赤いヒールと平手打ち
まったくイヤになる。
オレがこの国に来たのは親父が無理矢理連れて来たからだ。
まだ幼かったオレをまるで人形みたいに意見も聞かず、母親の手から連れ去った。なのに親父と来たら何の言葉も会得しない内にぽっくりと逝きやがった。残されたオレは、と言えば宿泊していたホテルの年老いた女に育ててもらったらしい。親父はそれでもオレが死ぬまでこのホテルで暮らせるだけの金を遺していた。女は娼婦でオレは彼女に育ててもらったと言ってもいい。その娼婦、リーナは外出していることが多いので部屋の掃除などは全部オレがやっていた。それが普通だと吹き込んだのはリーナだ。
この国の女はみんな布で顔を隠している。
宗教上の理由などと言う健気なものではなくファッションとしてだ。男どもはと言うと、そんな女たちを唯一見える目で品定めをしているようだ。どいつもこいつも最低だ。オレがたまに普通のシャツとジーンズなんて格好で外に出ると途端に好奇の目に晒される。食料を買うために仕方なく外出していたがその目線にはいつもうんざりしていた。視線を無視して街の中を歩いていると視界に鮮やかな色が飛び込んで来た。
真っ赤なハイヒール。
モノクロの世界の中でそのハイヒールは美味そうな果実に見えた。
通り過ぎる女たちの足許に目をやるが、そんな靴を履いているやつはいなかった。なんの為に売っているんだか。オレは靴から目を逸らしてホテルに戻った。エレベーターに乗り、自分の住む階のボタンを押した。
食料の入った紙袋を持ち直し、部屋のドアを開けようとした時、隣から怒鳴り声が聞こえた。母親が娘を叱りつけているらしい。オレは興味を持った。感情というものが近くに存在しているのが分かったからだ。耳を澄まして二人の喧嘩のやりとりを聞いた。娘はオレと同い年くらいだろうか。若い独特の声の高さがあった。オレはあまりこの国の言葉を知らない。増してやスラングになると全くと言っていいほど耳に届かなかった。隣の女二人は相当汚い言葉で罵りあっているらしい。
結局どれほど耳を澄ましても喧嘩の真相が掴めなかったので諦めて部屋に戻ると珍しくリーナがいた。リーナの話す言葉しかオレには判らない。多分、周りの連中を認めていないからだろう。オレはリーナに隣の喧嘩の話をした。リーナはうんざりした声を出した。
「あの娘は毎晩、親に内緒で夜遊びしていたんだよ。親はやっと気付いたらしいね」
夜遊び!? そんな場所がこの国にあるのか? 娼婦街以外に。オレはリーナにその場所を教えてくれと言ったが、あんたにはまだ早いよ、と言って取り合わなかった。
まったくイヤになる。
リーナはまた出掛けた。
今日の客は金になるから、と召かし込んで行った。そんなリーナでさえ赤いヒールは履いていない。リーナはオレが絶対に自分の側から離れないものと思っているらしい。そうだ。何故気が付かなかったのだろう。オレが出ていけばいいんだ、好きな所に。オレは最後になるかも知れない部屋の掃除をした。いきなり沢山動いたものだから、どっと汗をかいた。バスタブに湯を張り、窓を開けて風を入れた。そのままバルコニーに出て煙草を吸った。
バルコニーは1枚の申し訳程度の薄い板で隣の部屋と仕切られているだけだ。その板も老朽化していつも半開きだった。お陰で隣のバルコニーまで筒抜けだ。
その隣に目をやって偶然見てしまった。
喧嘩していたらしい娘の姿を。
彼女は風呂上がりなのか、顔に巻く布を胸元まで押し広げていた。豊かな波打つ黒髪を持っていて浅黒い肌がつやつやと輝いていた。彼女は大胆にバルコニーの手すりに片足を乗せてクリームをすり込んでいた。オレは一瞬まっすぐな美しい足に見惚れたが、我に返ったのは彼女が赤いハイヒールを履いていたからだ。
「あっ」
オレは思わず声を出してしまった。
彼女はオレの存在に気付き、慌てて布で胸を隠した。
そしてその赤いヒールでこつこつとオレの方に歩いて来た。彼女は美しかった。しかし急にオレの視界に星が舞った。彼女はオレに平手打ちしたのだ。このスケベ! と言ったかどうかは判らないが何か叫んだのは確かだった。彼女は長い髪を風に靡かせ、自分の部屋に戻った。ボディクリームとシャンプーのむせ返るような香りが鼻を心地良くくすぐった。
オレはしばらくぶたれた頬を押さえて動けなかったが、落ち着くと彼女のことが知りたくてしょうがなくなった。しばらくこの国から出て行けそうにない。オレは初めてこの国で仕事を探そうと思い、微笑みなのか苦笑なのか区別のつかない笑みをもらした。部屋からはバスタブから湯が溢れる音がした。
《 Fin 》
初出 2004年9月29日
解説
この作品が大澤誉志幸さんの曲やタイトル、歌詞などから浮かぶ小説を書き始めたきっかけになりました。小説のイメージは大澤さんのデビューアルバム「まずいリズムでベルが鳴る」1曲目「e-Escape」から想起しました。
不思議な語感を持つタイトルと野性的な歌い方から、この物語が自分の中では一番ぴたりとはまると言うか、こういう無国籍な雰囲気が大澤さんの音楽にはあり、ある意味強く書こうと思った動機です。レコードで初めてこの曲を聴いた時、早いテンポで激しいのに非常に怠惰な印象を受けたのがとても面白かったです。