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人間はなぜ、他人中心と自分中心に分かれるのか

たまに、他人の意見でばかり物事を決め、一見すると自分がないように見える人がいます。

「あなたは、赤信号を無視してもよいものだと思いますか?」
⇒ 「信号無視は法律違反です」

このような返答をほぼ無意識に行い、そのことに違和感も全く抱かない人。
あるいは逆に、自分の考えを押しつけてばかりの人もいますね。

「あなたは、赤信号を無視してもよいものだと思いますか?」
⇒ 「渡りたかったんです」

この2人はいずれも、人の話を聞かずに答えてるように見える点では共通しています。
が、度を越して客観的すぎる、あるいは主観的すぎる点では真逆です。

日本という国で同じ教育を受けてきた人達が、なぜこんなにも考え方がバラバラになるのか?
「同じ人間なんだから」が通用しないなんて、不思議ですよね。

今回はその謎に迫ります。

――いつもお読みいただきありがとうございます。
または初めての方も、この記事を見つけてくださって嬉しいです。

私はエンジニアリングを生業に生計を立てております、中島と申します。
最近 “おもしろい話がすぐできるコツ” という本を買ってコツをつかみ、さっそく家族に実践しています。
苦虫を噛み潰したような笑みはもらえるようになりました。

この 絶対バグらないシステム作ろうぜの会 では、バグの出ないシステム・問題を起こさないチーム運営・AIには作れない設計論などのコラムを、なるだけ面白く・分かりやすくお伝えする主旨で記事を配信しております。


1. 人間は他人中心か、自己中心か

まず導入部に書いた質問ですが、そもそもどこが変なのか分からない方はいらっしゃいますかね?

「あなたは、赤信号を無視してもよいものだと思いますか?」
⇒ A.「信号無視は法律違反です」
⇒ B.「渡りたかったんです」

「B.は変だけど A. は普通でしょ?」とか、あるいはその逆とか。

こちら、質問文は「だと思いますか?」です。
ですので答えは、自分が思うかどうかを、「はい」か「いいえ」で始めなければいけません。
答えは必ず「はい、思います」「いいえ、思いません」の2択であり、それ以外はありえません。

仮に第3の選択をしたとしても「条件つきで、そうは思いません」くらいならともかく、信号無視が交通違反かどうかは、本人の意見ではありません。

A. の人物は、そのことを考えないで社会の一般論を語っています。
逆に B. の人物は、自身の過去のエピソードを聞いてもないのに勝手に暴露していますし。

A. のような考え方を “他人中心な人” あるいは B. の方を “自己中心な人” などといいます。

一般に社会は、他人中心でも自己中心でもなく、そのバランスが取れている(または巧く両立できている)状態がよいとされているものです。
ですが、みんながバランスを巧く取れるわけではなく、どちらかに極端に偏る人というのはどうしても現れます。

それはなぜか?
これについては「そいつが生まれついてもともとそういうヤツだからだ」と思いたくなるのが人情ではありますが、でもそうではありません。

人間はもともと生まれついて、他人中心な側面と自己中心な側面の両方を、最初から矛盾した状態のまま抱えているからです。
だから、そのバランスのとり方を巧く学習できなかった人は、本人の意思にも希望にも反してどちらかに偏ってしまうんです。

2. 地球生物は元来 “他人中心”

まず前提として、地球上の生物は基本的に “他人中心な行動をとる種だけが生き残る” という性質をもっています。
なぜなら『自分自身の生命を守る』『種を存続する』という2つの選択肢がどちらかしか選べない状況のとき、自己の生命よりも種の存続を優先できなければ、その生き物は滅んでしまうからです。

種の存続を優先するとは:
現代社会においては、『人命よりも社会のルールを優先する』と言い換えても全く同じです。

ただし、この2つがどっちかしか選べない状況なんてものは、生きててそんなにあることではありません。
だから日常的には、矛盾するこの2つの本能を、生き物は両方とも持っていることができるんです。

