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関山慧玄(かんざんえげん) エピソード1 天然の禅者

これから約10話ほどになると思いますが、関山慧玄禅師の逸話として伝わっているものをご紹介して行きたいと思います。禅には、教義や理論のようなものは何も存在しないと言って良いのですが、その代わりに、このような短い逸話や問答によって、言い表せ得ない何かを表現しようとする傾向があります。こうしたところから出ている産物が禅語なのですが、そこに禅の醍醐味があるように思われます。活きた一瞬のいのちの輝き、その生々しいばかりの本質を切り取って見せているかのようです。

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関山慧玄禅師は、1277年、信濃源氏の流れを汲む高梨家に生まれた。関山の生地は、当時、高梨家の館があったであろう場所から推定されるだけで、現在の須坂市とも或いは中野市とも考えられるが、確かなことはわかっていない。関山は自己のことをほとんど語らなかったこともあり、その生涯は多くの謎に包まれている。
1307年、31歳の時、信州から鎌倉に上り、建長寺に住していた大応国師(南浦紹明)のもとで出家、慧眼と命名された。31歳というと、当時としては遅いスタートである。翌1308年には、大応国師が示寂してしまう。(1307年には大応国師の一番弟子・宗峰妙超が大悟している)
師示寂の後もしばらく鎌倉に留まって修行を続けたが、やがて信濃に帰ってしまう。独自の探求が続けられていたに違いないが、その間の記録は何も残されていない。
関山が(記録上において)再び鎌倉に現れるのは、1327年、51歳の時である。
建長寺開山で、大応国師が出家した時の師でもある中国僧・大覚禅師(蘭渓道隆)、その禅師の五十年忌が、建長寺山内・西来院(さいらいいん)で営まれた、その法要に出席したのである。
長年修行してきたはずなのに、どこかで自分自身に納得できず、内心、葛藤していたのかも知れない。瞑想家にはそんなことがあるものだ。出来得るあらゆることをやったが、何も起こってはいない。人生は終わりに近づいているのに、時ばかりが虚しく過ぎて行く。焦りが身を焦がす。どこかに打開点はないだろうか? しかしこの窮地において、関山は臨界点にやって来ていたのだろう。決死の覚悟が出来上がっていたのに違いない。
(出来得るあらゆることをやったが、何も起こってはいない・・・しかしながら、何が起こらねばならないというのだろうか? 起こらないことの中に、あらゆることが起こっているではないか。求めることを止めよ。笑)

建長寺・西来院には、諸方から大勢の僧侶たちが集まって来ていた。厳粛な空気の中、宿忌(前日の法要)が進行して行く。
式の途中、たまたま隣り合せた僧と会話した時、関山は尋ねた、
「今、天下の叢林(そうりん; 禅道場のこと)中で、一番の明眼の宗師は誰であろうか?」
「わしの聞くところでは、京都紫野(大徳寺のこと)の宗峰妙超という方は、相当な禅師さまだという。」
「どんなお方なのだね?」
「最近、ある僧がやってきて相見(しょうけん; 面接)したのだが、その袖から刃物が落ちてきたという。それを見た禅師は烈火のごとく怒り、侍者を呼んで、『この凶党を門外に追い出して叩き殺してしまえ、かような者は他日、仏法の敵となるであろう』と言われたそうだ。なんと凄まじい老師であろうか。」(実際に殺したりはしなかったであろうが)
これを聞いて関山は、大いに喜んで、
「これこそ、わしが師事すべき真の善知識(マスター)である」
こう言うと、まだ宿忌さえも終わらないうちに、西来院を発ち、京都に向かって旅立つのだった。

旅の僧は、東海道を西へと向かった。後に、この旅で富士山はどうであったかと、大燈国師から尋ねられた時、関山は答えたという、「富士山は見ておりません」と。さすがの大燈国師も、あきれるやら感心するやらであったであろう。編み笠をかぶって脇目も振らずに一目散に駆け付けたということなのだろうが、目の前に大きく聳える富士山を見ないで歩くということなど、いったい可能であろうか? これは本当の話かどうかはわからない。富士山が目に入ったとしても、心は求道心ひとつであったので、見なかった、ということにしておいたら如何であろうか。本質以外のことには脇目も振らず、全エネルギーを傾注する、全集中である(笑)、禅にはどうしてもそのような面がある。全集中を経た後の、全リラックス、そこに瞑想の眼目があるのかも知れない。

紫野・大徳寺は、まだ開かれたばかりの新しい寺であった。
関山は、すぐさま大燈国師に相見(しょうけん; 禅の修行者として面会すること)し、
「如何なるかこれ宗門向上のこと(禅の究極の真理はどういうものですか)」と問うた。
大燈はただ一言、「関(かん)」とだけ答えた。
これは「雲門の関」という禅の公案(問題)のことである。関門、門なき門をくぐり抜けて見よ、と言うのであろう、あらゆる理を絶した体験、いのちの世界が直に問われているのだと見ておきたい。
関山はこれを聞くと、サッと袖を振り払って、その場から退出してしまった。
その様子を見て、大燈は感嘆して言った、「作家の禅客、天然在るあり(ううむ、やりおる、この修行者は、天性の禅者だわい)」
「作家」は、ここでは「さっけ」と読む。相当なやり手であり、かつ独創的な表現者でもあるという意味の禅語である。唐代の禅マスター雲門が放った「関」という一文字、これに理屈は一つもないのだから、言葉を発することは無用である。関山はそれを一瞬の行動で示した、と同時に、それを自ら参究する命題として受け取った、ということでもあるのだろう。
翌日、関山は、正式な掛塔(かとう; 入門すること)願いを申し出にやって来た。
取次の侍者が、「もし掛塔したいというのなら、誰かの紹介状がなければならない」と突っぱねると、
「善知識(真のマスター)は、金剛の正眼(確かな眼)を備えているはずだ。門から入ってきた者が如何なる者かを一見して見抜くであろう。どうして他人の紹介状など要ろうか」と関山は吼えた。
奥で聞いていた大燈は、笑ってこれを許したということだ。
一般に、禅道場に入門するには、それなりの手順を踏まなければ認められないものだが、関山のような本格の禅者なら、一喝してそれで済まされるのであろう。われわれ凡人に真似のできるわざではない(笑)。


大燈国師の導きによって、雲門の「関」を透過し大悟するのは、1329年、関山53歳の時である。
こころの中のあらゆる関鎖が千切れ飛び、執着、馳求の心が止んで、そして内側に花開く世界。私などには容易に計り知ることのできない光明の世界であるように思われる。
関山には、この時の投機の偈(悟りを表明した偈文)のようなものは存在していない。しかし、大燈国師の印可状には(ここでは詳しく取り上げないが)、関山が慈悲の人であり、人々を導く活策略を発揮するであろうことが述べられている。
関山という道号は、この時、大燈国師から授けられたものであり、また慧眼という僧名も慧玄と改めるようにと言われた。

関山生誕地の碑(長野県須坂市)

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京都・大徳寺 方丈。
方丈は住職の居所である。関山が訪ねた時、大燈国師はこの場所におられたのであろう。

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方丈の北側に飛び出すように併設された、大燈国師の塔所(墓所)である雲門庵。国師の木像と遺骨が今なお納められているという。

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