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見えない距離。叔父の姿を探す調査行

地方の集落や住宅の白黒写真が続く。時に鉄道やバスのイメージも挟まる。日本の町から町へと旅している感覚に囚われる。そしてそこには人がほとんどいない。無色の世界をあてどなく移動していくような感がある。

『Looking for my Japanese family』は、ジュリー=マリー・ドゥロが母から知らされたある事実がきっかけとなっている。生前一度も会うことがなかった祖父に、行方不明の息子がいるというのである。ドゥロにとっては叔父にあたる人物だ。

ドゥロは年齢、住所だけでなく名前すら分からないこの叔父を探すことにした。その3年余りの軌跡がこの写真集である。

Julie-Marie Duro『Looking for my Japanese family』

最初に目を引くのは白黒の写真群である。町から町への旅ながら、アメリカのロードトリップ写真とは異なり詩情が感じ取れない。人の気配はなく、動物もおらず、家々の扉は閉ざされている。正面から画面いっぱいに撮ったカットの多さは、採集・調査のような印象を受ける。そしてそのような写真群から漂うどことなく閉鎖的な空気は、地域のコミュニティが消滅し、核家族や単身世帯の増えた現在の日本の姿そのものと繋がっているかのようである。

一方、カラーの写真群はまた違う空気感が漂う。家族やルーツを想起させるような枝葉や木の根。花咲く城趾と思しき場所での一枚。そして無人の夜の住宅街や公園が、静かに感情を湛えているように見える。後半の「今日秋」のパートにかけてその想いは祈りへと変わりながら、旅の終わりへと向かう。異なる要素が絡み合う展開は、足跡と心象の両面から撮影者の行程を追っていくような感覚を抱かせる。

Julie-Marie Duro『Looking for my Japanese family』

作者の行程を追っていく写真集で想い起こす作品としてはソフィ・カルの『Suite Venetienne(*1)』がある。モノクロの写真群が醸し出すミステリアスな雰囲気、撮影者の追跡行を追体験していくようなフロー。挟まれる地図のようなカット、時折現れる画面を細かく分割したレイアウト。ソフィ・カルは序盤からテキストが多くを語り、ドゥロの方は異なったタイプの写真を交差させながら進んでいくという違いはあるが、どちらも読者を先へ先へと誘導していく力がある。

とはいえ決定的に異なるものもある。ソフィ・カルはゆく先々に人の気配が漂う。追跡対象となる男性の存在だけでなく、道行く歩行者や店先、カフェの中に人の気配が溢れ、扉や窓は往々にして開かれている。ドゥロの本作では、家や町は見るものに開かれておらず、特に前半の「I am a cloud」ではほとんどの写真において人はいない。さらにはドラマのあるソフィ・カルと比べて、取っ掛かりのつかめないドゥロの追跡行は足跡に心象に、そして調査にと行き来しながら掴みどころないふわふわとした展開を見せる。

相手との距離が見えないゆえの掴みどころのなさ、そしてその掴みどころのなさゆえに入り混じる様々な要素を、そのまま詰め込んで形にしたところが本作の魅力である。

繰り返し本作を見ていると、初見で目を引いた白黒写真よりも心象を描くようなカラーの写真が目に留まってくる。花咲く城趾に佇む2人は、無味乾燥な旅を続ける中でドゥロ自身が思い描いた叔父との邂逅への願いだった。その願いを抱えながら、ドゥロは見えない叔父の姿を探す調査行へと向かい続けた。

白黒写真に時折挟み込まれるカラー写真、そして新聞の切り抜きや調査資料、家族のアルバムを思わせるファウンド・フォトやインスタグラム風のカットも交えながら、「I am a cloud」と「Today, Autumn」(今日秋)の2部構成となった写真は350ページにも及ぶ。本の厚みは、静かさに秘められた思いの強さを物語っている。

*1: 日本語版である「ヴェネツィア組曲」が野崎歓 訳『本当の話』平凡社, 1999 に収録

写真集レビュー④
Julie-Marie Duro『Looking for my Japanese family』(2019)
文 ヨシモト ヨウイチ

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