21. 少年は祖母とともに島を訪れる。〈完結〉
さざ波。
無人島に小さなボートが近づいてきていた。
乗っているのは隣の島で漁師をしている運転手を除けば、ふたり。
ひとりは少年。ここに辿り着くまで「しぶしぶ連れてこられた」という態度で通そうとしていたが、眼前に鬱蒼と茂った緑の島(テレビでしか見たことのないような「大自然」)が見えてきて、言い知れぬ興奮が顔にあらわれていた。
はやる好奇心を抑えきれず、早々とボートからおりると、それに続いて老婆がひとり重い腰をのろのろとあげた。少し色の黒い肌にはシワが小刻みに寄っている。笑うとその筋が深まった。
一時間したら迎えに来るよう頼むと、ボートは静かに去っていく。
「ばあちゃん、ホントにこんなところにいるの?」
少年は早口に話しかけた。辺りを覆う砂やジャングルの緑に目が離せないようで首をせわしなく動かしている。
「さあ、どうかしらねぇ」
いたずらっぽく微笑む老婆。
ちょっとした崖の上に小屋がある。
島の地形を確かめるようにゆっくりと動き回っていた老婆の目がそこでぴたりと止まった。
小屋に辿り着くまでそれほど時間はかからなかった。
老婆はその小屋のそばにひとかたまりの石がドンと無造作に置かれているのを見つけた。
辺りは非常に静かで、波の音も、木々のざわめきさえも遠い。
石に歩み寄ると、老婆は膝に手をついて少し屈んだ。
少年は虫を追いかけているのか、地面を睨みつけては狙いを定めて両手で飛びつくということを繰り返していた。
シワの深いやさしい目からしばらくの間、石に視線が注がれる。
まるで眠っているかのような、穏やかな白さだった。
「大作」
口を遠慮気味に開いて、ささやいた。
石は丸くなったまま何も言わない。
老婆はニコッと笑った。
まるで少女のような、屈託のない、無邪気さに溢れていた。
「なに? ばあちゃん」
後ろから少年の声。
「あら、やだ。違うのよ、あなたのことを呼んだんじゃないの」
「あ、そう」
少年はそう言ったきり、もう石にも祖母にも関心はなさそうで、足元の土を履きつぶして汚れたスニーカーで掘り返したり、浜辺に打ち寄せる波を見下ろしたりしていた。
繰り返される周期的なざわめきが、崖の上では柔らかな響きに聞こえる。よく晴れていたので、打ち上げられて泡立って白くなるのがハッキリ見える。風も温かい。
「ウソつき」
老婆は、石に話しかけた。
「わたし、必死になって勉強したのよ? 大作。けど、あれ、ウソだったんでしょ。ふふ。わたし、時々感じるのよ、あなたから言葉が送られてくるの。今でもよ、もちろん。あなた、きっとまだ泉にいて、わたしに言葉を送ってくれてるんでしょ? 分かってるんだから。あなたから言葉が送られてくると、スゴくやさしい気持ちになれるの。どんな時もよ。だから、わたし、うれしくって、けど、悲しくもあった。だって、もうあなたの声が聞けないんじゃないかって、もう会うことなんかないんじゃないかって、そう思うと、スゴく寂しくなるの。今でもそうよ」
老婆はそこで一呼吸おいた。
「覚えてる? ペンギンのこと。あのペンギンがね、時々夢に出てくるの。眼鏡をかけた男と一緒によ。それで、ふたりで何してると思う・・・? スゴくキレイな女の人と男の人に、何度も何度も頭をさげて謝ってるの。あんまり謝るもんだから、向こうのふたりも困ってて、わたしも助けてあげたいんだけど、なぜかわたし、その夢を見る時いつも赤ん坊なの。身動きひとつ取れなくて、ずっと見てるしかないの。あのペンギン、いつか絶対に懲らしめなきゃって思ってるんだけれど・・・」
「ばあちゃん」
少年の声。退屈そうに体を揺らしていた。
「ん? なに?」
「なんなの、その石」
「さあねぇ。分かんないわ」
「分かんないのに話しかけてたの?」
「分かんないけどねぇ、何か、ある気がするのよ」
「なにが?」
「何か、言わなきゃいけないこと」
「ふぅん・・・」
「あ、そうよ、大作」
「なに?」
「ああ、違うの。そっちの大作じゃなくて、こっちの大作」
老婆が石を指差すと、少年は少し心配そうな面持ちで首を傾げた。
「・・・ふふ、ゴメンナサイね」
まったく悪びれた様子もなく、老婆は言った。
「もうちょっと、もうちょっとだけだから」
少年は、先ほどから視界に飛び込んでくる虫を鬱陶しそうに何度も手で払っていた。
「・・・大作」
老婆は呼びかけ、目を閉じた。
まるで石の声を聞き取ろうとしているかのようだった。
顔全体に帯びたその笑みはひたすらに柔らかかった。
老婆は目をあけると空を仰いだ。
空は淡く青い。雲の白さがそれをさらに強調する。雲の動きは厳かで、絶えずうねっていた。
ニッと笑ったとき、その表情は少女そのものだった。
「おやすみ」
一瞬、海の音が消えた。
風がやんだ。
雲の流れが静止した。
しかしすべてが一瞬のことで、島はすぐにまた運動を取り戻した。
その後もしばらく彼女は石を見つめていたが、やがて孫の呼ぶ声がした。
「ばあちゃん! ボート、戻ってきたよ!」
「あら、早いわね。もう・・・?」
孫に手を引かれながら、老婆は浜へとおりていった。
「イヌ、どこにもいなかったね」
歩きながら孫が言う。
「そうね、残念だったわ。けど、きっと隠れてただけで、どこかにいるんだと思うの、おばあちゃんは」
「ふ~ん」
もはや孫にはこの島に用などなさそうだった。
ボートが島から出ていく。
崖の上の白い石は丸くなったまま、眠りのなかに身をゆだねていた。
〈了〉
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