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One On One

 夜はバー、朝になるとカフェに入れ替わるこの店で、熱いだけのコーヒーを飲みながら視界が揺れる窓を見る。雨なんて、うんざりだ。

 家にも帰らず、うだうだと何時間も店に入り浸る俺はなんてだらしないんだろう。憂鬱な気分を雨のせいにして昨日は仕事を休んだ。その後この店で酒を飲み、多分テーブルに突っ伏して眠り込んでいる間に店のスタッフが清掃も終えたのだろう。
 いつの間にか夜が明けたらしく店内はカフェに早変わりしていた。外は曇っているが朝と言うだけで充分眩しくて瞼の奥がズキズキする。頭をかきむしるようにしてため息をつくと、外から入って来た客と目が合った。バツが悪いことに無視できない女友達だった。
「久し振り。こんな朝早くに珍しいわね」
「昨夜からいる」
「お酒の匂いがする。飲んでたの?」
「ああ」
「あたしも飲みたいわ。眠っているような気分じゃなかったんだもの」
「雨のせいだ」
「一緒の席に座っていい?」
 うまく挨拶すらできず、俺は声を出さずに頷いた。彼女が俺の向かいの椅子に荷物を置いてメニューを注文しに行った。荷物からはバレエシューズが覗いている。彼女はクラシックバレエのインストラクターだ。やがて注文したミネストローネスープをトレーに乗せて戻ってきた。
「雨は大好きだからそのせいじゃないわね。静かで素敵な雨じゃない」
 俺は何も答えなかった。スープをかき回すとトマトの温かな匂いが店内に広がった。しばらく彼女はスープに集中した。
「今日も休んだの?」
「うん」
「あたしも休んだの。つき合ってくれない?」
「どこに?」
「どこでも。遊びに行きましょ」
「そんな元気ないよ」
「いいのよ、元気なんか出さなくたって。付き合ってよ」
 彼女が大きな目を俺にじっと向けて答を待っているので行かなくてはいけないような気がして頷いてしまった。やはり自分は流されてるようで最低に思えた。

 店を出ると彼女の言う『静かで素敵な』雨は上がっていた。
 曇り空でいつ降り出してもおかしくない天気だったが太陽のように明るい彼女は平気らしい。
「どこに行きたいんだ?」
「遊園地」
 なんだってそんな所に。
「開いてないんじゃないか? こんな天気だし」
「それでもいい。遊園地が見たいの」
 そう言って彼女は遊園地行きのバスの時間を見た。
 その遊園地には過去にも二人で行ったことがある。もう何年前になるだろう。二人とも希望を抱えていた。それが叶い、俺は好きな所に就職して彼女はダンサーを目指した。高校からのクラスメートである俺たちは、わがままも言い合い、恋人になることもせず夢に夢中な友情だけで繋がっていた。それが二人に一番合っていた。それなのに今の俺はこのザマか。情けない。バスがやってきたので二人で一番後ろに乗った。俺たちしか乗せていないバスはすぐに動き出した。それでも、随分会っていないと言うのに何でも気兼ねなく話せる彼女に心が安らいできた。

 今向かっている遊園地は刺激的な乗り物もなく、取り立てて話題の場所ではなかったが、知る人ぞ知る魅力的な景観に恋人たちは時々夜に訪れているようだ。
「踊り、がんばってるんだな」
「まあね。あなたの調子はどう?」
「聞くまでもないだろう」
「顔色悪いものね」
 彼女は悪びれる様子もなく、あっけらかんと言い放つ。
「まだ頭痛い?」
「さっき頭痛薬を飲んだから大丈夫だ」
「肩が凝っているのかも」
 そう言って突然俺の肩を揉み出した。
「くすぐったいよ」
「笑ったら力抜けるからくすぐったほうがいいわね」
 言い終わる前に彼女が本当にくすぐってきたのでバスの中ではしゃぐ羽目になってしまった。しばらくしてくすぐるのをやめた彼女は、くすくすと笑っている。
「後でやり返すからな」
 俺は彼女の頭をこづいて言った。彼女はまだ笑いが収まっていなかった。

