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エッセイ:和をもってエシカルと恩返しの物語

エシカルは、倫理と倫理学の両方の意味があるらしい。倫理学は、ある倫理がもっともかどうか疑ったりもする。敵ではないが、厳しい師匠のような存在かもしれない。

しかし僕は倫理学が不得意だ。でも環境問題を考えようとするのなら避けて通れない。僕は、倫理学の本を1冊読むのに2〜3ヶ月かかる。ゆえに、こんなややこしいことを学ばずに環境問題を軽々しく語るなんて、、まあいいけど、正体わかるよね。(軽々しく語っちゃうのって問題そのものではないのか?自分にも返ってくるのでやめておこう。)

ただ僕は、、倫理学を学んだ結果、環境のためにどうしたらいいのかが感じられたのではなく、倫理学に首を傾げてしまったのだ。

リベラル代表、ジョン・ロールズの契約説も、現在スタンダードかもしれない功利主義も、なにかおかしいと思ってしまったのだ。


環境問題で問題になるのが、世代間の問題。生態系ばっかりいうけど自分はどうなんだってことの方が先だし重く真剣なはずだ。未来世代のことを考えに含めなければならない。勝手な説得とかやることやったとか納得して「心配無用」とかいう風潮になって僕らが安心しても、100年後の心配がなくなったとはならないだろう。騒ぎはなくなっても問題は消えていない。

心配しろとか神経質にとか真面目にやれとかいう話ではなく、論理の内容が欠けているとか無駄に無駄があるとか原因はわからないけど、なにかおかしい気がすると。

未来世代とは、子供達や若者のことではなく、今いる人たちが全員いなくなった時の人類で、僕も君もいなくなった後の問題なのだ。よく耳にするような「子供達」というのは具体的で捉えやすいが、もっと長い期間の話がもっと難しいのだ。つまり結果のフィードバックがもらえない。おっけいもらえない。現役時代にこうやったけどどうですか?と結果を知ることができない。


いくつかの有力な立場がある。どれもなにかしっくりこなかった。元々僕は、あまり功利主義に共感しないらしいが、他の話でも、ピンとこなかった。

責任原理も、対話も、サンデルで有名な共同体主義も、ケアの倫理も、話の中にいる時にはなるほどと思っているのだけれども、後日になってみると、なにか違和感が湧いてしまう。


地方について考えているときに、ポストモダン人の問題と重なって、日本の世代間倫理があったと気がついた。「ご先祖様の顔が」みたいなことは、僕が子供の頃のお年寄りにはまだ残っていたのを思い出した。これだよね、世代間がとかってごちゃごちゃ言っているの。

先祖が残した災害碑を、受け継いでいくのかパスしちゃうのかみたいな態度。こういうところでしょ、未来世代への考えを扱うとか時間をこえる倫理ってのは。逆に言ったら合理化第一なのがだめでしょ。そこまで絞り込まなくてもと思うよ。これが答えだ!って一択になるのはもうやめて。

半分合理みたいな薄さでいいみたいなので、だから功利主義に納得いかなかったのだと思う。幸福がというより、「私はご先祖様になりたい」という方がマトに近いと思う。

方法とかシステムがとかではないので、途方に暮れてしまう。人生観だとかそういったものだ。こんな僕の話なんか、「ばーかばーか」の一言でも蹴散らされる。そんな場にいたらそこそこみんな、しょぼい話だなとパスしてしまうでしょう。

なので僕は今、昔話の語り部みたいなこともやってみるか、と思っている。今は。一応これもそれのつもり。

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