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ジェイラボワークショップ第 61 回『教育的とは何か~掃除教育を添えて~』【教育研究部】[20230724-0806]#JLWS

 今回の WS では「教育的」という言葉に注目し、その性質について考察をしました。とっかかりとして学校における掃除教育を取り上げましたが、意外にも疑問を持っていた方が少なくコミュニケーションに違和感を覚えることもありましたが、いくつか率直な意見をいただくこともできました。先行研究の調査に終わってしまい、我々の意見を前面に押し出すことができなかったのは心残りですが、今後の課題として引き続き考えていきたいと思います。以下 WS のログです。


1日目  最初の挨拶

■シト

 おはようございます。教育研究部部長のシトです。
 本日から2週間を通して教育研究部のWSを行います。よろしくお願いいたします。今回のテーマは「教育的とは何か:掃除教育を添えて」です。

 皆さん、学校で掃除をしてきたと思います。自分がお世話になっている教室などを掃除することで思いやる気持ちを育てるなどとよく言われていたと思います。専門的なことだと人格形成を掃除教育によって行うことができると言われています。これらに共通することは、教育的だということで導入されているということです。そもそも教育的とは何でしょうか?

 WSは以下のように進む予定です。

   1日目 あいさつ
 2-5日目 学校での掃除に対する意見
   6日目 座談会
 7―8日目 学校における掃除の歴史
9-13日目 教育的の歴史
  14日目 最後の挨拶

それでは皆さん、ぜひよろしくお願いいたします。

2日目  アイスブレイクの質問

■蜆一朗

 こんにちは。本 WS の中心テーマである「教育的」について考えるためのアイスブレイクとして「学校教育における掃除」について考えてみたいと思います。いきなりですが質問です。

Q1. 学生時代、学校での掃除について違和感を持っていたことはありますか?

Q2.(業者を入れられるだけの金銭面の事情が許せば)生徒たちに掃除をさせる必要はないと思いますか?そうであっても掃除をさせるべきだと思いますか?

 明日以降、各部員による学校教育での掃除に対する意見を1日1人分投稿していきます。皆さんのご意見もお待ちしております。よろしくどーぞ!

■Tsubo

Tsubo
 a. 掃除の方法を習得でき、自分の部屋や家を掃除する際に参考になる
 b.「自分が使って汚れたものは自分で綺麗にするべき」という考え方には、自分であまり汚さなくなる可能性が高くなるので、衛生や清潔を保つにあたり一定の合理性がある
と思うので、高校までの生徒は掃除を行った方がいいと思います 大学生などの「学生」は好き勝手させればいいんじゃないすかね

Shizimi Ichiro
 ありがとうございます。「自分が使って汚れたものは自分で綺麗にするべき」という考え方はその通りだと思います。スポーツの世界大会が行われるたびに日本人が観客席を掃除している様子が取り上げられるように、世界的にも日本人の良いところと思われている気がします。ただこの考え方では普段使っていない教室等を掃除する理由が説明できず納得できない生徒もいるかもしれません(もっともこう主張する生徒がいたら指導してよいとは思います)。

■Takuma Kogawa

Takuma Kogawa
 違和感はありませんでした。
 掃除について、生活科や家庭科の授業としてではなく、放課後に掃除をすることの是非ということでよろしいでしょうか。本来は科目としてやるべきでしょうが、時間がとれずに掃除だけが科目外に追いやられているのかなと思います。トイレ掃除にありがちなイジメやイタズラの問題を無視すれば、「きれいに使おう」という気持ちを養う観点で意味のあることと思います。

Shizimi Ichiro
 ありがとうございます。僕の経験を振り返ってみても、短縮授業等で時間がなくとも掃除だけは削らずやっていたなぁという認識でしたので、科目として掃除の時間を作るべきという意見には新鮮味を感じました。Kogawa さんから見れば教育活動としての掃除に何か物足りないと感じる部分があるということでしょうか。

■chiffon cake

chiffon cake
 A1. 違和感はありませんでした。
 A2. 普通に楽しかったのでやらせてあげるくらいでしょうか。

Shizimi Ichiro
 ありがとうございます。chiffon 君のような生徒ばかりなら先生は何と楽なことかと思います。

■YY12

YY12
 A1. 違和感はありませんでした。ただ、振り返ってみると何年使ってんだレベルのスカスカの箒やそもそもが汚れてる黒い雑巾で掃除していたのは形式的な感じもしました。
 A2. 学校教育で掃除をすることの意義がいまいち分からないので別に任せても良いと思います。清潔感など意識面で大事なこともあるかもしれないので、やるのも別に反対ではないですが、するなら掃除機とか文明の利器を使ってちゃんと時間取ってガチでやった方が健全な気がします。非現実的ですが。

