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熱の冷まし方

現在、あちこちで見かける非接触体温計。施設に入る際には検温。イベントの受付で検温。映画館で劇場で、どこでもかしこでも検温の日々である。
しかし、今まで1度もその検温にひっかかり、中へ入れないと宣告され、帰らされる人を見たことがないのである。
それはそもそも体調が悪い人は家でおとなしくしているから、という性善説のような考えをお持ちの方もいると思う。しかし、自分の周囲を見回して欲しい、そんな善人ばかりだろうか?ちょっとしんどい感じだけど、ひどくはないから行っちゃえ。という人もいるはずである。それでも、検温はパスできる。
そもそもあの体温計の精度は確かなのか。中には検温はパスして当たり前。なんならある種の儀式のような物であり、真面目に検温なんてするものじゃない、との考えの人がいたって不思議じゃないのだ。

小坂井春奈は先週彼氏にフラれた。まもなく2年の記念日を迎える頃だった。
寝耳に水の状態で、彼氏が真面目な顔で話しかけてきたときは、冗談を言ってると思ったし、全部話を聞き終えてからもテレビのドッキリのように「嘘でーーす」と誰かが出てくるのを少し待ったぐらいだった。しかし、冗談ではなかったし、誰も出てきてはくれなかった。手元にはプレゼントするはずだったマグカップだけが残った。
春奈の仕事は病院の入口での検温係。本来の職務は医療事務員だが、今は2時間ごとに検温係をすることになっている。春奈の病院ではタブレット型の非接触型体温計を使用している。たまに37度5分を超える人がいると、横によけてもらい再度、春奈たち係が非接触型体温計で検温をする。再度測り問題がなければ、そのまま通すが発熱があると表示されたら、駐車場に設置されている発熱外来へ回ってもうらことになっている。春奈が勤める病院は総合病院というやつでひっきりなしに病人と思われる人たちがやってくるので、結構忙しいし、高齢の人が多いので受付はなんやかんやごちゃごちゃする。
春奈はここ数日、目がビー玉のような状態でただ立っていただけである。どんな人たちが目の前を通過し、体温計がどのような反応をしたかなど見ていないのであったし、ぶっちゃけどうでもよかった。全てが。

「ピコーーーン」
何とも間の抜けた音声が春奈を現実世界に引き戻させた。何事かと周囲をうかがうと、1人の老女がこちらを見ている。体温計が発熱を知らせているのだと気づいた春奈は、老女に話しかけた。「すみません、こちらで再度検温していただけますか?」。老女は無反応である。「すみません、発熱の反応が出ましたので、こちらで再度測らせてください」。老女は無視して中に入ろうとする。「あのすみません!」思わず肩を掴んだ。すると老女はゴホゴホと咳をした。よく見るとマスクもしていない。「病院に入られるときにはマスクの着用をお願いしています、その前に発熱の恐れがありますから、外の発熱外来にお願いします!ご案内しますから!」その頃になると近くにいた受付から同僚や警備員のおじさんが近づいて来てくれた。それを察知したのか老女は「おかしいわね!ついさっき行った百貨店では何もなかったわ」と言い出した。「知らんがな!」と春奈は言いたかったが、言わずに「念のためですので、ご協力をお願いします」と丁寧に応えた。「病院でお薬をもらった後は、友人たちと全日本ホテルのカフェでお茶する予定なのよ。滅多に会えない人たちなのよ、行かないといけないのよ!!馬鹿!」と持っていたバッグを振りまわし出した。「いたた」近くにいた警備員のおじさんに当たった。「ちょっと暴力はいけませんよ!外に出て!」春奈は殴り倒したい気分だった。老女の腰のあたりにしがみ付いて、なんとか外へ押し出そうとするも、どこからこんなババアに力があるのか、びくともしない。同僚の女性は恐怖で固まっている。警備員のおじさんは当たりどころが悪かったのかまだうずくまっている。ババアの顔は鬼のようである。興奮状態のババアに反応して非接触型体温計が「ピコーーーーン、ピコーーン!!!」と間の抜けた電子音をロビー中に鳴らしていた。まさに地獄のような状態である。ただならぬ光景に誰もが立ち止まっている。「ちょっと手伝って!」春奈の叫びでようやく我に帰った男たちが加勢して老女を外へ出した。老女はその間じゅう、何事かを叫び倒していたが、外に出た途端何事もなかったかのように去っていった。春奈はハーハーと息をしながらその後ろ姿を見つめ、「私、運動不足だな」と言った。

地獄のような時間を過ごし、上司からは「あんな事があったんだから、もう帰っていいよ」と言われた。どこにも寄らずまっすぐ家に帰ると無性に喉が渇いた。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、手近にあったマグカップでゴクゴクゴクとジュースを飲み干している最中に、今使っているマグカップが元彼のために買った物だと気づいた。ジュースを飲み干した春奈は、ゲッと胃袋から空気を漏らし、失恋したことなどどうでも良くなっていた。

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