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能力と性

努力か非努力(才能、環境)かも、男女どちらが不遇なのかも、最も活発に議論されることだという印象がある。他のあらゆるテーマも可能性として存在するのに、なぜこの2つはかくも人々を焚きつけるのか。それは、それらがまさに私たちが有利に生きるのに必要な認識の根幹に関わる問題だからだろう。

私たちは、幸せになるためには自分の存在理由を確かめなければならない。幸せに生きようとする人は誰でも、自分を認め、安心し、自尊心や自己肯定感を獲得することで、程度の差はあれ幸福を達成している。

人がそのように自分の存在について確信を得ようとするとき、まず他者との相対的位置関係において自分を把握しようとする。その際に参照されるのは、自らが社会の中でどのレベルに位置するかということである。それには地位や学歴、職業などが含まれるだろう。どこに位置するかということを考えるには、どの程度が自分の能力によって達成したことなのかを定める必要がある。その際、自分が自分自身の手で勝ち取ったと考えているものと、そうではなく環境や非自己の要因によって、いわば「授与」されたものとの境界が問題になるが、多くの人はその基準を自己本位的に決めている(が、そのことには無自覚である)。それゆえに、異なる他者との異なる基準のせめぎ合いに直面したとき、私たちは必死に自己要因の正当性を訴え、安心しようとする。私たちが自身を他者から差異化する際、能力は間違いなく重要な指標の1つとなる。こういうわけで、自らのアイデンティティを揺るがし、存在論的不安を引き起こす可能性を排除するために、とかく能力について自分の見方を保持しようと、人々は躍起になる。

能力をもって自己の位置を特定し、アイデンティティを確保しようとするのと同様に、自分の属する社会的条件を良くすることもまた、人々にとって有利に生きるための重要な手段である。性は生まれ持ったもので、通例、生涯変えずにその下で生きていくことになるものだ。その分、学歴や職業や貧富といったものよりも永続的で根が深い。切っても切り離せないこの条件は、だから、有利に生きるうえで重要な指標となる。そのため、同性についての不利益を訴えたり、異性についての利益を不当なものとして是正しようとしたりするのだ。性に関しての語りは、たとえそれが理念的平等を目指しているように見えたとしても、多くの場合は自分の利益拡大要求か不利益縮小要求かのどちらかである。そしてそれはどちらも自分に有利なゲーム展開を企図するという点で一貫している。しかし、本当に「客観的な」平等など誰にもわかりはしないし、ともすれば私たちの手にしている自由が平等と衝突するということもありうるだろう。それに、正直に自分だけを優先しますと言って「自己中」と捉えられるわけにはいかない。そこで、人は(先の能力の話と同様)またしてもその境界の曖昧さにつけ込んで、より直接的に利益追求を行おうとする。同じような目標を共有して似たような利害関係にある場合はよいが、自分の利害と反するような他者に出会うと、それを否定して自分の側の正当性を証明しないことには条件の向上は望めないから、そのことに汲々とする。

つまり、能力も性も、それについての言説は、自らが都合よく、有利に、楽に生きていくための闘争である。能力はアイデンティティの担保、性は社会的条件の向上を通じて、戦略的に生きる糧となる。

そして、能力では「自分が無能でないことの確証」が、性では「自分が他者よりも社会的に優位に立つこと」が賭け金となって参加者はゲームを行う。基準の違う他者と争うとき、本来的には自分にも相手にも絶対性がないために、自分の主張をあらゆる形で武装させることができる。ゲームに負けると、アイデンティティが脅かされたり、仕事や恋愛で不利になったりしてしまうから、皆必死に「勝者」になろうと言説と活動を生産し続ける。人は、自分が納得する主張を通していくことで、生きやすい世界に生きることができる。この闘争の恣意性を一歩メタに理解しない限り、自らもその四苦八苦する渦に巻き込まれてしまう。

本でも買って知恵にします。