Shizimi Ichiro
 ありがとうございます。僕も掃除をすること自体には疑問を抱きませんでしたが、ほうきや雑巾を使って掃除をすることには違和感がありました。かといってルンバを導入するのも何か違う気がするし、掃除の具体的な技術を身につけさせることではなく、Tsubo くんや Kogawa さんの仰るような掃除を通じて養われる精神的な側面を目的にしているのでしょうね。

3日目  学校での掃除に対する意見

■シト

 小中高で経験してきた掃除について思ったことは2つあります。

 1つ目は、システムとしての掃除になっているということです。挨拶でも書きましたが、教育学において掃除教育は一般的に人格教育として有用だとされています。ものを大切にする心、協調性、思いやる心などを育てることができるとされています。また、海外からは、災害時の日本人のマナーの良さはこの掃除教育からきていると注目されています。ただ、自分が経験したことをもとに考えると、当番制というシステム化されたものをただ回してやっていたにすぎないと思います。考えないでただ順番が来ればやることにすぎませんでした。また、協調性などと言っていますが、子どもの中ではだれがどの役割をやるかなどといった擦り付け合いなどで行っているにすぎないので、それを協調性というのはどうなのかとも思います。小さいころから先生が掃除をやる意義を唱えまくった結果、そういうものだと思い込ませ人為的にその心というものを発生させているのではないかと思っています。

 2つ目は、高校で掃除教育をすることの意味がわからないということです。人格形成は10歳までにされると言われています。高校教育はその範囲から出ているので、やる必要がないということです。それにもかかわらず、高校でも掃除の時間はあります。学校の方針であるというのならわかりますが、特に理由なく当然のようにあるのは理解ができません。

 全体を通して言うと、義務教育段階であれば、国が定めていれば極端なことを言うとどんな理由であろうと掃除教育があっていいと思います。もちろん、言っていることとやっていることがしっかりとリンクしているということも必要です。

4日目  学校での掃除に対する意見

■蜆一朗

 こんにちは。今日は学校教育における掃除について僕個人の考えを述べたいと思います。ご意見等もお待ちしております。

【学校でどこまで掃除について教えるか】  生きていく上でできないといけない掃除の対象は「公共の場」でなく「個人の場(家・部屋)」です。"自分たちの教室" は「個人の場」と「公共の場」の両方の属性を持つがゆえに話がややこしくなっていると感じます。学校の教室も一時的に自分のものにさせてもらっているだけなので公共の場とみなしても問題ないと思いますし、公共の場で衛生面について意識することは「自分勝手な理由で汚さない」ことに尽きるのではないかと考えます。小学校の生活科や社会科では地域に根差した教育を行うことがありますが、たとえばその一環として、各自治体におけるゴミ捨てのルールを調べるとか、自治体ごとにルールが違っていることを教えるとか、ならアリだと思います。個人の場における具体的な掃除の方法について学校で教える必要があるのかについては疑問です。

【生徒たちがどこまで学校の掃除に関わるか】  研究室を年度末に掃除するくらいならあるかもしれませんが、大学では基本的に学生が教室や校内を掃除することはありません。それと同じように、僕は小中高でも業者さん (あるいは自治体) が入って掃除をすればいいと思っています。ただ、そういった方々を雇う金銭の問題はもちろんのこと、小中高ではプライバシーに関わるものを教室に残す (置き勉、体育館シューズ等) ので、大学と同じようにはいかないとも思います。他者に踏みこまれたくないところは自分で掃除をして、そうでないところは業者に任せる、というのでいいかもしれません。

 本日の投稿は以上です。ご意見等ありましたら気兼ねなく投稿ください。

5日目  学校での掃除に対する意見

■チクシュルーブ隕石

 これまで保育園、小学校、中学校、高校と学校で掃除をして感じた事の一つ目は、「掃除の仕方にかなり独自性があった」ということです。特に印象深いのは小学生の頃の掃除で、教室の掃除は、横一列に並んで勢いよく雑巾掛けをするというもので勢いが足りないと(途中で疲れてしまう)とダメと指導されました。しかし、今振り返ってみると勢いよく雑巾掛けをする事に明確な意味を感じません。それどころか、勢いをつけての雑巾掛けは児童同士の衝突等により、児童の怪我に繋がる可能性すらあります。当然、自分がある程度大きくなってから日常生活として掃除をする際に小学生時代に行っていたような掃除の仕方は全くしていないので、掃除を通じて掃除教育をするという大義名分から鑑みるとその効果には疑問を持たざるを得ません。

