があります。それについて扱っているニュースを2つと1校の学校評価(もう一つは見つからなかったので)を挙げます。
2校に共通しているのは、
・テスト・宿題・成績表がない
・生活の中で学習内容を見つけ出す
・障がいのある子は入学できない
これをもとに以下の質問に答えてください。一部でも、全体的にまとめてでも構いません。
動画や報告書をみて、思ったことを教えてください。
義務教育段階と社会はどのような関係であるべきだと思いますか。
高校や大学で勉強することの基礎部分を学習する義務教育段階において、どのように学習することが好ましいと思いますか。この時、例にあるようなプロジェクトと基礎という学びの仕方についてどう思うかなども教えてください。
場合によっては、教育史や根本にある理論について紹介する予定です。では、よろしくどーぞ。
■ シト
僕の意見は以下のようなものになります。
1) 生活を通してという生徒本人が具体の中にいる場からスタートすることで、具体が具体としてちゃんと機能しています。ものを一つ一つ見ていくことからスタートしています。抽象とは個々のものから一部を引き抜き、共通で枠組みを作り、名前を付けることだと思います。学校教育で行われるものは、前提に不自然に抽象があり、引き抜く作業が少ないあるいはありません。本来、抽象と具体は往復するものであり、人間はそれによって世界を認識していきます。学校教育がそこの浅瀬からスタートする以上、具体と抽象の関係性を大切にしなければなりません。
2) 人間の性質なので、具体と抽象を不自然にすることは教育がすべきことではありません。なぜならそれは、社会から与えられるものではなく、その人自体に備わっているものだからです。では、教育で行うことは何なのだろうか。それは、人間本来に備わっているものを捻じ曲げず、人間が作り上げてきた社会に必要な素養を身に着けさせることです。義務と権利は社会から与えられます。教育が何によって与えられるかは現状国家によってです。というので、僕は義務教育こそ教育だと言ってきました。日本で言うなら日本社会を維持するために必要な素養を身に着けさせるというのが、社会と義務教育段階の関係性だと思います。
3) どこまで行っても抽象と具体の関係性にある以上、抽象と具体を段階的にたくさん経験させることしかないため、そのように学習するしかないと思います。
以上の点を踏まえて、これらの学校を見ました。
1,3)大人ができるだけ介入しないという意味で不自然さはありますが、おおよその自然さはあるなと思いました。ただ、一方の学校は小学校までしかないため、姉妹校というので形式だけが共通し、その根本にあるものにずれがあるのではないか?とも思いました。学習面では以上ですが、生活面では違和感がすごかったです。子供を中心にしすぎていることが一番の要因だと思います。やろうとしていることの本質は、人間本来の能力の重視と社会性を身に着けることであるのに、実際にやっていることは、過度な人間性の重視であるということです。社会への接続がしっかりと意識されているようには思えません。あと、教育学徒なら気になってしまうことですが、障がい者は入学できないというのは引っかかる点です。
実は、このような教育は全くもって新しいものではありません。正直、ニュースであるならば、しっかりと調べてから放送してほしいです。
ということで、教育史をちょっと紹介します。最近の日本の教育の流れがざっくりとわかるので参考になればと思います。
戦後日本の教育は、デューイの影響を受けて、生活経験という社会、自由研究(問題解決学習)を中心に形成するというアイディアがありました。そこで出てくるのが川口プランです。これは、鋳物産業を中心としたものです。このプランは良い結果に終わりましたが、「はいまわる経験主義」として批判されることになります。その結果、1958年からの学習指導要領は法的拘束力を持ち、系統主義へと向かっていきました。この流れの中で自由研究は削減され、夏休みの自由研究として残ります。1970年代になると、落ちこぼれが教育問題として注目され始めます。そうして系統主義から経験主義へと戻っていきます。
平成10年度の改定で、経験主義が重視され、「総合的な学習の時間」が出てきます。つまり、自由研究の復活です。この改定は、学力低下批判を起こして再度、基礎基本重視(確かな学力)になりますが、過去の系統主義の反省から(生きる力)も残りました。平成30年の改定により「主体的で対話的で深い学び」が提唱されるようになります。
「主体的で対話的で深い学び」で出てくるのが活用力や応用力という能力です。これを形成するのにどんな方法があるのか?ということで、アクティブラーニングが登場します。といってもこれはたいていの場合「はいまわる経験主義」となってしまいます。
そこで、学習の質が問われるようになり、ディープ・アクティブラーニングが生まれます。これには2本の柱が必要とされています。
①教員の授業力
②子どもの意欲・関心
です。
以上が、ざっくりとした戦後日本教育の歴史です。教育がこうも歴史を繰り返しているというのは、考えものです。教育が思想なしには行えないことの意識が非常に大切だなと改めて思いました。
遅くなりましたが、教育研究部のWSを終了します。ありがとうございました。