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ポストヒューマニティーズとはなんぞや⑨

今回は、ポストヒューマニティーズの中でも特に「実在論的転回」に含まれる考え方を詳しく見ていく。

実在論的転回に含まれそうな論者は若い学者が多く(そして日本で翻訳されているものも少ない)、古典の解釈の仕方もバラバラであれば、人間不在に至るプロセスもバラバラ。まとまった言葉でくくるのはとても無理のある状況らしい。

「棚を見やすくしたい」と願う書店員泣かせな潮流だ!

「まとめ」を拒絶するこの新潮流を紹介するには、この人はこういう考えらしい、というのを学者の数だけ列挙していく、というのが一番フェアな方法なのかもしれないが、そんなに詳細には理解しきれない…。

代表的な論者を何人か挙げ、キーワードを拾うような方法で少しだけ深掘りしてみようと思う。カンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、マルクス・ガブリエルを取り上げる。今回はメイヤスーだけ。なんだか書いているうちに長くなってしまったので。


①実在論的転回の立役者!

「実在論的転回」が明確な形で示されたのは、カンタン・メイヤスーによる『有限性のあとで:偶然性の必然性についての試論(2006年)』かららしい。フランスの哲学者で、今最も注目されている哲学者とも言われる。ちなみに日本で発売されたのは2016年だが、私の勤務する地方書店でもこの本は10冊以上売り上げており、2000円越えのハードカバー哲学書としては割と奇跡の数字。話題性が知れる。

そしてこの二年後に、「思弁論的転回」というタイトルのワークショップが開かれた。メイヤスーのほか、グレアム・ハーマン、イアン・ハミルトン・グラント、レイ・ブラシエが参加した、刺激的で、のちにも影響を与えることになるワークショップ。このワークショップでは、メイヤスーが命名した「相関主義(カント以降の哲学全てを包括する言い方。詳細は後述)」なるものを、これから我々は超えて行く、と宣言した。

②「相関主義」について

相関主義を一言でまとめると「私たちは思考と存在の相関にのみアクセスでき、どちらか一方にはアクセスできない」という考え。メイヤスーはカント以降の近代哲学は全て「相関主義」なのだとしている。

ちなみに「カント以降」という言い方は、哲学書を読んでいると結構よく出てくる。カントが時代の変わり目となるような重要な哲学的転回をしたからこういう言い方になるのだろうが、私のような素人はそれすらよくわかっていないので、簡単に補足する。
カントは、それまでの哲学が「神は本当に存在するのか?」が主題だったとすると、「いるかいないかはさておき、もしいたとしても、人間はそれを認識できるだろうか?」という問いを立て、それまで前提だったものを洗い直した。
言い換えれば、私たちは物体が存在することを「信じる」ことは出来るが、「知る」ことは出来ないとした。
つまり、私たちが主観を通して認識している物以前の、「モノ自体」というのは私たちが知ることの出来ない仮定の概念ということになる。私たちが認識できるのは「対象(モノ自体)」ではなく、主観を通して顕れた「現象」だと考えた。さらにいうとこの「主観」というものに対する考え方についてもひと講釈ありそうな雰囲気なのだが、とても長くなりそうなのでここでは書かない。キーワードだけあげると、「超越論的主観」というのがカントの考える主観、とのことです。

カントの考えをなんとなーーーくではあるが知ってみると、思考と存在の相関関係にしかアクセスできず、思考そのもの、モノそのものにはアクセスできない、という相関主義の意味も少しわかる気がする。
神様、というのはとてもわかりやすい例だ。私たちは神様の存在を信じることは出来るが、その存在の有無を知ることは出来ない。人間は、認識する前のモノ自体を捉えられない以上、いるかいないかを知ることは出来ない、ということになる。

そして構造主義もまた、例外ではない。人間が言語で語るからこそ、語られたように物は存在する。認識能力、言語体系、歴史文化などが、物を形づくっているとも言える。

長くなったが、私たちは思考と存在の相関にのみアクセスでき、どちらか一方にはアクセスできないという、「相関主義」の立場を思弁の力で乗り越えよう、というのが、「思弁的実在論」に込められた意図らしい。