 また、経験として感じた事の二つ目は「掃除する環境の整備が整っていない」ということです。学校では、掃除は雑巾と箒でするのが良いという雰囲気がありますが、僕自身はこの雰囲気は妥当性があるのかについて非常に懐疑的な立場をとっています。今現在、掃除をする時に主に使うのは掃除機ですが、教育として雑巾と箒がベストであるのかのように伝えられるのは何か違和感があります。

 現実的な問題として、掃除用具に掛けられる費用には限度があり、雑巾と箒・塵取りの代用となるものを買うことができないということがあるとは思いますが、個人的にはある程度ありのまま伝えるのが良いと考えています。

 ここまでで挙げた2つに共通する問題点は、実際の生活と教育が結びついていないという点です。教育をするという目的で掃除教育を行っているのにも関わらず、実生活にほとんど寄与しない営みであるとしたら大変な問題であると考えます。もしそうであるならば、先にあげたような事例は間違いなく問題点を孕んでいるのだと思います。

6日目  座談会

 この日は Discord にて座談会を行い、WS では投稿がありませんでした。

7日目  学校における掃除の歴史1

■チクシュルーブ隕石

 こんにちは!ここまででは、掃除がどのような活動なのかを経験則をベースとして考えてきましたが、掃除という行為及びその行為に付随する概念について考えていくにあたってここからは、掃除の起こりとその意味の変遷について詳しく見ていこうと思います。

 1日目では掃除の主な歴史、2日目ではそこからできる考察を述べていこうと思います。

 古の時代において「掃除」という行為は宗教的意味の強い行いでした。平安時代頃からは神事としての掃除、鎌倉時代から室町時代にかけては仏教の修行の一環としての掃除、というように掃除の意味は時代によって大きな変遷を遂げてきました。特に、仏道修行としての掃除では「掃除が心を磨く行為であると悟る」という説話が根幹にあり、現代につながる意識が見られます。

 また、江戸時代から近代(明治・大正期)においては公衆衛生・衛生的という観点に重きを置いた掃除という側面が強まってきます。以前から知識として知られていた「極度に汚い場所では死のリスクが高まる」という事を全員が共有し、国家として公衆衛生を保つことを推し進めたことで掃除なる概念がより身近なものとなっていきました。

 その後、掃除は効率化の道を進んでいく事となります。現在ではほとんどの人に周知されている掃除機という存在がその中心を担っていきました。

 このような形で掃除という行為は変遷を遂げてきたのです。歴史の観点から見て分かるように、掃除にはいくつかの意味が込められており、そこにはある種の思想性が存在していたのでした。

8日目  学校における掃除の歴史2

■チクシュルーブ隕石

 昨日は、掃除の歴史を眺めながら改めて掃除という営みについて考えてきましたが、本日は「歴史的観点から見た掃除と学校教育」について考えていこうと思います。昨日の内容を追って頂けると幸いです。

 掃除の意味は大きく「神事での祓・清め」、「仏道修行」、「公衆衛生」という流れで時代ともに移り変わっていきました。

 さて、翻って現在について考えてみた時、学校教育ではどの側面が強く反映されているでしょうか?

 学校教育では掃除を「健全な精神を育む為の行い」という指導が行われていますが、そのフレーズには(仏道)修行のニュアンスが強く含まれていることに気づくと思います。学校の清潔を保つという事も掃除の大きな目的の一つですが、殊更学校においては掃除"教育"の側面がかなり強調されています。このことは掃除教育並びに学校教育の大きな特異性の一つと言えます。当然ですが、普段私達が掃除をする際、掃除のルーツに修行があった事に思いを馳せながら掃除を行う人は殆どいません。

 もう少し踏み込むと「掃除によって心を磨く」という思想の根拠として、「そのように教えるのが教育的である」と述べる方もいますが、それは正しいのでしょうか?

 学校教育における掃除の特異性をより深く考察していくには、"教育的"という概念について考えていく必要があります。

 ここから先では教育的という概念について考えていこうと思います。

 本日の投稿はここまでとなります。

9日目 「教育的」の歴史1 ~辞書・辞典から~

■蜆一朗

 こんにちは。本日からは僕が「教育的」という語にまつわる歴史について発表させていただきます。よろしくお願いします。

 教育研究部による過去の WS においても学校教育のおかしな点について皆さんに意見を乞うたことがありましたが、今回は掃除教育を例に、一見おかしな実践が高尚な意味をもつものとして行われていることについて考えてきました。今回われわれが問題意識を持っているのは、「教育的」という語があたかも何か理想的で望ましい規範を定義づけるような印象を与える一方で、実際にはそのような意味を持ってはおらず、自分の意見を押し通すための詭弁として機能してしまっているのではないか … (★) という点です。今回の WS 後半では『教育言説の歴史社会学』という書物を大いに参考にして、「教育的」という単語がどのようにして規範的・理想的な性質を帯びるようになったのかという歴史を振り返ってみたいと思います。

