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19. イヌは主人とその娘、そして少女に囲まれて幸せに暮らす。

「大作!」

海辺に寝そべる白い犬に声がかかる。眠そうに振り返った。

「なんじゃ?」

「はは、大作、年取ったな!」

そこには車椅子に乗った白髪頭の主人と、それを押す黒髪の女性。その側に、チロが日に焼けた肌を輝かせていた。

「そうゆう主人だって・・・」

ふふと大作は笑った。

「大作、ありがとう。チロを守ってくれて」

女が歩み寄ってきて、大作のアゴを撫でた。

化粧が少しばかり生っぽく匂った。

「・・・その化粧、ちょっと濃くないか?」

顔を渋くする大作に、もう! と言ってふくれてみせる。その後ろからチロが顔を覗かせた。

「大作!」

ニコッと笑う。屈託のない笑顔。

大作は心穏やかになった。

海に太陽が沈みかけていた。真っ赤である。波の上で光が踊っている。

「・・・これからは、みんな一緒に暮らせるんじゃな?」

大作は確認するように聞いた。

「もちろんだ」

「もちろん」

「とーぜん!」

それぞれ答える。大作は安心した。

日が沈んでから、焚き火を囲った。

大作は炎を見つめながら、しばらくボーっとしていたが、ふと思い出したようにしゃべり出した。

「二十四人の女と二十五回結婚した男の話を知ってるか?」

「知らないな」「知らない」「しらなーい」

「あるところにとても深く愛し合っていた男と女がいた。もちろん結婚し、ふたりは幸せに暮らしていた。いつまでも一緒にいようと約束してもいたんじゃ」

周囲が静かに頷いた。弾けるような笑顔はなく、冷静に、よく考え抜かれた表情が、浮かんでいた。

「しかし、ふたりは別れてしまった。些細なことで起こった喧嘩だったのだが、ふたりとも意地を張ってしまったんじゃ。女は外国に移り住み、男は別の女と結婚してしまった。男はその後もどんどん嫁を変え、国での評判もガタガタに落ちた。女は女で、二度と結婚なんかしないと誓って、ひとりで生きていった」

ほぉ・・・と、どこからか息が漏れる。

「・・・時は流れて、男は二十四人目の女と別れた。疲れ果てた男は、もう人生を終わらせようと思って川へ身を投げた。ところが、幸か不幸か助かってしまった。病院へ送られた後、男は施設に入れられた。溺れたのが原因で、それまでの記憶がなくなってしまったのだ。施設にはいろんな人がいた。むやみに人を殴る者、ひたすら叫ぶ者、延々と紙に黒い線を引き続ける者、ロビーにあるピアノから離れようとしない者、黒いタイルの上しか歩きたがらない者・・・その中に、窓辺に座った美しい老婆を、男は見つけた。彼女は典型的な痴呆症だった。いつも物静かに、窓の外を眺めていたが、自分が誰なのかも分かってなかった。なぜか男はその老婆が気になった。もっとも、単に美しかったから、なのかもしれないが」

