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赤ちゃんかわいそう問題

前回(みんなと同じじゃなくていい)の続きのような話。

今はソーシャルディスタンスがあるからそんなことも減っているかもしれないけれど、小さい子を連れているとよく声をかけられる。
私が育児を始めたのが関西なのも関係しているかもしれない。
「かわいいねえ」から始まって、何ヶ月?うちの孫もそれくらいなのよ、とか、今が一番いいわねとか(そうなんですか~?としか返せない。笑 大変だもんね。おばちゃんが懐かしんでるだけなんだけど)。

母乳おばさんバージョン

「母乳おばさん」というのも話題になったりする。
育児する環境によってはそんなの都市伝説でしょってなったりするかもしれないけれど、私自身も何回か「母乳?」と聞かれたものです。

低月齢に近い乳児の母にしてみたら母乳だとかミルクだとかそのタイミングとかにそれ相当の精神的時間的リソースを割いているわけで、ちょっとセンシティブになっているところなので
まあほっといてくれるのがいいんだけれども、おばちゃん(母乳かどうか聞いてくるのはほぼおばあちゃん)にとっては
天気とかと同じ感じのただの話せそうな話題なだけなので気にすることほんとにないわねと今なら思う。
私は母乳な母だったので母乳パターンの回答しか聞いたことがないんだけど、せっかくだったらミルクですパターンも聞いてみたらよかったな。

まあでも母乳ですと答えると「そうなの!母乳が一番よね」とおばあちゃんたちは安心そうにする。
当時私はどっちでもええやんと思いつつ、おばあちゃんたちの娘世代がミルクで育児してる人たちが多かった(ミルクのほうが栄養的に優れてるみたいに宣伝された時期があったそう)ので、娘が母乳じゃなくてアドバイスできなくてもどかしかったのかななどと想像していた。
ミルクパターンで返ってくる言葉によってはかなり心がざわついただろうな。

靴下履かせなさいおばさんバージョン

私は「靴下履かせなさい」おばさんに高確率で遭遇した。
なぜなら私が靴下履かせない母だったから。

イギリスで育児した友人いわく、イギリスではまだ歩かない月齢の子にも靴をはかせるんだそう。
靴履いてないと恥ずかしいくらいの感覚らしい。
でもそんな感覚ないから靴履かないでしょ。ただでさえ荷物が増えてて、歩かない子と抱っこひもで出かけるのに靴まで履かせる手間がおしいでしょ。
そんな中靴下履かせるとスルッと脱げちゃうんだなー。ママが元気よく歩くと赤子がぴこぴこ足をばたつかせたりして楽しくて、気づいたら靴下ないのよ。
ちなみに見つけた靴下を抱っこひもしながら履かせるのすっごい難しいです。レッツトライ。
あと出先でおむつ替えるあのちょっとした緊張感の中で、靴下。
替えてるおむつのウンチの中に踵がダイブしていくのを何回も見ているから、靴下脱がせる。脱がせたならまた履かせる。面倒なのよ。

そんなわけで靴下をいくつか落としたり失くしたりめんどくさがったりした結果、私は靴下を省略することにして、もっと脱げなさそうなレッグウォーマーとかを履かせることにした。
でも言うても裸足だからね、冬は見た目が寒々しい。
そうすると電車やバス、エレベーターの中でおばちゃんが声かけてくれる。

「かわいいわねえ。あらあ、裸足じゃないの。ほらっ!冷たいじゃない。靴下履かしてあげて!かわいそうよ」

えー。でも履かせないなりの理由があるんよ。
あと靴下履いてなくてもこの小さい人あんまり機嫌悪くない。赤ちゃんの手足が冷たくても体幹が暖かければ大丈夫、手足は体温調節のためにあったかくなったり冷たくなったりするってネットで助産師さんが言ってたし。
抱っこでくっついてるから体幹めっちゃあったかいし!!
しかし全部説明できないこのもどかしさよ。
だいたい言えるのは「そうですよねー。靴下あるんですけど、脱げちゃうんですよね」くらい。

当時よくそんな声をかけられるたびに、新米ママだった私の心は凝り固まっていって自己防衛みたいに靴下履かせなくても大丈夫な理由を頭に並べ裸足のことに触れられるたびに心がざわついた。
かわいそうかどうかは他人が決めることじゃないなって心底思った。

まだ自分の気持ちを言葉で表現できない人の気持ちを代弁するように「かわいそう」言うのよくないよ。
本人がいいならいいじゃん。
そんなわけで「かわいそう」は私にとって地雷ワードになりました。笑
もともと好きな言葉ではなかったと思うのだけど。

それは誰の気持ち?

見知らぬおばちゃんたちや、親戚とかから何回かそういった言葉を受けてから考えたのは、かわいそうっていうワードは言葉と表面では赤ちゃんのことを思いやっているようでいて、自分だったらこうするのにという思いを言ってるだけだなあと感じたんだよね。
でもお母さんたちはみんな最初は新米だから、ああかなこうかなって試行錯誤してる中でこうしなさいと言われると自信持って私はこうすることにしてるんですと言えない。
心地よさは、本人しかわからない。
赤ちゃんが心地いいかどうかは想像することしかできない。
あと主語を言葉にしない日本語ならではの問題だけど、誰がかわいそうなのか、誰がそう思っているのか、ということがぼやけるので
言葉にする本人も自覚なく「かわいそう」と代弁風に自分の意見を述べることができる。

気づいてからは「あなたはそう思うのね」と頭の中で補完するようにしていた

同時にヨガを勉強してたのもあるかもしれない。
ひたすら自分の体の状態を感じる。他の人と比べない。前の自分とも比べない。
だって毎日、毎瞬違う。ほんとに。自分の体も、心の状態も。
自分のことだってよくわからないのに、人のことなんておいそれとわかるはずないなあと思っている。
それが私のプリパレ講座での「自分にとっていいお産はなにか」を探すのをサポートするスタンスに影響しているんだろうなと思う。

ちなみに、今回のヘッダーの写真はうちの末娘がかつて後退ハイハイしかできなかった頃にベビーベッドの柵にひっからまって進退窮まったところ。

これはかわいそうだけどかわいいやつ。


いただいたサポートは幸せ補給(チョコレート)やひとりになる時間(コーヒー)、あるいは勉強代になってプリパレの活動に還元されます