 まずは辞書的な意味を見ていきます。

【英語の辞書】 Oxford English Dictionary (1961) にある education に関する形容詞は次の 4 つです :
 ①教育する  educating
 ②教育による educational
 ③教育の/教育に関する educational, educationary, educative
 ④教育効果のある educative, educationary
ここで肝心なことは「規範的なニュアンスを含む ④」と「含まないもの ①②③」がともに「教育的」と訳されていることです。

【日本語の辞書】 日本語の辞書はどうでしょうか。各時系列に 3 段階で見てみましょう。

・1921 年の『日本大辞典言泉』や 1956 年の『新編大言海』には「教育的」という項目は登場しません。
・1973 年の『日本国語大辞典』には「教育に関係があること。教育していくうえで望ましい様子。また、教育しようとする傾向があること」として、規範的なニュアンスを含むものと含まないものが両方載っています。
・1989 年の『日本語大辞典』には「子どもを教育するのに役立つさま。教育上よいさま。educational」とあり、規範的なニュアンスを含むものしか載っていないことがわかります。

【教育関連の辞書】  一般的に用いられる辞書ではなく、教育を専門的に取り上げた辞書も見てみます。1932 年の『教育辞典』には「教育的」単独の項目はありませんが、被修飾語を伴う次の 7 語が登場します :
 「教育的価値」 ⇒ 「的」= ④ の意味
 「教育的教授」 ⇒ 「的」= ④ の意味
 「教育的社会学」⇒ 「的」= ③ の意味
 「教育的診断学」⇒ 「的」= ③ の意味
 「教育的心理学」⇒ 「的」= ③ の意味
 「教育的人類学」⇒ 「的」= ③ の意味
 「教育的測定」 ⇒ 「的」= ③ の意味
これらはすべて欧米の教育学者やその学説を翻訳したものでありますが、③の意味で「的」が使われる場合、現在は「的」を省略して例えば「教育社会学」「教育心理学」のように呼ばれます。

 1936 年『教育学辞典』(城戸幡太郎) にも「教育的」の項目はありませんが、上の 7 語に加え「教育的態度」「教育的美学」「教育的文学」が載っています。これらの「的」はすべて④の意味ですね。ここで重要なのは「教育的文学」だけは翻訳語ではなく、欧米の教育学者には触れずに解説されていて、その解説中にも「教育的童話」「教育的物語」「教育的伝記」という翻訳語でなく④のニュアンスを含んだ語が登場するということです。つまり、教育学者の中では 30 年代後半ごろにはすでに規範性を帯びた「教育的」が一般に使われて、その使用範囲がどんどん広がっているということがわかります。

 本日の投稿は以上です。明日の投稿では「教育的」をさらに分けて「教育」と「的」それぞれについて考えたいと思っています。「教育」は実は比較的新しく作られた語であること、そしてその誕生経緯に教育についての考え方の変化が表れていることが肝心です。

10日目 「教育的」の歴史2 ~「教育」と「的」の登場~

■蜆一朗

 こんにちは。今日は「教育」と「的」という語を見ることで、これらを合わせた「教育的」が持つニュアンスに踏みこめればと思います。

【「教化」から「教育」へ】  江戸時代初期には『教育』といふ言葉は一般には広く用いられず、「教化 (きょうげ)」と言われていました。この言葉は室町時代ごろから仏教用語として用いられたもので
   『仏の教えによって人を善に転化させる』
ことを意味していました。そして江戸時代初期に入って儒教の影響が強まるにつれ
   『治者の教えによって人を善に転化させる』
という意味の「教化 (きょうか)」が広まりました。この2つの言葉に共通する重要な点は、「自分自身が修養を積むことによって人々を感化し影響を与える」という意味を持つことであり、現在の「教育」が持つ「他者に対して意図的・組織的に行う」ニュアンスはないということです。「教育」という言葉が生み出されるようになったきっかけは、中世と近世の間での子供観の変化が大きかったようです。『教育言説の歴史社会学』にも引用された一節を紹介します :

