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【変身】フランツ・カフカ【いつからか私は「虫けら」だった】

■著者紹介

■あらすじ

主人公の男グレゴールは、ある朝目覚めると巨大な虫になっていた。
この物語は虫になった男とその家族の物語である。家族は最初こそ世話をしてくれていたが、だんだんと負担になり煙たがられていく。

 この『変身』という物語——原作にしろ映画にしろ——なぜ急に「虫」になったかは語られない。アメコミヒーローのように「虫」の力を得て悪と戦うなんてこともない。ただ「虫になった男と家族の日常」を描いている。
映画はほとんどが部屋の中で展開されるし、登場人物も限られる。
 この物語は、「男が突然虫になってしまった話」ではない。
「虫」というものになってしまった男の疎外感と孤独感、そして
疎外する側の心情という大きく見ればただの人間ドラマに過ぎない。

原作の方では翻訳について書いておきたい。
カフカの『変身』の新訳を出した京都大学准教授である川島隆氏の翻訳ではかなり芯をくった訳がなされている。
今までは原著にある【Ungeziefer】を「毒虫」と訳すことが多かった。
しかし、川島隆さんの翻訳では「虫けら」とされている。
この話はNHK Eテレの「100分 de 名著」の中で伊集院光氏と川島隆氏によって語れた話だそうだ。
主人公グレゴールの「自分は世の中にとってなんにも役に立たないもの、何の価値もないものなんだ」という気持ちを的確に表していると思う。

▼川島 隆 (翻訳)

■「虫けら」と社会不適合者の関連性

・社会不適合者の気持ちと末路

この物語はまさに社会不適合者のバイブルのひとつといっても過言ではないだろう。なぜならば、社会不適合者は社会にとっての「虫けら」であるからだ。この物語は「虫けら」になったグレゴールの視点から描かれている。

家族がだんだんと「虫けら」になったグレゴールを負担に思い始めるシーンは社会不適合者には思い当たる節があるのではないか。
家族、友人、職場の同僚などおそらく負担という言葉ではないにしても、
煙たがられていく様を感じ取ったことがあるだろう。

“自分は世の中にとってなんにも役に立たないもの、何の価値もない”
そう感じたこともあるはずだ。

さらに、主人公グレゴールは「虫けら」になってからどんどん自分が人間であったことを忘れていくような描写がある。
「虫けら」としてのスタイルが定着していくのだ。

まさに社会不適合者の誕生と共通する部分がある。
おそらくこの世に生まれ、活動をしていく初期はまだ社会に適合も不適合もないのだ。ただ、月日が経ち置かれている環境において形成される自己が社会とそぐわなくなってしまい“不適合”となるのだ。
そうしていくうちに、社会に適合とされる人間たちが「虫けら」であるということを丁寧に教えてくれる。初期の頃の社会に適合も不適合もない状態を忘れ、「虫けら」は「虫けら」であることを受け入れるのだ。

この物語の最後に主人公グレゴールは死んでしまう。
「虫けら」としての生涯を「虫けら」らしく終えるのだ。

はたしてこれは正しいのか?
「虫けら」は迷惑ばかりで生きている価値も尊厳も持ちえないのか?

・いつからか私は「虫けら」だった

私は社会不適合者だ。他者や集団からは疎外され続けてきた。
何か違う、どこか違うということで、認められることはなかった。
———もちろん今でもそうだ——
私は、社会不適合者であることで大切なものを失った。
大切なものをいつのまにか傷つけて負担を強いているばかりであった。
私はいつしか「虫けら」になっていたのだ。

私には友人がいない。
昔はいたが、今はもういない。そういうことを考えれば、「虫けら」である私はおそらくその友人たちにも何か負担やなにかを与えていたからいなくなったのではないか。

息絶えることができない私は、罪悪感と後悔と責任と不安と寂しさを抱えたままこの地獄で生きるしかない。
この気持ちは時間が経てば消えるものなのか、誰か寄り添ってくれる誰かがいてくれるようになれば消えるものなのか。
それはわからない。
ただ今は押しつぶされそうな気持ちを抑えるために生きているようなものだ。私は社会不適合者だ。
この社会には不必要な何の役にも立たない「虫けら」だ。





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