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大好きだから、こそ

本を読む。人と話す。働く。学ぶ。生活をする。旅をする。年を重ねる。

こうやって少しずつ少しずつ、社会というものが、自分というものが、より鮮明に見えてくるようになる(気がする)。


小さい頃に憧れていた「大人の世界」はもっと輝いていたのに、自分が主体としてこの世を生きて解像度が上がれば上がるほど、誰かに優しくありたいと願うほど、自分が自分らしく生きたいと思うほど、世界はそんなに美しくないんだということを実感する。

できれば見たくなかった。知らない方が幸せだった。
そんな現実に後ろ向きな気持ちを抱きながらも毎日を終える。

もちろんまだまだ見えないものの方が多いよ、それはそう。

というか、みんな違う人間だし、全てを同じように知覚するなんてできない。
どんなに親しくても他人の気持ちなんてとてもじゃないけどわからない。

別に無理して理解する必要もないんだろうなあとも思うし。


だけど、想像することはできる。
想像するのが難しければ、想像しようと努力することはできる。

誰かが傷ついたと声を上げたとき、その痛みそのものはわからなくても、なぜ痛がっているのかを考えてみる。

耳を傾けてみる。

あなたが感じないからといって、あなたが生きる「ふつう」の世界の大多数が感じないからといって、透明なものとして扱われていい辛さなんてない。


ちょっとした言葉や表現の暴力性は日常のあちこちにゴロゴロ転がっている。
それに何もコストを払わずに生きていける人と、毎日少しずつ心をすり減らさないとサバイブできない人がいる。


勇気を出して「おかしい」と言ったら白い目を向けられて周縁化される。
本当に感じていることなのに口に出すのが怖い。

「考えすぎ」「敏感すぎ」

こんな言葉に自分の気持ちを感情を否定されて、
なぜ自分はこんなことに頭を使わねばならないのか。
なぜ自分は「ふつう」とされる枠組みから離れた思考を形成してしまうのか。
何も知らなければもっと幸せでいられたのかな。
いろいろなことを自問自答して、ぐるぐる考える。

いろんな場面で、いろんな立場・属性の人が、経験していることだと思う。



 「愛し合いなさい」



一部のワーディングに引っかかった人も、そうじゃなかった人もいると思う。


ずっと好きでいたい、そばで応援していたい、大事な大事な存在。
そんな支えでいてくれる人たちに、大好きな人たちに、自分のあり方が否定されているように感じる言葉を発してほしくない。
この気持ちを持つ権利は誰にだってあるでしょう。
決して贅沢な望みではないでしょう。


どうして負の感情を向けなければならなかった人がいたのか。
どうしてわたしたちは分かり合えなかったのか。


少しでも多くの人たちが見えない誰かの気持ちを考えられるような、
気持ちはわからなくても対話が生まれるような、
そんな未来が来たらいいな、と思う。
そしてそういうアリーナを作るのが大人の責任だとも、思う。
なんだかちょっとくすぐったくなるような綺麗事だけど、本気で。


わたし自身もある側面ではマジョリティだけど、ある側面ではマイノリティだ。
常にどこかで排除されて、同時に自分も排除を行なっている。
つらつらと偉そうなことを書いてはいるけれど、恥ずかしいくらいに稚拙な思考と語彙しかなくて、毎日自分の不勉強を実感して、無知で誰かを傷つけて落ち込んで。


人間はいつだって多面的で一貫性がなくて、矛盾だらけな存在であるはずだ。
それは否定できない。

それでも、どこかで誰かを傷つける可能性を誰しも持っていること。
自分の特権性に自覚的でありたいということ。
それらをなんとかかんとか意識して、明日も生きる。

まだまだ続きそうだからね。人生は。


せめて思考をアップデートできる人間でいられたらな。


そして、やっぱり言葉を大事にしたい。

そう思いました。



なんか中途半端になっちゃったけど、おわり


しなやかに生きよう


わたしは、誰に何を言われてもちゃんと意思表示をする。

あがった声を、なかったことにしないで。










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