 バスは遊園地に着いた。アスファルトは濡れていたが雨は止んでいた。
「あ、そこでフランクフルト売ってる。食べよう」
 彼女が軽やかに走ってフランクフルトを買いに行った。遊園地を見渡すと、水滴に濡れた寂れた遊具たちが感傷を誘い、外国映画のワンシーンのように映った。彼女が戻って来た。買って来た袋を覗くとフランクフルトとビールも何本か入っていた。
「飲むのか? 昼間から」
「いいじゃない。未成年じゃないんだし」
 そんな問題ではないのだが。
 何かあったのか、と喉まで出かかったが問いかけるのはやめた。行き過ぎた質問のように思えた。今はとりあえず彼女のペースに合わせていよう。
「あなたの体調が何とかなるようだったら観覧車に乗りたいんだけど」
「ああ、いいよ。大分落ち着いた」
 彼女は喜んで切符を求めた。

 重い扉が開き、観覧車に二人で乗り込んだ。
 今日は乗り物にばかり乗っている気がする。観覧車がゆっくり動き出すと彼女はさっそく袋を開け、中身を取り出した。俺もさすがに腹が減っていた。思えば昨夜から食べ物らしいものは口にしていない。バスにも揺られて気づくと昼時だった。缶ビールを開け、フランクフルトにかぶりついた。
「うまい!」
「おいしい!」
 ほぼ同時だった。
「こういうジャンクな食べ物、久し振りなの。いつもセーブしてたから」
「今日はいいのか?」
「いいの。またしばらく食べないから」
 やはり彼女の様子がいつもと違う。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
 彼女は外の景色を眺め、しばらく言葉を考えていたが話し出した。
「海外に住むの」
 思わず言葉に詰まり、目で話の先を促した。
「ずっと夢だった。ステージで踊ること。今回やっとインストラクターじゃなくて念願のダンサーとしてお仕事するの」
 しかし前向きな事柄とは裏腹にその表情には翳りがあった。
「……情けないよね。あんなにやりたかったのに、今は行きたくないとすら感じる」
 どうして、と言いかけたが言葉を選んだ。
「プレッシャー……?」
「多分、そう。まだ出発もしてないのにホームシックにかかったみたい」
 俺は決心して、彼女のそんな気持ちを吹き飛ばすべく今日を遊ぶことにした。

「色んなものに乗ろう。何でもいい。行きたいところがあったらどこでも行こう」
「ほんと?」
「ほんと」
「嬉しい!」
 彼女は朗らかに笑った。観覧車が下に向かう頃、俺たちはビールを飲み干した。雨がまた少し降ってきたようだ。しかし濡れるのもためらわずにただ歩いて話をした。今日こうして会うまでの日々を。俺の話も大きな目で真剣に聞いてくれた。そんな俺の憂鬱な原因も実は職場の転勤だったのだ。知らない街にいきなり決まった時、なぜ今の仕事をしているのか心底悩んだ。自分のしたいことが何なのか、さっぱり見えなくなったのだ。

「あたしたち、似たような境遇ね」
「君の方が重い。俺なんか同じ国内なのに悩んでる。最低だ」
 彼女は首を横に振る。
「悩みに重いも軽いもないわ。本人が辛いのなら辛いのよ」
 優しい言葉に思わず涙腺が緩みそうになり、話題を変えた。
「なあ、どうして雨が好きなんだ? 鬱陶しいだろう」
「雨が降ると淋しくないの」
「具体的に教えて欲しい」
「雨がね、タップダンスしているように思えるの」
「タップダンス?」
「そう。たくさんの音を奏でるでしょう? あたしは一人じゃないんだって思える」
「君は本当に踊りが好きなんだな」
「うん。多分ね」
 だからこそ、行きたくないという心情に耐えられないのだ、と彼女は話す。
「雨はどこの街でも降り注ぐよ」
「本当にそうね。優しい言葉、ありがとう」
 俺は慌てて首を振る。こんな言葉しか言えないのが情けない。
「優しくなんかないよ」
 彼女は俺の腕に自分の腕を回し俺の肩に軽くもたれた。

