六祖壇経より 3

神秀上座の偈文は、慧能のいる米搗き小屋にも伝わってきた。寺の童子がそれを憶えて唱えていたのだ。

 身は是れ菩提樹
 心は明鏡台の如し
 時時に勤めて払拭(ふっしき)して
 塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること勿れ

慧能には、それが未だ、こころの本性を見ていない人の偈であることがすぐにわかった。
慧能は童子に尋ねる、
「それはどういう偈なのですか」
「あなたは田舎者だからわからないでしょうが、これは上座の神秀先生が作られたものです。五祖大師さまは、これを大変褒められました」
「先輩、私はここで米搗きをしていて八箇月になりますが、一度も本堂の方へ行ったことがありません。私をそこへ連れて行ってくれませんか」
童子、承諾する。
「先輩、私は字が読めません。読んでいただけませんか」
その時、別駕(べつが)という僧がいて、朗々と読んでくれた。慧能は言う、
「実は、私にも一偈があります。別駕さま、それをここに書いていただきたいのです」
「お前も偈を詠もうというのか。そんなバカな」
「別駕さま、この上ない悟りを学ぶ者は、初心者をも軽んじてはなりませぬ。下の下の者にも優れた智慧があり、上の上の者にも智慧の盲点があるものでございます。」
「そ、そうか。それでは偈を唱えてごらん。あなたのために書いてあげよう。あなたがもし法を得たならば、まず私を救ってくだされよ。良いですな」
偈が、神秀上座のものと並んで、廊下に書き出された。

 菩提は本より樹なし
 明鏡も亦た台に非ず
 本来無一物
 何れ(いずれ)の処にか塵埃を惹(ひ)かんや

本来無一物のどこに汚れが付こうかい、というのである。(元の偈に当て付けたようでもあるが、凄みをもって迫ってくるようだ)

この偈を目にした一同は、一様に驚愕し、怪訝(けげん)に思わない者はいなかった。
「何ということだ。人を見た目で判断してはいかんのだなあ。よくもまあ我々は、こんな肉身の菩薩さまをこき使ってきたものだ」
堂内のざわめきを聞いて、五祖は、慧能に危害を加える者が出て来はしないかと心配して、その偈をサッと消し去ってしまった。
「ダメだ、これもまた見性してはおらん」
衆は思った、「ああ、やはりそうであろうよ」

次の日、五祖は密かに米搗き小屋にやって来た。
五祖は慧能の労働(瞑想)を労って、そして言った、
「米は搗けたのか?」
(悟りは熟したのか)
「もうとっくに搗けておりましたが、ただ、篩(ふるい)にはまだかけておりません」
(熟しています。あとは老師に点検していただくばかりです)
五祖は、持っていた杖で、碓(うす)を三回叩いた。カン、カン、カン。
慧能は、(ハートのチャクラあたりに)師の声を聞いた。
「深夜三更に、誰にも知られないようにして、わが室にやって来なさい」

慧能がやって来ると、五祖は、部屋の中にさらに目隠しをして、極秘のうちに、金剛経のエッセンスを説いた。
「応無所住 而生其心」(おうむしょじゅう にしょうごしん/まさに住する所無うして其の心を生ず)の一段に到って、慧能は大悟した。何にもとらわれることのない心。どこでもない所から、ひとりでにエネルギーは湧き上がって来ていた。その自己本性のエネルギーは、一切万物のエネルギーと別のものではなかった。

慧能は感極まって、このように述べた、
「何ということでありましょう、自性は、はじめから清浄であったのです
何ということでありましょう、自性は、はじめから不生不滅であったのです
何ということでありましょう、自性は、はじめからすべてを具えていたのです
何ということでありましょう、自性は、はじめから揺れ動くことなき不動のものであったのです
何ということでありましょう、この自性から、あらゆるものが生み出されていたのです」

五祖は言う、
「自らの本心・本性を掴んだならば、それを本物の人、人天の師、ブッダと名付けるのだ」
五祖は、ダルマ大師から伝わった衣と鉢を手渡すと、
「あなたを第六代の祖とする。この法をよく護持して、多くの命あるものを助けなさい。この法を未来に伝えて、断絶することのないようにしてくれよ」
さらに五祖は続ける、
「この衣鉢(えはつ)は、ダルマ大師以来、代々伝えてきたものだが、争いの元になるものだ。あなたのところで留めて、もう伝えぬがよかろう。
あなたは速やかにここを去りなさい。あなたを殺そうとする輩が出てくるだろうから」

慧能は南方に去ることにした。
五祖は、土地の地理に詳しくない慧能のために、自ら道案内をし、安全なところまで見送ることにした。
慧能を船に乗せ、五祖みずから船を漕いだ。
「師よ、弟子が船を漕ぐべきです」
「いや、私があなたを渡してあげるのだ」
「弟子が迷っているときは、師が渡しますが、悟ってしまえば、弟子自らが渡します」
「その通りだ、慧能よ、その通りだ。これから仏法は、あなたのところで大いに花開くことだろう。私はあと三年でこの世を去る。あなたはともかく、南方に逃れてくれ。すぐに法を説き始めてはいかん。法難が起るだろう。時が熟すまで待つのだ。よいな、頼んだぞ」

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