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J・クリシュナムルティ 3

インドの貧しい一少年が、ある日突然大きな宗教教団に目を付けられて、教祖に祭り上げられて行くという実際にあった話である。

1911年、クリシュナムルティ16歳のとき、神智学協会とは別個に、彼のために「東方の星の教団(The Order of the Star in the East)」という組織が作られた。いよいよ世界教師が降臨するのに備えるためであり、アニー・ベサントとリードビーターが保護者となり、クリシュナムルティが長に据えられた。

1912年(17歳)には、弟のニティヤとともにイギリスに渡り、世界教師となるのにふさわしい英才教育を受けさせられる。それは1921年(26歳)までの9年間に及んだ。
この間多くの人々が、この特異な少年を目の当たりにして感化され、改宗して教団に入会した。また富裕層の信者たちから手厚い援助を受け、あたかも王子のような暮らしを送ったようである。しかし内気な性格のクリシュナムルティ少年は、自分の置かれているあまりの境遇に疑問を抱き、また人々から畏敬のまなざしで見られることに戸惑っていたようである。

1922年(27歳)。弟ニティヤの療養のため、アメリカ・カリフォルニア州のオーハイ渓谷にあるコテージに滞在中、決定的な神秘体験(悟りの体験)をする。それは三日間にわたって続いた一連の体験だったようである。嵐のような精神の激動を経てそれは起こり始めた。
その時のクリシュナムルティ自身の手記から一部を引用してみよう(大野純一氏訳)。

「・・・最初の日、自分がそんな状態でいつもより周囲のものがはっきり意識に入っているときに私は最初の最も不思議な体験をした。
道を補修している人間がいた。その人物は私自身であった。彼の持っているつるはしも私自身であった。彼が砕いている石までもが私の一部であった。青い草の葉も私自身であった。私はほとんどその道路補修工のように感じたり考えたりできた。私は、木々の間を通り抜ける風を感じ、草の上に止まった小さな蟻を感ずることができた。鳥や、ほこり、さらには騒音までもが、私の一部であった。
ちょうどそのとき、少し離れたところを車が走っていった。私はドライバーであり、エンジンであり、そしてタイヤであった。自動車が私から遠ざかるにつれて、私は自分自身から離れ出た。私はすべての中にあり、というよりはすべてが - 無生物も生物も、山も虫も、生きとし生けるすべてのものが - 私の中にあった。・・・」

後の瞑想録にも見られるような、何とも具体的な記述である。これは部屋の中に居ながらにして、外の世界を自己自身として感得したもののようである。神秘体験は、三日目にいたってさらに深まってゆく。それは彼の人生を一変させるような体験であったようだ。手記は次のように結ばれている。

「・・・私はとても幸福で、静謐で、おだやかであった。自分の肉体が見えたので、私はその近くに舞い降りていった。
空中にも、私自身の内部にも、深甚なる静謐が遍満していた。それは底知れない深い湖底のような静謐だった。湖のごとく、私は自分の肉体が、精神と情動もろとも表面で波立っているのを感じたが、何ものも私の魂の静謐を乱すことはなかった。力強い「方々」の存在がしばし私とともにあったが、やがて去って行った。
私はまことに幸福であった。私は見たのであるから。私は、生の源泉の清澄たる水を飲んだのである。私の渇きはいやされた。二度と私は渇きをおぼえまい、二度と私は無明の闇に落ち込むことはないであろう。私は「光明」を見た。私は一切の悲嘆と苦悩をいやす慈悲の大海に触れたのである。・・・」

この大悟の体験において、クリシュナムルティは自らの使命を強く自覚するに至った。(しかしそれは、教団が彼に求めていた使命とは必ずしも一致しなかったのではなかっただろうか。)

この神秘体験に続いて、「プロセス」と呼ばれる身体現象が起こった。それは後頭部、首そして背中に原因不明のひどい激痛が襲ってきて、あまりの苦しみにクリシュナムルティはうめき、のたうち回るのだった。医師も当惑するばかりだったという。このプロセスは程度の差はあれ、長年にわたって続いたようだが、クリシュナムルティは、意識の変容に伴って起こる、自らに与えられた避けることのできない試練であると受け止め、鎮痛剤などを用いることなく受容し続けた。

