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なぜアウトサイダーミュージックを「下手な音楽」としかおもえないひとがいるのか?

先日Twitterで

というツイートをみて、じぶんなりに考えたことを以下にまとめます。

まずこれは主なトピックとしては規範(canon)の話ということになるのかなーとおもったのですが、規範ってそもそも何なのか、じぶんではうまく説明できそうになかったので、とりあえず強そうな辞典を引きました。

①手本。模範。法式。
②(ドイツNormの訳語)哲学で、判断・評価・行為などの基準となるもの。思考・意志・感情などが、真・善・美という目的に達するために、その行為の原理や法則となるもの。
(『日本国語大辞典』より)

この「真・善・美という目的に達するために、その行為の原理や法則となるもの」ってところが個人的にミソだとおもうんですが、まあとにかく物事を判断するときの基準ですよね。

音楽に寄せて話をすると、たとえば楽器演奏をするひとが良い演奏をしようとおもうなら、全神経を演奏に集中させないといけません。演奏の最中に判断に迷うようなことがあれば、途端に音を間違えてしまい、最悪の場合は演奏が止まってしまうなんていう大事故も起こしかねません。それは絶対に避けないといけないので、そもそも「上手い演奏」とはどういう状態なのか、あらかじめお手本とか目指すべきゴールを設定して練習する必要があります。具体的に言うと指がもたつかないとか、ピッチがズレないとか、強弱やニュアンスが適切に表現できてるとか、「上手い演奏」の条件がいろいろあるはずです。こうした条件が包括されたものが規範だとおもってください。これを参考にトレーニングを積んでいくとだんだんとそのお手本がじぶんのなかに染み渡っていき、何も考えずとも自然に体が動くようになります。こうしてある規範が内面化されます。

ところが、これにはデメリットがあって、多くの場合、こうして訓練の末に手に入れた規範のせいで、その規範にそぐわないものを受け入れにくくなってしまうんですね。たとえばアカデミックな音楽の聴き方を身に付けてしまったひとは、音楽をリズムとメロディとハーモニーの3つに分けて聴く傾向があります。とくにクラシック音楽ではそれを意識して複雑に作られた作品がたくさんあります。もちろんポップスでもドラムからビート、ボーカルからメロディ、ギターとベースからコードを聴きとっているひとは多いでしょう。作る側がそうしたアカデミックな前提に立って作っていますし、学校で教わる音楽もそうした西洋的なものが多いですから、自然とそうした聴き方が一般的になりがちです。

ところが、こうした聴き方をしているとたとえばアフリカのある民族音楽は「単純すぎる」ようにきこえるかもしれません。日本の伝統的な音楽を「単調で退屈」と感じるひとも出てくるでしょう。しかし、それぞれの音楽には歴史があって、然るべき聴き方というものがあるはずです。そう、つまり規範ですね(とはいえ音楽は古来より踊りや遊びといった他の要素と切り離すことができないもので、純粋に音楽だけを楽しむという文化は近代西洋で生まれたものでしょう。これについてはまた別の機会に話してみたいものですが)。

この世のなかにはたくさんの音楽の聴き方、音楽にまつわる規範が存在します。そして個人的にはこれがいちばん重要なことだと考えているのですが、それぞれの規範は相互に乗り換え自由です。つまり、もしじぶんが身につけた音楽の聴き方ではじゅうぶんに楽しめない(たとえばどう頑張って聴いても下手な演奏にしか聞こえないとか)音楽があったとしたら、その音楽が楽しめる規範へと乗り換えたらいいわけです。もちろん、簡単に乗り換えられるものではないかもしれません。それぞれの音楽にはそれぞれの歴史があり、それを楽しむひとたちが多数存在するからです。なかなか難しいことではありますが、じぶんとは違う音楽の聴き方をしているひとに出会ったら、「そんなのは音楽じゃない」と頑なに否定するよりもまずは話をきいてみるのも悪くないでしょう。案外たのしいことがわかるかもしれませんからね。

まとめに入ります。アウトサイダーミュージックを「ただの下手な演奏」としかきくことができないひとがいるのはなぜなのか。それは彼らがそれまでに身につけてきた(音楽とはこういうふうに聴くべきものという)規範が染み付いているからでした。

最後に個人的な意見なんですが、たいていのひとにとって音楽の聴き方なんて学校で教わった聴き方+αの域を出ないものなので、アウトサイダーミュージックなんて受け入れられなくても仕方ないとおもいます。その悲しみを胸に秘めながら、それでも愛すべきものを日々愛していきましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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