 悩みは、大人になるごとに増えて行って全然減りやしない。それでもその中で少しでも心を分け合えることができる人間がいたら、それだけでとても楽になれる。俺は先ほどまでの憂鬱な気分が柔らかく、この雨の中に溶けていくように感じた。時計を見るともう午後に滑りこんでいる。
「いつ日本を発つんだ?」
「来週」
「来週?」
 思った以上に急だったので慌てた。いつ帰ってくるのかなんて、聞けるはずがない。聞いてはいけない。ただ彼女をこのまま旅立たせるのはためらわれた。あまりにも表情が弱弱しかった。
「……君の踊りを見せてくれないか?」
「え?」
「見たいんだ」
 彼女が驚きと戸惑いの表情をしている。しかし意を決したように顔を上げた。
「じゃあ、いつものレッスン場に行きましょう。夕方なら空いてるから」
 遊園地を少し散策した後、バスに乗って街に戻り、彼女がいつも通うレッスン場に向かった。

 用意をするから座ってて、とそばにあったパイプ椅子を出してくれた。しばらくするとネイビーブルーのレオタードに黒い巻きスカートを纏い、髪をアップにした彼女がロッカーから出てきた。それだけで普段どれほど体を鍛えているのかがわかるほど彼女の背中は意志を表すようにまっすぐだった。音楽を鳴らし、ストレッチが始まった。それだけで充分感心したが、体ならしを終えて本格的に踊りが始まると息を呑んだ。
 体中がリズムになって、腕や脚、細かな鍛えた筋肉のすべてが存在感を増していった。基本はクラシックバレエだがその枠に収まらないほど躍動感に満ちている。20分、30分、彼女の踊りは続いている。汗が噴き出し、段々笑顔が見られた。ラスト、数え切れないほどの回転を見せて、ぴたりと止まり、踊りは終わった。

 俺は思わず立ち上がって拍手を送っていた。それは何10回も何100回も練習を重ねた者にしか出せない踊りだった。
「すごい、すごいよ! 踊りについてはよく知らないけど、すごく感動した!」
 気の利いた言葉は出て来なかったが、惜しみない拍手を彼女に送り続けた。
「ありがとう」
 彼女は少しだけ息を切らせて顔いっぱいに笑顔を広げ、深々とお辞儀をした。顔を上げた瞬間、俺は走ってそばに行き、彼女を抱きしめた。体が熱かった。
「あたし、やっぱり踊るのが大好き。海外で暮らすのは怖いけど、でもやっぱり行こうと思う」
「うん」
「踊らせてくれてありがとう」
 多分、俺は彼女からこの言葉が聴きたかったんだろう。ようやく安堵した。

 レッスン場のシャワーを浴びて彼女はいつもの彼女に戻った。化粧をしていない分、幼く見えた。けれど彼女は輝いている。外に出ると霧雨だった。
「風邪、引くなよ」
「うん。あなたもね。今日つき合ってくれて嬉しかった」
「俺の方こそ助けられたよ。会えて良かった。がんばろうな、お互い」
「うん。がんばろう」
 俺たちは握手をした。
「じゃ、あたしはここから地下鉄に乗るわ」
「じゃあ、ここで」
「うん」
 俺たちは互いに背を向けた。少し歩いて遠くなった彼女を振り返って叫んだ。
「今度は海外から連絡をくれ。その街のカフェで会おう。必ず行くから」
 彼女は俺の呼びかけに背を向けたまま立ち止まった。
 しばらくじっとしていたのでもう一度声をかけようと思った瞬間、先ほどのように思いっきりの笑顔で振り返った。ちょうど行き過ぎる車のライトが彼女の顔を明るく照らした。俺に手を振る彼女の頬には一筋の雨が光っていた。


《 Fin 》
初出 2005年10月10日
解説
大澤誉志幸さんの「雨のタップダンス」と言う初期の名曲からタイトルと雰囲気を拝借しました。恋愛のような、そうではないような、具体的じゃない、そんな雰囲気。歌詞もどこか軽やかで大澤さんの独特な透明感を放つ歌声がとても素敵でそこから着想を得たのだと思います。

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