 子供が教化の大切な対象として選びだされるやうになって、在来の教化の語中に明瞭にされてゐなかった重要な観念が、今や舞台正面に堂々と登場して来た。大人とは異なつた子供、「なりつゝある大人」でこそあれ未だ出来上がつた大人ではない所の子供、その子供が教育の対象となつた為めに、対象の本体とその特異性とがいまさらにはつきりと意識せられた。それのみではない、年齢の発達に伴ふ心身の成長に応じて、その折々に適切な教化方法が営まれなければならぬし、然もそれ等様々な方法が同的に統一せられた唯一原理の発展ででもなければならぬ。教化途上に於ける方法の観念が、こゝでこそ完全に顕現して来た。最早教化といふ従来の慣用語から別離して、新観念を盛るにふさはしい新述語がもとめられずにはゐなかった。

『教育言説の歴史社会学』

【「的」は「tic」の当て字?】  明治 10 年 11 月 ~ 11 年 10 月の郵便報知新聞の用語の 1/12 の標本調査 (延べ 99348 語、異なり語数は 22272 語) のうち「〇〇的」は「絶大的」「可及的」の 2 語だけでした。明治 10 年頃には「的」は一般的には使用されておらず、学者階層が専ら学術的な翻訳書あるいは論文の中で用いただけだったようです。明治 10 年代末になると小説等にも登場し、30 年代に入ると漱石の作品などに多用されるようになりました。
 「的」の語源に関する一説として、広田栄太郎による大槻文彦の引用を採りあげてみます (もともとの文が極めて読みにくいので、ここでは読みやすいように手を加えております) :

 (引用) 此の的の地を、かやうに用ゐるようになつなには、原因が無くてはならぬ、原因、大にありである、其原因は、かやうな訳である、明治維新の初に、何でもかでも、西洋々々で、翻訳流行の時があッた、諸藩で大金を出して、洋学書生に、何原書でも翻訳させた、(中略) 或る日、寄合ッて雑談が始まッた、其時、一人が、不図、かやうな事を言い出した、System を組織と訳するはよいが、Systematic が訳し悪くい tic といふ後加えは、小説の的の字と、声が似て居る、何と、組織的と訳したらば、どうであろう、皆々、それは妙である、やッて見やう、やがて組織的の文で、清書させて、藩邸へ持たせて、金を取りにやる、君、実行したのか、うゝ、それは、ひどいではないか、何に、気がつきはせぬよ、などといふ戯れであッたが、扨此の的の字で、度々、むづかしい処が切り抜けられるので、遂に、嘘から真事といふやうな工台で、後には、何とも思はず、遣ふやうになッて、人も承知するやうになッたが、其根を洗へば tic と的が、声が似て居るからといふ事で、洒落に用ゐた丈の事で、実に棒腹すべき事である、…

  (蜆訳) この的の字をこのように用いるようになったのは、何か原因が無ければおかしいが、原因、大いにありである。その原因はこのような訳である。明治維新の初めに、何でもかんでも西洋西洋で翻訳流行の時があった。諸藩で大金を出して、洋楽書生に何原書でも翻訳させた。(中略) ある日寄り合って雑談が始まった、そのとき、一人がこのようなことを言い出した。「System を組織と訳するのはよいが、Systematic が訳し悪い。tic という接尾語は小説の的の字と音が似ているから、組織的と訳したらどうであろう。」皆々それはいい案だ、やってみようといった。そして組織的と訳して清書し、藩邸へ持っていき報酬金を受け取った。君、実行したのか、うう、それはひどいではないか、(冗談だと)気がつかなかったのか、などという冗談であった。でも、この的の字でたびたび難しいところが切り抜けられるので、ついに嘘から誠というような具合で、後には何とも思わずに使うようになり受けいれられるようになったのだが、もとはといえば tic と的の音が似ているということで冗談で使ってみただけのことで、実に捧腹すべきことである。

 この言説を真に受けるのであれば、当時の翻訳家たちは「tic」という語の訳出の難しさを「的」という記号に置き換えるという絶妙な方法で何とか切り抜けたということになります。実際には難しさがそのまま「的」に遺伝されただけで tic の持つ捉えにくさを訳出できたわけではありません。「教育的」という語がどこかフワフワしているのもこの事実に沿えば理解できるような気がしてきます。

 本日の投稿は以上です。明日以降の投稿では、教育を扱う専門雑誌に投稿された記事における「教育的」という語の使われ方を分析していきたいと思います。よろしくお願いします。

