経験は教育の最大の敵であり、最大の味方である。

学生時代から思っていることをここに書き留めておく。

大学時代、教育を専攻していた。教育について学べば学ぶほどいかに教育についてよくわかっていないか感じさせられた。
もちろん、それは他の分野でも湧く感想だろうが、教育では他の分野とは明確に異なる点がある。それは、全国民が少なくとも9年間は教育を受けるという経験を持っているということだ。
例えば、法学であれば法律は常にあるが、法律を日々感じている人は少ないのではないだろうか。だが、教育では平日の何時間も教育を受けるという経験を誰もが持っているのだ。

教育は誰もが受けたことがあるという経験の恐ろしいところは自分の経験を一般化して教育を語ってしまうということだ。
「受動的でしたが、9年以上〇〇を経験してきました。」と言われればある程度の経験値を持っているように感じ、その人の意見は一般化できそうに感じるだろう。しかし、教育の場合はその経験が全国民、要は1億人以上が同じ経験をしているわけで、その経験が一般化できるとは限らない。

一般社会を考えても、1社でしか働いたことがない人が、「社内ルールってこうあるべきだよね」と全ての会社を一般化していったところで大した説得力はないだろう。なぜだか、教育では「私の経験では〇〇だったから、学校、先生はこうあるべきだ」という言論が広く受け入れられやすい現状がある(街頭インタビューなどで、私が学生の頃は〜、と答える人が多いといえば共感してもらえるのではないだろうか)。

経験を一般化する最たる例は「教育ママ」だ(男性が育児に今も積極的でないという皮肉を込めてあえてこの用語を使う)。個人的に一番憎き存在であるが、これはまた別の機会に改めて書きたい。

世間一般でそうなのだから、先生の間でも同じようなことが起こるだろう(実際に教員になっていないのであくまで予想だが)。実際に授業をするときに一番の参考になるのは、自分が教育を受けてきた経験だ。もちろん授業研究はされるだろうが、おそらく経験に左右されることも多いだろう。英語で5文型を理解して成績が上がった経験のある英語の先生は、おそらく子供たちにも5文型の重要性を伝えるだろう。
ただし、それは少なくとも5年以上前の経験なのであって、最新の知見に基づいた方法であるかはわからない。つまり、より良い授業をするためには、自分の価値観をアップデートできるだけの素養と知識が必要なのだと思う。

ここまでかなりネガティブなことを書いてきたが、パンドラの箱のように最後に希望を残しておきたいと思う。
経験に対する依存を書いてきたが、あなたが最高の教育を経験していたら、教育を学ばずとも正しい価値観を身につけていることになる。教師になる人も同様に、良い経験をしている人ほど良い授業ができる素養を持っていることになる。
もちろん、そんなに簡単にはいかない話だと思うが、経験に依存しているのであれば、良い経験が好循環につながっていくと思うのだ。

教育において「良い」とは何か、など考えなければならない課題は多く、絵空事だと承知の上で、最後に私の願望をかく。
いい先生のもとで学んだ子どもが先生を志し、いい先生となっていく。そういった長いスパンでいい教育というものが育まれていくことを切に願っていく。

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