③メイヤスーの「思弁的唯物論」

ではメイヤスーはどのように乗り越えようとしているのか。
まず、前提として、メイヤスーは相関主義を否定しているわけではない。
「うん、越えるの無理だよね」というのが基本的立場。というのも、認識以前のモノについて考えるということは結局「思考から独立したモノってどんなんかなあ」と思考していることになる。

だから相関主義を乗り越えるのは不可能。でもその上で、なんとか越える方法を編み出す。それは「偶然性」を恃みにすること。と言っても、私はまだ『有限性のあとで〜』を読んでいないので、メイヤスーの主張について書かれた文章を読んで、こういうことなんじゃないかなと推測してみる。推測の材料にした部分を引用する。2015年に紀伊國屋書店新宿南店で開催された「ポスト・ドゥルーズの実在論をさぐる」というフェアに寄せられた文章(ディレクター飯盛元章となっている。よく知らないのだが青土社の『現代思想』でも寄稿していて名前を見たことがある人だ)より抜粋。ネット上で公開されているものなので長めに抜粋してしまいます。

われわれは思考とモノの相関関係の外部を思考することは出来ない。この相関関係という事実そのものは、ただ受け入れて記述することができるだけであって、それを説明して、べつの原理へと還元することはできない。つまりそれは偶然的なモノである。(中略)こうしてメイヤスーは、モノそのものの実在を、相関関係の内側から導き出す。彼の思弁的唯物論が描くのは、モノたちがどんな法則にもしたがわずに乱舞する世界だ。いま成立している自然法則も、つぎの瞬間には成り立たなくなっているかもしれない。衝突するふたつのビリヤードボールは、これまでとは全くべつのしかたで飛んでいくかもしれない。

ふたつのビリヤードボールが衝突して弾け飛ぶのは偶然的な出来事だ、と言っている。運動学だかエネルギー保存の法則だかわからないが、球がぶつかり、そのぶつかった球の力加減や方向によって飛ばされる方の球の動きが決まる、というのは、科学的に解析できそうな問題である。つまり、なんらかの自然法則に当てはめて、必然的に考えることが出来るということ。どっちに飛ぶか、「科学的にわかるだろう」と考えるのが現代に生きる私たちにとって、普通の感覚だという気がする。

だが、このメイヤスーの主張をみると、ビリヤードの球はたまたま100回、偶然に自然法則なるものに従っただけであって、101回目もそれに従うとは限らない、としている。これは100回の偶然であり、必然ではない、と。
…結構無理ある気がするけど、でも、確かにそのように仮定することで、モノは人間の支配から逃れられるのかもしれない。法則や常識や経験に基づく予測などから。ただそれはあくまで思考の力でそうなっているのであって、人間が、モノを逃がしたいと願ってやっていることだ。だから、これで「人間中心ではない」とは言い切れない。
でも、なんだか想像力が広がる捉え方だ。そして、

1、人間不在について考えるのは結局人間

2、それでもなんとかそれを乗り越えなきゃならない

3、それは例えばこんな方法で

というこれからの哲学の前提を打ち出した、重要な1冊なのだと思う。ぜひ読んでみたい。
これの前に『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か(スティーヴン・シャヴィロ)』を読むとよりわかりやすいらしい。

ちなみに「思弁的唯物論」というのは、「思弁的実在論サークル」の共通モチベーション(相関主義を問題視し、実在論的立場をとる)の中で、僕の乗り越え方は「思弁的唯物論」です、とメイヤスー自身が言っている用語。これから取り上げるグレアム・ハーマンは、僕の乗り越え方は「オブジェクト指向哲学」です。と言っていて、それぞれ新しい用語を作って自分の主張をまとめている状況のよう。ひとまず、2015年の時点では。それが6年経った今、どんな変化を遂げているのかは、またべつのお話です。

ということで、次回はグレアム・ハーマン。






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