ルールを厳密に守ったら何人か死ぬかもしれないけど、でもそれは仕方ないことだ――。
自分自身の信念としてそういう信条を持っている人は確実にごくわずかですが、あまり考えずに行動した結果、そのように主張しているのと同じことになってしまっている人は、残念ながら社会のどこにでも一定数必ずいるものです。

たとえば、『熱波で生徒は死にかけてるけど、でもルールだから授業を継続せざるをえない』と発想する先生とかね。
実際、それで生徒さんが亡くなったニュースもあります。

なぜなら人間をはじめとした生き物の多くは、ルールを個の人命よりも優先する本能も持ってはいるからです。
こうした本能は物を深く考えない人達だけのものではなく、“全ての人が平等に持っている。普段は隠しているだけ” と考えるのが今日のポイントになります。

人間は普段は、“自分のため” と “社会のため” という2つの矛盾する本能を両立させるため、『自分にとって望ましい状況を作るために、他人に尽くす』という行動をとります。
そうすることによって周囲の人々と Win-Win の関係を築き、他人中心な行動をとると同時に、自分自身をも巧く守ることができます。

通常は、そうしなければバランスがとれないことを、自然に学習します。
ただしそれを巧くやるためには、『バランスをとろうとした結果、巧くいった』という経験が、それなりにないといけません。

産まれてこの方、他人のために自分を犠牲にしたことしかない。
産まれてこの方、自分のために他人を犠牲にし続けてきた。

そのような人達が、いきなり言われてバランスの取れた正しい行動がとれるかってぇと、そんなのムリです。
だから社会経験の浅い人は、自然に、極端な自己中心・他人中心に傾きやすくなるわけです。

3. バランスタイプの人を社会全体で増やしていくためには

とりわけいわゆる《リーダー気質》と呼ばれる人達は、十分な社会経験を積んでバランスタイプになった人じゃないと、なることができません。
人間誰しも、ある程度はバランスタイプでないと社会に順応できませんが、リーダー層の人間はそのバランス感覚がより高くないといけない、ってことです。

自己中心タイプの人は、一見すると目標を達成する能力が高そうに見えることからリーダーに任命されやすいのですが、実際には他人のことを考えるのが苦手ゆえ『チームを引っかきまわして終わり』になりやすいくなります。
だからといって逆に他人中心タイプの人をリーダーにすると、周りに引っかきまわされて必要以上の重責を勝手に抱えていってしまいます。

リーダーとは:

  • チーム全体の目標を叶えるために、メンバーに成果を出させる

  • そのために、メンバー各自の望みを理解する

という行動ができなければ、人を巧く導いていくことができません。
どう考えても、どちらかに極端に偏った人にできることではありません。

とはいえ、そもそも人間は生まれついてどちらかに偏ってはいて、そういう人が経験を積んだ結果としてバランスタイプになるのであって、生まれついてバランスタイプの人はいません。
以前どっかの誰かが「バランスタイプになる人間は、幼稚園の段階でその片鱗が見える」とか言ってた気がするんですが、周り全体を俯瞰して見まわすなんて幼稚園児にできるわけがなく、絶対気のせいです。

バランスタイプとは、もともとは偏った考え方をしていた子供が、経験を学習することでなるものです。
なぜなら、“適切な判断” とは、その元になる情報をあらかじめ学習していなければ、やりようがないことだからです。

ですから社会全体でリーダー層の人間を増やしていくためには、

  1. 他人のために尽くすことの大切さを教育する

  2. 他人に尽くすのはあくまで自分自身のためであって、尽くすことが目的ではないと学習させる

この2つの教育が重要です。
今の日本の道徳カリキュラムは、世界的に見てもかなり "1."  に偏重してしまっており、逆に "2." の《自分を守る》の部分の教育がかなり手薄です。
それゆえに他人に尽くすために自分を犠牲にしてしまう人はどうしても増えてしまうし、そういう状況に甘えて他人におんぶ抱っこになる人も増えてしまいます。

でもだからって、そうした状況をいつまでも政府のせいにしてたってしょうがありません。
そういう状況だからこそ、自分自身のために自己学習をする、という感覚が大事なんじゃないかなと、私なんかは思うわけです。

ではまた。

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