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体温

「郁ちゃん、お熱出た」
 子供のような言葉で連絡をして来たのは僕の恋人の郁子だ。
 軽い熱と風邪の症状があるため、かかりつけの病院に電話すると、来院はご遠慮下さい、とのことだった。現在、世界的に流行っている病のせいで少しでも似た症状を持つ患者は外来不可となっているらしい。行く場合は専門外来へ、と。
「でも症状に合わせたお薬は出せるから家族とかに取りに来てもらって下さいって」
 そこで一番身近な僕の出番となった。郁子は遠い田舎の実家から上京しているからだ。
「職場にはなんて?」
「あなたに言ったことをそのまま。2週間お休みになったよ」
「飯、食ってるか?」
「とりあえず簡単なものは作って食べてる。でももうすぐ食材切れそう。買い物に行こうと思ってた矢先だったから。2週間は外出を控えてって言われてるし」

 僕の頭はもう、行動の準備に取りかかっていた。
 まず、彼女の部屋に行く。非接触で保険証を受け取り僕が代わりに薬をもらって来る。その後で今必要な生活用品など郁子に頼まれた物と僕が勝手に見繕った物を届ける。郁子には安静にしてなよ、と言ってから電話を切った。

 病院で順番を待つ間、郁子とLINEで連絡を取り合っていた。
『ずっと不織布マスクつけてるし、アルコール消毒だってやってる。それでも1歳の子を少し抱っこしただけで風邪をもらっちゃうんだから、どんなに気をつけてても事故は起きるって話よね』
 体はしんどそうだが郁子の指はいつも饒舌だ。
『1歳の子?』
『従姉妹の子供。よく笑ってあたしに懐いてて可愛いの。それで抱っこしてたら、くしゃみ連発しちゃって。多分それが伝染ったの』
『その子は大丈夫なの?』
『高いお熱が出たけど、ぱっと治っちゃった』
 そんな話をしていたら呼ばれたのでスマホをポケットにしまった。

 僕と郁子が恋人になってから数年経つ。年数は憶えていない。
 僕がいる職場に後から郁子が入社して来た。その頃は職場の仲の良いメンバーとしょっちゅう飲み会をしていて、そこに郁子も加わって自然と仲良くなった。しかし郁子とはそれほど共通点がある訳じゃない。けれど話しているといつも楽しくて時間を忘れてしまう。どんなに小さな話題でもふたりだと盛り上がる。互いに違う趣味を持っているから知らない世界について教え合える。だから話も弾むし、より面白い。僕らの関係のメインは話をすることだ。多分それが僕らふたりの共通点で一番の趣味なんだと思う。それでも、指と指の会話より、直接互いの顔を見て話をするのが一番には変わりない。

 処方された薬はたくさんあった。昼と夜だけとか朝と夜だけとかの組み合わせの薬は、袋に書いていなければ頭がこんがらがりそうだ。僕は薬をリュックのポケットに入れ、薬局を出た。その後は食料を調達するためスーパーに赴いた。普段の郁子は自炊が好きだが、さすがに体がしんどい時は休ませたいので惣菜や冷凍食品、パンなどすぐに食べられるものを積極的に選んでカートに入れた。それと大事な水分。それから郁子が大好きなプリンも。僕はこういう細かい作業が割と得意だ。郁子と部屋で映画を観たりしている時もビールや肴を用意するのは郁子だが、それらを注いだり乗せたりする皿やグラスを用意するのは僕で、テーブルの上をさっと片付けるのも僕だ。ついでに郁子の唇の端についた食べこぼしなんかを拭いてあげるのも。

 もちろん、職場では互いに馴れ合いにならないよう気をつけているし、先ほどの郁子のような子供のような言葉遣いなどはしない。いや、普段からしないけれど、今の郁子は心細いのだろう。僕だって少しショックだった。どれだけ病が流行っていても周囲に罹った人間がいなかったから正直、ピンと来ていなかった。それがまさか急に恋人の身に降りかかるなんて。もちろん罹った訳じゃない。けれど似た症状があり疑いがあれば当然のように隔離を要求される。こんなことは初めてだった。

 自分で選んで部屋に居るのと、外出禁止で部屋に居なければならないのとでは全く違うし、何より閉塞感が強い。だから僕はなるべく郁子の体の負担にはならない程度に連絡を入れる。彼女の心が淋しさで覆われてしまわないように。

