瞑想のコメンタリー

坐禅より出で来って・・・
(瞑想から出てきた高揚感のなかで独白しています。あまり真に受けないでください。しばらくしたら削除してしまうかもしれません)

瞑想は人の内面に一発大逆転をもたらすものだ
それを奇跡と呼ぶなら呼んでも構わない
内的な変容以外に、奇跡と呼ぶに値するものなどないからだ

こころの苦しみの変容が、瞑想の本質の部分にある
これをはずしたものは、まだ本当の瞑想になっているとは言えない

こころの苦しみは、実は「私」のものではない
それは個を超えたものだ
それは全体によって共有されている
それ故に、その解決も個を超えたものになるのだ
あなたの苦しみを、その解決を、世界に還してしまおう
その苦しみを大きく全身に吸い込み、そして吐く息とともに全身を緩めるとき、あなたは世界の苦しみ(の何がしか)を解消しているのだ
その苦しみの変容の先に、何か途方もないことが起こる

これらのことをあまり一般に語るべきではないのかもしれない
むき出しの真実は、人をして敬遠させるものだからだ
人は必ずしも、真実を求めてはいない
真実はオブラートに包んで隠しておくほうがよい
楽しい雰囲気、明るい環境を作り出しておくことが必要だ
それもまた大事なことだ
愛やくつろぎの気配によって、人は安心して道を歩み始めることができる
私は今、それを理解している
暴風に耐えられるようになるまで、人は安全の下で成長しなければならない
それは決してごまかしではないのだ

瞑想はカタルシスから始まり、静かな瞑想に移行してゆく、我々はそのように教えられてきた
はじめのうち、それは完全に正しい
しかし実は、瞑想に色々な種類があるわけではない
瞑想は常に道なき道なのだ
道的な瞑想と静的な瞑想は、必ず平行して同事進行する
それは別々なものではない
カタルシスが終わって、静かな瞑想が始まるわけではない
静かな瞑想は、必ず動的なカタルシスをその中に含んでいる
逆のこともまた言える
静的な瞑想は、激変・大転換をその内に伴ってこなければならない
それは動的なカタルシスよりも一層深く進行する
カタルシスとは静的なものなのだ

瞑想(坐禅)とは何もしないことだ
しかし、何もしないことは、それだけの激動がそれに引き続くことを意味している
何もしないことによって、真の変革が、意図せずして起こるのである
それ故にそれは奇跡だと言うのだ

(ALOL Archives 2016)

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