少し風吹いているのか、チロの髪が微かに揺れていた。

「それで?」と、主人が促した。

「・・・ふたりは施設の中で小さな式を挙げた。遠い昔に愛し合ってたなんて思いもせずに。そして、幸せに死んだ」

話し終えると「ふぅん」と女は頷き、主人は感慨深そうにしていた。

チロだけが、「え~」と漏らした。

「チロ、何が不満なんじゃ?」大作が聞く。

「だって、死んだのに、なんで幸せなんだ?」

ふふふと女が微笑んだ。

「チロ、大好きな人と一緒に死ねたら、素敵だと思わない?」

「ん~・・・」

チロは腕を組んで、首を傾けた。分からない時のポーズである。

「たとえば、」と主人が車椅子の上からチロに言った。「大作と一緒に死ぬんだったら、悲しくないだろ?」

そう言われたチロは大きく頷いて、「大作といたら、寂しくない!」その場にいる全員が自然、笑顔になった。

チロと女が寝てしまうと、大作と主人がふたりで向き合って談笑していた。

「・・・おれがお前の脳に電気を流した時、大作、スゴい声で鳴いてたよな!」

「今だったら動物愛護法に引っかかってますよ」

「色んなことを試したけど、お前はなかなかしゃべらなかった」

「そうですね」

「・・・あれ? そういえばお前、いつからしゃべれるようになったんだ?」

「おや、そういえば・・・いつからでしたっけ・・・?」

「ん? おかしいな、思い出せない・・・。娘が生まれてからか」

「ああ、そんな気がします」

「・・・ん? しかし、いつ生まれたんだ?」

「さて・・・あれ、思い出せませんね」

「そもそも、おれに娘なんていたのか?」

「ちょっとちょっと、それじゃ、あそこで寝てる女性は誰なんですか」

大作が笑った。

「・・・うん、そうだな。あれはおれの娘だ。だいぶ酔ってるみたいだよ。ハハ、ハハハ」

「そうですよ、主人。娘がいなかったら、チロだって存在しないことになっちゃいますよ」

「ん? チロ・・・は、おれの何に当たるんだっけ?」

「孫ですよ、孫。当たり前じゃありませんか」

「あー、そうかそうか。そうだよな、当たり前だよな。ハハハ」

ひとしきり笑うと、沈黙が生まれた。

波の音がやけに大きかったが、風はなかった。

「・・・」

「なあ、大作・・・」

「はい?」

「いつまで続けるんだ? こんな茶番」

主人が頬杖をついた。

「お前は、自分でひとりになることを決めたんじゃなかったのか? なんでまだこんなことやってるんだよ。大人しく泉から言葉を吸い取られてればいいじゃないか」

「・・・」

大作は何も言わない。

「結局、お前は覚悟ができてなかったんだよ、大作。チロと離れて暮らすなんて、お前には考えられなかったんだ。確かに名案だと思ったよ、自分が言葉の源泉になって、チロに言葉を送る。そうすりゃ、チロは消えないで済むどころか、もっと言葉を得ることができる。ま、そりゃそうか。もとはと言えば、お前がチロから言葉を奪ってたんだもんな。なあ? 大作」

「黙れっ・・・!」

大作が激しく怒鳴った。

「おいおい、主人に向かって黙れとは・・・」

「お前は主人などではない! わしが作り出したニセモノに過ぎん! わしに、わしにとっては、チロを守ることだけが重要だったんじゃ。自らの使命とさえ思っていた。なぜだと思う? 主人からそう頼まれたからじゃ。お前ではない、本物の主人からな! しかし、チロを守るとゆうのはもちろん、あの無人島にチロを閉じ込めておくことではなかった。そうではなくて、いつか、あの島から出ることがあっても立派に生きていけるような、強い女に育てること、それがチロを本当に守ることになると、わしは信じていた。だからチロが疑問に思ったことには丁寧に、理解できるまで説明しようと思った。生きるのに必要なことは全て教えようと思った。しかし結果的には、わしは・・・」

「チロから言葉をもらって、それをチロに返すとゆうことしかしてなかった、だろ? 言葉は、お前とチロとの間をグルグル回ってるだけだったわけだ。お前がいる限り、チロは強くなれない。お前がチロから言葉を吸い取るパラサイトなんだからな」

「・・・っ! う、うぅ、うぉおおあっ!」

何も言い返すことが出来なかった代わりに、大作は車椅子に座った主人の首筋に噛みついた。

血が吹き出たかと思うと、砂のようにサラサラと崩れて、主人の姿は跡形もなく消えた。

続いて大作は寝ている女に襲い掛かった。

肉を貪るように噛み千切った。

女は悲鳴を上げたが、すぐに粉のように大気に紛れた。

大作の目にチロの寝顔が映った。

罪のない顔をしているが、これだってニセモノだ。

お前が、自分で作ったんじゃないか。

大作は自分に言い聞かせた。

この海辺だって、向こうに見えるジャングルだって、小高いところに建ってる小屋だって、全部、お前が作り出したものだよ、大作。見事じゃないか、お前の想像力だ。やっぱりただのイヌじゃないよ、お前は。言葉を覚えるくらいだったら、他の動物にも出来るかもしれない。けど、世界を生み出せたのは、動物史上、お前が初めてなんじゃないか、大作。ほら、もっと誇れよ。素晴らしいよ、細部まで実に忠実な景色だ。本物みたいだ。できるならずっと住んでいたい。そう思わせてくれる。人間にだってなかなかできることじゃない。大作さま、さあ、どんどん世界を広げましょう。海の向こうには何があるんですか? チロと一緒に行こうじゃありませんか。知らない世界へ。お前の大好きなチロとふたりで、どこへでも行けばいい。ま、ただし、そのチロはニセモノだけどな。

