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長谷川角行と 家康

富士講は、江戸時代に成立した富士山信仰であり、関東、特に江戸庶民の間で大いに支持された。
白装束を身にまとって「六根清浄」と唱えながら富士登拝する人々の姿をテレビ等で目にすることがある。
「どっこいしょ」という掛け声は、この「ろっこんしょうじょう」からきたものだということだ。
六根は仏教用語で、眼耳鼻舌身意のことだが、六根清浄ということで、これらの感覚器官と心、その曇りを去って、真実の自己の姿に目覚めよう、というほどの意味になるのだろう。

富士講の開祖は、室町~江戸時代にかけて生きた、長谷川角行(1541-1646)である。その角行(かくぎょう)が修行し、そして入寂した場所でもあるのが、この人穴富士講遺跡であり、富士講の人々にとっての聖地になっている。

それは朝霧高原にある。人穴(ひとあな)は、そこの地名にもなっている。ここを通るたび、変な名前だなと思っていたが、今回ここを初めて訪れてみて、納得した。角行が修行した溶岩洞窟が、人穴だったのだ(崩落の危険があるため現在は立ち入り禁止になっている)。
そこに至る参道や古い石碑郡、また人穴洞窟の入り口付近は、深い静寂に包まれているように感じられた。周りを取り囲む森、そして鳥たちの挙動や鳴き声までもが、何かただならぬメッセージを秘めているような気配がする。

長谷川角行は、九州・長崎出身の人である。藤原氏の血を引いているということだ。
両親はまことに宗教的な人であったらしく、応仁の乱以来、戦乱が続く世の中で、人々が塗炭の苦しみに遭っているのを目の当たりにして、「この世に平和をもたらすような一子を授け給え」と天地神明に祈りを捧げた。
その満願の夜に、北斗星(北辰妙見菩薩)が顕現し、そして母は受胎したということだ。
角行7歳のとき、北斗星のお告げによって、己の宿命を自覚し、18歳で諸国に行脚に出た。
まず常陸(ひたち; 茨城)に下って、日拝を修した。
大和(やまと; 奈良)の大峯(おおみね)山の岩窟に入って修行していた時、不思議な一翁が現れて、「駿河の国の富士山に登って行を積み、また富士の西側に人穴という所があるからそこで瞑想するならば、そなたの心願は成就するだろう」と告げた。(これは大峯山を開いた役行者の霊であったと考えられている)
角行は大いに喜んで、駿河に向かった。人穴に入ろうとすると、里人が怪しんで拒んだため、はじめ白糸滝で修行していたという。やがて角行は人穴に籠もって、富士の霊気のなかで悟りを開く。
その後も全国の聖地をくまなく巡礼して回り、修行を重ねている。角行の修行とは、役行者(役小角; えんのおずの)から始まる修験道の流れを汲むものであったのだろう。
その間、越前国(新潟)において、一人の盗賊であった男が改心して弟子となり、大法行者となった。また下野国(栃木)で、生まれつきの唖であった人が霊験によって癒されて感化を受け、門人となって日珀(にっはく)行者となった。
角行39歳のとき、師弟ともども人穴に戻ってきて、さらに天下泰平の願行を勤め続けた。
洞窟に籠もって瞑想するとともに、富士山を回峰して祈りを捧げるのが修行のメインだったのではないだろうか。そして人々に教えを説いた。
私はそれが無理をする難行苦行だったとは必ずしも思わない。角行は驚くなかれ、106歳まで生きている。当時としてはありえないような長寿だっただろう。自然でストレスのない(しかしまた緊張感をなくさない)、平安に満ちた、そして慈悲深い人物像が、私の中には浮かび上がってくる。

以下少し長くなるが、徳川家康との因縁について触れておきたい。これが史実であるかどうか私にはわからない。しかしそれは、長谷川角行の人となりの何がしかをよく表しているように思われる。その元資料は角行から数えて十世にあたる柴田花守の手になる角行の伝記であり、国会図書館のデジタルライブラリーから入手することができたものである。(宮地厳夫著「本朝神仙記伝(1929)」に所収)

家康は若かったころに、角行を人穴に訪ねてきたことがあったという。そのとき角行は、次のような教えを示した。

「戦国の時代には、覇権を争い、天下を取ろうと野望を持つものが多くいました。彼らはみな私欲を盛んにして、殺すことを好み、あるいは贅沢や権勢に溺れ、淫酒に耽る者ばかりでした。
あなたは仁徳を修め、部下を思い遣り、百姓を憐れみなさいませ。そうすれば人民はあなたを信頼して、やがて天下を統一することができましょう。
謹んで慈悲行を専らとし、邪を打ち正を助けるのです。我らもまたここで、身を棄ててあなたの武運を祈りましょう。」
家康はこれを聞いて、歓喜の心を起こしたという。

家康、天下平定の後、再び人穴に角行を訪ねてこう言った。(このとき角行は60余歳であった)
「これも上人の教えの賜物です。何かお望みのことがあれば、何でも仰って下さい」
角行は、身を正して首を横に振った。
「私が世の太平を祈るのは、わが父母の願いによって、万民を救おうとするためなのです。名聞利欲のためではありません。
あなたが戦場で千辛万苦したのも、皆これ天下のためであって、徳川一家のみのためではありますまい。
わが父母の願いであった世の太平は、今あなたによって成し遂げられました。私は将来の世を救うべき道をも遺しておき、またあなたの武運長久をここで祈り続けます。
お礼を言わなければならないのは、私の方なのです。」
家康はますます感服して、それならばということで、報恩のため、浅間大社の社殿の新造を発願した(1604年に完成)。これが現在に見る大社の本殿や楼門等である。

角行については、他にも興味深いエピソードがいろいろ伝わっているが、このくらいにしておこう。
神秘の修験者・長谷川角行。富士山の周りは、そして日本の国土は、角行の仕組んだ平和を希求する呪術によって塗り込められているかのようである。
人穴の入り口に漂う澄んだ静寂の気は、私をしてそんなことを思わせたのである。



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