 2階建てアパートの郁子の部屋の前に着き、電話をかけた。
「ごめんね。ありがとう。そのまま置いてっていいよ。お金はあとでいいかな。レシート取っておいてね」
「いいよ。こんな時くらい気にするなよ」
「だめだよ。多分頼むのは今日だけじゃないんだから」
「判った」
 こういうやり取りが続いても疲れるからそう答えた。本当は受け取るつもりがなくても。互いのスマホを通話状態のままにして、買って来た食料が入ったレジ袋をドアの前に置いた。そのまま1階に続く階段に座って郁子がドアを開けて袋を持って部屋に戻り、ドアを閉める様子を耳から見守った。郁子は中身を確認すると驚きの声を上げた。
「うわ、すごい、こんな冷凍食品見たことない!」
「そこは一人暮らし歴の長い俺の勝ちだな」
「そんなに変わらないでしょ」
 そう言って笑った途端、郁子がむせてしまったので調子に乗ってしまったことを詫びた。
「今日は帰るけど、いつでも電話して来ていいからな」
「うん。ありがとう」
 頷いた声が小さくて何となく子猫の背中を思い浮かべた。

 僕は2週間の間、毎日退勤後、数時間だけ郁子に会いに行った。正確には、ドアの前の郁子に。最初は頼りないくらいか細い声だったが、体調が回復してくると退屈になって来たらしい。そして1週間も過ぎた辺りから自炊も復活し、僕の買い物の量も減って行った。もちろんレシートはとっくに捨ててしまった。

 いよいよ2週間目が明日に迫った。僕らはいつものように玄関越しに電話で話した。たまに大きな声になると郁子の肉声がドアから聞こえた。何度そのドアを開けてしまおうと思ったことだろう。そんな日々も明日で終わる。いつものように色んな話をして後ろ髪をひかれつつも帰ろうとした時、郁子はドアの横にある窓をコツコツ叩いて僕に知らせ、カーテンを思い切り開いた。2週間の間、何度かカーテンを開いて、とお願いしたが、顔がむくんでるから、とか、ぐちゃぐちゃの恰好だから、と理由をつけて断られていたのだ。
「化粧も何もしてないし、恥ずかしいんだけど」
 そう言って郁子が窓の前に立った。

 久しぶりに見る郁子の素顔は、血色も良く、唇には微笑みを浮かべていた。
「本当は化粧してお洒落もして、パーフェクト郁ちゃんで顔を見せたかったんだけど」
「今もある意味、パーフェクト郁ちゃんだよ。て言うかパーフェクト郁ちゃんてなんだよ」
 僕の言葉にも朗らかに笑い、もうむせたりもしない。
「運動もしないでただ食べて寝てたから少し太ったよ」
「太ることもきっと必要だったんだよ」
 僕らは互いに、このあときちんと手洗いしようね、と断ってからガラス越しに手のひらを合わせた。
「そう、必要なこと。栄養素が体中に行き渡れば、体も動かせるようになるし、そうすればまた体重も元に戻る。だからあたし少しの間、身ごもってたんだと思う」
「身ごもる?」
「うん。本当にじゃないよ」
 郁子が僕の質問を少し笑って言う。
「こうして休んでいる間にたくさんの『好き』や『感謝』を身ごもったから、治ったら君に放出するのだ」
 さすがに僕も笑った。何言ってるんだよ。ふと郁子の目が逸れて、互いの手を見つめた。やっと明日、この手に触れられる。

◆ ◇ ◆

こんにちは。二作目になります。今回のお話は「コロナかも知れない」と、つい先ほどまで一緒にいた友達から連絡を受け、結果が出るまで家で待機していたことから色々考えていたことを書きました。結果的に友達は風邪だったのですが、その間、その日どれだけの人に会っただろうかと頭の中で必死に考え、もしもコロナだった場合会った人みんなが濃厚接触者になってしまうんだ、と思い、気が遠くなりそうでした。

けれどその時の私はもちろん、友達が例えコロナに罹っていたとしたって悪くない。なぜならきちんと用心してマスクを着け、手洗いも消毒も徹底していたからだ。風邪だって引く人は引く。そこに「悪」は存在しない。存在するとすればそれはコロナや風邪そのものだろう。そんなことを考えた二週間でした。ここまで読んで下さってどうもありがとうございます。

幸坂かゆり

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