後にクリシュナムルティは講話の中で度々、苦しみに全的に留まりそれを変容させることが慈悲の行為である、と述べている。クリシュナムルティの教えの核心部分であるように思う。もちろん苦行を奨励しているのではない。しかし我々が人生において何か耐え難い苦難に出くわしたときに、それをプロセスと取ることができるならば、それは意識に変容をもたらし得るものになるのではないだろうか。

1923年(28歳)。オランダの信者であるパラント男爵という人から、ツウォレ近郊にある先祖伝来の居城(エアダー城)と広大な敷地を寄進され、そこが星の教団の国際本部となる。その領地の一部がオーメンという場所にあり、そこで定期的に集会が行われることになり、それをオーメンキャンプと言った。教団員は世界各国に数万人を数えるようになる。
(映画の「オーメン」はここから発想を得たのであろうか?映画では悪魔の子を準備することになっているが。こちらではブッダの子である。)
いかにクリシュナムルティに大きな期待がかけられていたのかがわかる。それにしてもクリシュナムルティがこのまま教団を率いていたなら、文字通り彼は王のような生活が保証されていたに違いない。しかし、やがてクリシュナムルティはそれをすべて投げ捨てるのである。

1925年(30歳)。弟のニティヤが病によって亡くなる。その死の悲しみをくぐり抜けたとき、クリシュナムルティの精神は深く清められたかのようであった。
この年のオーメンキャンプにおいて、クリシュナムルティが講演で世界教師に言及した際、はじめ「彼は」と言っていたものが、突然「私は」という一人称に力強く変化した。聞いていた人々は戦慄するような感動を覚えたという。これをもって世界教師の最初の降臨だと考えられている。

しかし一方で、教団内部では矛盾が噴出し始めていた。人が大きな組織を作り上げるとそこには必ず人間的な権力争いと堕落が生じる。それは今日の宗教(のみならずどんな分野)においても何ら変わることがない。教団内部での地位や階級をめぐっての幹部の争いが続いていた。またそもそもリードビーターがクリシュナムルティを選んだことに対して反発する分子もいて、彼らはクリシュナムルティに取って代わろうとさえ画策した。これらは宗教ではなくて、より大きな利権を求める政治でしかない。また一般の信徒たちは、世界教師の権威にすがり依存するだけでよしとしていた。

クリシュナムルティの中に(生来の)否定の炎が兆し始めていた。1927年(32歳)のオーメンキャンプにおいて、クリシュナムルティは次のように語った。

「誰ひとりあなたを解放することはできません。あなたはそれを自分の中に見つけなくてはならないのです。・・・炎に入り、炎となる力は、われわれ各自の中にあるのです。」

今日見ることのできるクリシュナムルティの教えの原型が、ここに現れている。
世界教師(ロード・マイトレーヤ)によって神の国に連れて行ってもらおうと期待していた多くの信徒たちは、大いに当惑した。クリシュナムルティをこれまで育ててきた指導者たちもショックを受けた。クリシュナムルティはもはや道を間違ってしまったのだと。
神智学協会は世界教師の到来を待ち望んでいた。その世界教師というものが何であるのかも知らないままに。それでいて、「本物の」世界教師がやって来たら、それは違うと言う。これが起こったことの全容ではなかったのだろうか。人は本当に望んでいるものが何なのかを、まずよく吟味することから始めなければならない。
1929年(34歳)。オーメンキャンプにおいて、居並ぶ信徒たちの前で、クリシュナムルティは「星の教団」の解散を宣言した。

オーメンにおけるJ・クリシュナムルティ(1929年)
教団解散後のJ・クリシュナムルティ(1934年)
壮年期(1948年)
85歳(1980年)
85歳 庭仕事にはげむJ・クリシュナムルティ



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