11日目 「教育的」の歴史3 ~「教育的」の登場&雑誌記事中の「教育的」の分析1~

■蜆一朗

 こんにちは。『教育言説の歴史社会学』では、「教育的」という語の使われ方を分析するために、『教育雑誌目次集成』を資料として
  ①『小学雑誌』(善誘社) 1 ~ 10 号 (1879 年 2/25 ~ 7/15)
  ②『小学雑誌』(修正社) 1 ~ 115 号 (1882 年 6/10 ~ 85 年 3/25)
  ③『教育持論』
  ④『小学校』 (実践面の紹介が中心で ①②③とは性格が違う)
の目次を検討しています。

 ①② の目次には「教育的」は登場せず、③ についても 1894 年 (明治 27 年) 6 月の 330 号まで「教育的」が目次に現れません。これらのことから 1890 年代にはまだ一般的に普及していないことが読み取れます。また、初期の③には「の/~に関する」の意味の用例が多く、現在では違和感を感じる使われ方が多いです。1910 年代末頃になると違和感のある「的」は消えていき、「価値」「意義」「精神」といった抽象的な概念への接続が増えていきます。④では創刊間もなくの 1906 年時点で「教育的」が登場していて、以後はコンスタントに現れ「価値」「意義」などへの接続が目を引きます。価値的・規範的なニュアンスを含む「的」の使用例が多いことから、 実践の場に近い部分では、こちらが主流になっていたと想像できます。

 ここからは ③『教育時論』を 10 年間隔に分け、それぞれ 1 年分の記事の中に「教育的」がどれだけどのように使われたのかを検討します。検討項目は
 ・どの程度の頻度で登場するか
 ・どういう語に接続しているか
 ・どういう意味・ニュアンスで用いられているか
の 3 つです。執筆者層や編集方針の変遷といった雑誌そのものの性格分析が必要になるため、
 ・誰が使用しているか (体制-反体制、学者-実践家)
 ・どういう主題に関する記事の中に多く使われているか
については採りあげないことにします。また、現代語訳は僕が個人的に付けたものです(参考にしてください)。

1890 (明治 23) 年の「教育的」

 この時代に現れる例は次の2つですべてです。前者は「教育の場で」、後者は「教育の目的で」ぐらいの意味となります。

 ……兵式体操を教育的に利用せんには、如何に之を変形すれば適当なりやをも研究するの遑なく、……
(訳 :  兵式体操を教育的に利用するためには、どのように改編するのが適当であるかを考えた研究も枚挙にいとまがなく、)

【188 号 社説「再び師範学校生徒の気質鍛錬を論ず」】

 其他伯林などにても、ニ、三の手工科を課する学校あり、然れどもいずれも之を教育的にするものなれば、其手工品を売りて金銭を売るがごときことはなさざるなり、
(訳 :  そのほかベルリンなどでも、手工科を設置した学校が二、三あるものの、いずれも手工を教育の目的で行うものであるので、教育過程で作られた手工品を売って金銭を得るようなことはしていない。)

【190 号 記者「野尻精一氏の独逸話」】

1900 (明治 33) 年の「教育的」

 使用例が急増し、注意深く見れば
 ⑴ (外国人の教育言説の)機械的な翻訳語として
 ⑵ 日本人が自分の文章中に使用し、価値・規範的な意味を含まない
 ⑶ 日本人が自分の文章中に使用し、価値・規範的な意味を含む
という 3 種類の「教育的」があることがわかります。ここでは⑵⑶の具体例を 1 つずつ見ていきましょう :

 ⑵ の例 : 「教育の/に関する」という意味が多く、今となってはあまり見ない表現です :

 現今の師範学校は、実業学校らしからずして、却て普通或は専門学校の勘あるは何ぞや、これ蓋し左の事情によるならむ。……教育的実業家たる資格を得しむるには、12 年の年月にては不可なり、

(訳 : 最近の師範学校は、実業学校らしくなく、むしろ普通学校や専門学校と化しているようにも思えるのはなぜだろうか。このことはおそらく左のような事情によるものと思われる。…教育的実業家としての資格を得るためには、たった 12 年ほどの経験では不可能である。)

【544 号 藤井長蔵「我が国師範学校の過去、現在、将来」】

⑶ の例 :  今でも使われていて、われわれが問題意識を持つニュアンスを含んだ「教育的」です :

 此の仕事をする間に、或は規律の習慣を作り、或は克己忍耐の性を養い、協同一致の念を高むる如き、種々の教育的功果は得らるゝなり。

(訳 : この仕事をしているうちに、規律の習慣を作ったり、克己忍耐の精神性を養い、協同一致の完成を高めるなど、さまざまな教育的効果を得られるのである。)

【530 号 三土忠造「現今教授法の或弊風」】

1910 (明治 43) 年の「教育的」

⑴「教育的」に加えて「非教育的」が登場します。規範的な意味を持つ「教育的」が定着したことが伺えます :

