田中眞海老師 5

宝慶寺の家風

田中眞海老師が、お若い頃、行脚して最初の修行道場に選んだのは、実は、この宝慶寺(ほうきょうじ)であった。23歳で出家して、授業寺(じゅごうじ;得度したお寺)の師匠より、例の「婆子焼庵(ばすしょうあん)」を授けられてから、間もなくのことであったと思われる。
新参の修行僧であった当時の老師は、その後の瞑想生活を決定づける、ひとつの重大な体験をされる。
それは1963年(昭和38年)の初夏のことであったという。
当時の宝慶寺の禅マスターは、橋本恵光老師という方であった。(眞海老師より三代前の老師である)

眞海老師は、わたくしに、次のように言われた。

「あの当時の修行僧は、ワシを入れて三人だけであったが、ある日、所用があってその三人は、それぞれが大野市内へと出掛けたのだ。橋本老師様には、お留守番をお願いしていた。全員、夕方までには帰る予定であったが、ワシのみ一人、昼前に用事が片付いたので、午前中のバスに乗って帰山したのだ。
庫裏の玄関の敷居を跨いだときに、突然「カチン」と鋭い音がした。柝(たく;拍子木のこと。食事を始める合図等に使う)の音であった。恐る恐る、飯台部屋の扉を少しだけ開けて、中を窺うと、老師が食事をなさっているのが見えた。
お袈裟を正面に着けて、応量器(おうりょうき;僧の用いる食器)を使って、このように(眞海老師はその様子を再現して見せられた)厳然として食事をなさっていたのだ。
どうだね、あなたたちなら、一人で食事をする時にはどのようにして食べるかね?
そのお姿を見たときに、ワシは全身が電気に打たれたような衝撃を受け、凍り付いたのだ。
世の中には、怪物のような人が実際にいるのだな、と思い知った。」

   ※

それを語る老師の表情には、感動と一種の畏れとが見て取れた。
老僧のそんな様子を見たとしても、何も感じない人もいるのに違いない。しかしこのことは、老師を奥深くから打ちのめす一撃であったようなのだ。
老師が書かれた小文の中に、次の言葉があるのを、旅から帰って来て見い出した。その時のことが、次のように述懐されている。

「・・・ それ迄、正直に申し上げて、禅堂で半年位修行して力を付け、社会に戻り、一旗上げたいと思っていた。しかしその時より、この身の出来の悪さを省みず、老師のようなお方に成るべく、一歩でも半歩でも近づきたいとの思いが、腹の底から込み上がってきて、仏道修行を本格的に努める気持ちになった。」
   「寂円さま物語」(2007)に寄せた あとがきより

   ※

禅を行ずるのは、誰かに認められるためでも、褒められるためでもない。
道元禅師――寂円禅師(宝慶寺開山)ラインの禅は、何かのためのものですらない、ただひたすらに禅でなければならないと言うのであろうか。
人が見ていようと、見ていまいと、変わらずに行じられてゆく、これが禅だというのだ。
全責任を自己一身の内に負い、鉄の意志で、この宇宙において独り聳え立つ。宇宙いっぱいの禅。それを以って、生涯を貫こうと言うのであろうか、人間業とも思えない。
このことを老師は、「怪物」と言ったのであろう。
そして、老僧の一撃は、誰かに向けて放たれたものでさえなかった。それ自身の一撃なのだ。その純粋な一撃によって、予期せずして眞海老師は打ちのめされた。

老師がプーナにやって来る14年も前の話である。
このような険峻きわまりない禅と、OSHOのゾルバ・ザ・ブッダの禅とが融合する、生とは、存在とは、まことに奇妙で神秘的なものであると言わなければならぬ。しかしまた、こうも言えないだろうか、OSHOその人もまた、本質的には、怪物的なまでに純粋な、そして慈悲を兼ね備えた人なのだ、と。

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