バキッ。

と音を立てて、チロの頭蓋を噛み砕いた。

と同時に、その体が砂浜の中へと溶けていった。

もはや何もない。

「うう、ううぅ・・・! チロ、チロォ・・・!」

大作は、ひとりで泣いた。

いつの間にか海の向こうから、夜が明るみ始めようとしていた。

「ひとりで何やってんだよ」

大作が顔を上げると、主人が立っていた。

その後ろには隠れるようにコロッセウムが口を開けている。

波の音が浅くなった。

「・・・わたしは、間違ってたのでしょうか」

潤んだ瞳に主人の穏やかな表情が映る。

「間違ってなんかないさ。全部、初めから決まってたことなんだよ」

「いったいここはどこなんですか?」

「知らないでずっといたのか?」

主人が驚いたように笑った。

「待合室さ、源泉になるための」

「言葉の源泉・・・」

主人はコロッセウムを指さして「これが入り口だよ、大作」

大作は厳しく口を横に引いていた。その「入り口」は内と外を断絶したように深く暗い。

「わたしが源泉になれば、チロは消えずに済むんですよね」

「まあ、もう二度と会えなくなるだろうけどな」

「構いません、あの子さえ生きててくれれば・・・」

主人が吹き出した。

「お前、役者になった方がいいんじゃないか?」

大作は苦笑した。

太陽は沈み切ったにもかかわらず、依然として主人の顔もコロッセウムもはっきり見えた。

暗闇に浮き上がるというのではなく、むしろ暗闇自体が照らしているような、不思議な明るさであった。

「・・・けど」

主人は声を低くした。

「お前は構わなくても、チロは必ず傷つく。あいつはホントにお前が好きなんだから」

「では、まさに離れ離れってやつですね」

今度は大作が鼻で笑った。その表情にはどこか余裕があった。自分を投げやったことで生まれる余裕だった。

「大作・・・」

と主人は困ったように言う。

「お前がいなくなったら、あの子はどうするんだよ」

「イカダくらいは作れます、教えましたから。島から出れば誰かが拾ってくれますよ」

「いくらなんでも無責任すぎるだろ」

主人が怒鳴った。

「わたしは」

その声を制すように、大作は声を強めた。

「あの子がひとりでも生きていけるように育ててきたつもりです」

「じゃあ、ひとりで死ねるようにも育てたわけだ」

「・・・」

一瞬、言葉に詰まった。

「家族が、家族ができるはずです」

「そうか」

と言ったきり、主人は口を閉ざして、浜辺に腰を下ろした。

大作はだんだん自分の中に不安がこみ上げてくるのを感じて、目を伏せた。

波の音が耳についた。やけに細かく、ささやくように打ち寄せる。

「・・・言葉を全部伝え切れば、わたしは生まれ変われる、そうでしょう?」

「まあ、そうだな」

「じゃあ、それまでの辛抱、ですよね」

「まったく、素直じゃないなぁ、お前は」

主人は大作をこまねいて頭を撫でた。

「・・・もっとも、チロが生きてる間に言葉を伝えきれるのかってことだよな」

「何がです?」

大作の表情がくもる。

「問題だよ。お前の持ってる言葉ってそんなに少ないのかって話さ」

「し、しかし、わたしの言葉はもともとチロが持ってたものですし、それに、わたしはこれまでずっと島で・・・」

「そうゆうことじゃないんだよ、大作。チロがどれだけ言葉を覚えてるのかってことはそんなに重要じゃないんだ。お前が島でやってたのは、単に言葉を共有することでしかないんだよ。お前の中に言葉が残ってちゃダメなんだ」

「つまり・・・わたしの中から、言葉が消えないといけないということですか」

「ま、そうゆうことだね」

「そう、ですか・・・」

よっと短い声を発して主人は立ち上がった。

改めて腕をコロッセウムの入り口に差し伸ばす。

「大作、世界はな、お話のようにうまくできちゃいないんだよ」

「・・・チロは、どうなるんでしょうか」

大作は不安げな表情を向けた。

主人は、しかし、それには答えず、ニコッと笑って大作の頭を撫でた。

「主人」と目を閉じながら大作。

「ん?」

「ゆっくり、休まれて下さいね」

「はは、お前もな」

大作の体が主人の手から離れ、深い黒に吸い込まれていった。

入り口はその白い尻尾まで飲み込むのを待っていたが、やがて溶けるようにして消えた。

コロッセウムの古びた表面だけが残った。

次の瞬間、壁面に一筋の切れ目が入った。

それは瞬く間に広がり、枝分かれし、ピシピシと音を立てたが、やがて静止した。

沈黙が四方に糸を張りめぐらせているかのように思えた。

主人はしばらく立ってそれを眺めていたが、すっと壁に歩み寄ると指先でその亀裂に触れた。

崩れた。

やさしく、何かを包み込むように。

そうして主人は浜辺の音が静かに残ったのをしばらく聞いていた。

いつの間にか、星ひとつない空に、夜が静かに深まっていた。

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