 (試験について)「出来た」は教育的にして、「当つた」は非教育的なり。……若し生徒の試験に際して「当つた」と呼号する者多き時は、その教授の教育的ならざりしを証明するものなり。

(訳 : 試験においては、「出来た」は教育的であるが「当たった」は教育的でない。もし試験の際に「当たった」と言う生徒が多ければ、それは指導が教育的でなかったことを示している。)

【899 号 奥寺龍渓「試験と教育」】

⑵「の/に関する」の意味の「的」の比率が減少し、規範性を帯びた「的」の割合が増加します (ここからは現代語訳は必要ないと判断して省略しています) :

・抑(そもそも)生徒なる者を以て常に罪悪を犯すべきものと看るは決して教育的在り方ではない。

・文部省及教育者の何れでも良いが、教育的に考へた読み物を作ったならば大に有益なことであらう。

【898 号  投書欄 「監護番の微章」】
【914 号 下田次郎「暑中休暇に就て」】

 かなり長くなりましたが、本日の投稿は以上です。明日は 1920 年代の様子を見ていきます。よろしくどーぞ!

12日目 「教育的」の歴史4 ~雑誌記事中の「教育的」の分析2~

■蜆一朗

 こんにちは。本日は 1920 年代に発行された雑誌「教育持論」における「教育的」という語の使われ方の分析を見ていきたいと思います。

1920 (大正 9) 年の「教育的」

 規範性を帯びた「教育的」の割合が圧倒的になり、接続する語としても「努力」「見地」「精神」「価値」などの抽象語が目立ちます :

・(中学入試の難問について)が、右の問題はしかし『謎』の如き問題でまったく科学的価値がないであらうか。又児童の能力を考査する上に何等教育的の価値のない問題であらうか。

・(全国小学校女教員大会での女教員の仕事と家事の両立の問題について)斯の如き実に、女教員が、各己れ自身のみを中心に考へて、教育的精神を欠如してゐるに起因するものではあるまいか。

・訓練場に於ては此の偶発時効が最大の教育的価値を占めて居るものと自分は思ふ。

【1263 号 府立一中教諭 高田徳佐「わが校の入学試験問題」】
【1279 号       主筆原田実  「教育的精神の欠如」】
【1283 号      函館師範教諭  鎌塚扶「習慣と訓練」】

 論者の言説の正当性・妥当性は「視点が教育的か」により保障されるようになってきています。教育に留まらないさまざまな領域・事項を「教育的」な言説がカバーし、「教育的」はもはや善のイデアとして自明化したかのようです。

 ここでE・エヴァンスという教育学者を採りあげてみます。彼は 19 世紀の公教育の発展過程を検討し、社会秩序の内面化・従順な労働力の形成を目指した大衆教育が、学校生活への「適応」を主たる方法にすることによって、その政治的性格を見えないものにしていったことを明らかにしました。道徳や徳目を一つ一つ教え込むことで労働者・貧民・移民を統制しようとする初期の段階では、学校教育が治安維持を目指す政治装置であることは明瞭でした。南北戦争以後、都市部で登場した教育行政の中央集権化・学校の組織構造の規格化により、個々の徳目の教え込みから効率よく教育効果を発揮する学校組織への改革に転換していきます。社会統制の深化が「教育の合理化」、すなわち従順さや規律正しさを「教え込む」のではなく、学校生活を営む中で「自然に身につく」ように組織を形成することとして語られるようになったのです。最後に筆者の考えを引用します :

 「教育的」であるか否かという基準 -- 独自の価値と論理を持つ領域として教育が措定されるようになることで、教育が本来的に持っており政治性が隠蔽されていくと同時に恣意的な基準が想像されていく。教育の独自の価値と自律性とを議論の前提に据えることで、教育は自らを <聖化> するのである。「教育的」見地から民衆娯楽や労働者の熟練・子供の日常生活等が語られるようになってきた時、もはやそれらへの種々の統制・干渉は、政治とは切り離されて、ひたすら <善> の実現への奉仕として扱われることになるわけである。つまり教育の社会的被規定性は議論の場から消失し、より「教育的」であるか否かを唯一の基準として、教育の「改善」や「改良」が語られるようになっていくのである。

【P53 教育言説の歴史社会学】

 本日の投稿は以上です。明日の投稿では「教育的」の分析を引き続き行いますが、1930 年代になると、我々がかねてより持っている問題意識に迫る内容が色濃く現れてきます。その様子を見ていただければと思います。よろしくお願いします。

13日目 「教育的」の歴史5 ~雑誌記事中の「教育的」の分析3~

■蜆一朗

 こんにちは。これまで 5 日に渡って「教育的」についての分析を見てきましたが、今日で最後になります。よろしくお願いします。

1930 (昭和 5) 年の「教育的」

⑴ 「教育的」が爆発的に増加し、接続する後の種類が多様になります。意味としては特に規範性を帯びたものが圧倒的です。

・学級主任たるべき教員は、…教育的精神に燃ゆる教育者的教師たることを要す。

・この内申の意義と価値とは、もつと永続的に教育的な意義と価値とを有するものであって、

・(児童の興味を養う方法について)第四は悩ませることである。教育的に悩ませることである。

・少なくともこれからの教育は郷土の教育的本義に立脚したものであり、あらねばならぬ

【1606 号 奈良女子師範教諭 小林佐平「中等学校における学校経営に就いて」】
【1604 号         主筆原田実  「『内申』の真異議とその重要性」】
【1625 号 奈良女子師範訓導 北岡繁蔵           「興味の問題」】
【1637 号        新潟 聖雪生       「郷土教育を叫ぶ前に」】

⑵ 独自の価値と倫理を持つ領域であることを強調する用例が目立ち、言説の領域も学校外の諸領域へ無限定に拡大されています。教育を一般社会とは異なる価値を追求する仕事と捉えるのは、それが「脱政治性」(反労働運動的性格) と関連していく点に注目する必要があります。 :

教育的職業のビジネス化、労働化か。

・現在の世相を見ると、社会融和の感情が廃れ、吾人の間には所謂闘争意識が強くなり、利己的行動がつのり、又男女の風俗が紊れ(みだれ)、夫婦の道、親子の関係も少からず乱れてゐるが如き時制になつてゐる事は各種の原因によることは勿論であるが、国民の間に真の教育的精神が徹底してゐない事を示すものであり、又教育に関する勅語の精神が民心に透徹して居ない事によるのであると信ずる。

【1627 号 黒木礼二  「授業意識の生産」】
【1636 号 大島正徳「公民的・政治的訓練」】

 「真の」という言い方は、口先だけで教育的と言っているものがいること、そしてそれを問題視する向きがあることを意味しており、現在の状況と同様な「教育的」の中身をめぐる水掛け論の出発点でもあるといえます。また、「教育的」が正当化の論理に使われていることを見抜いて批判する例もあります :

 (中学生の思想対策について) いろんな競技運動即ちスポーツの奨励、武道の正課化、兵式訓練の強行等は大に指摘されて周知の事実であるが、事頗る(すこぶる)デリケートで、而も教育的とか学科勉強の奨励だとか、上級学校への入学率の増加とかいふやうな美名、若しくは父兄が喜びさうな名の下に、学科のいやが上にも詰込み過重を刊行することによって、「思想」などを考ひ煩ふ寸暇をも与へぬといふ方針、極めてデリケートな一寸考へると、如何にも教育的だと考へられるやうなやり方を、たいていの人々は見逃すか、または知らず知らずか或はむしろ意識的に肯定是認してゐるのである。

【1639 号 田代素一「最近の学校騒動への批判的考察」】

 本日の投稿は以上です。我々の問題意識は約100年前にはすでに議論されていた古典的なものであることがわかりました。この100年の間にも多くの教育的な実践がなされ、様々な意見が交わされてきたことと思います。学校教育への不信感・問題意識が活発に議論され、自分が思う「教育的」を気軽に発信できるようにもなり、そういった意見が実際に公教育に影響を与える事例もしばしば見受けられます。しかし、そういった意見の中には、自分が思う「教育的」をただ一方的に押し付けているだけのものが見受けられることもあります。時には自分の意見は偏った視点からのものではないかと自答することの重要性について言及したく、本 WS の議題に取り組んだ次第です。

 明日で WS は締めくくりとなりますが、ご意見や質問等はまだまだお待ちしております。よろしくお願いします。

14 日目  最後の挨拶

■シト

 今回のWSでは、教育的とは何かについて見ていきました。

 皆さんが経験してきた掃除教育からスタートし、各部員の個人的な意見や皆さんの意見を見ていきました。そのあと、掃除教育の歴史を見ていき、教育的について歴史を追っていきました。

 座談会では皆さんの掃除教育の体験について話すことができてよかったです。

 教育には今回の教育的だけではなく、さまざまなふわふわとしたものがあります。そのため、ちょっとした時代の流行の影響を受け、時代に合った教育などといった話が出てきています。このWSをきっかけに教育におけるふわふわとしたものについて考えてもらえたらなと思います。

 2週間ありがとうございました。



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