自分の「…」をめぐる言語データを分析する#2

#1の終盤で述べた、「…」表記の選択に関与すると考える2つの要因について少し述べたいと思う。

①バリエーションに対するアティチュードがなぜ関わると考えられるのか、これは、最近ヨーク大学(イギリス)が提供するフリーの社会言語学入門のコースを履修して少し学びを深めた分野なんだけど、(最近と書いたのは9月後半で、今は11月になってしまったので多少懐かしささえある。)簡潔にいうと、人がコミュニケーションにおいて伝達しているものは決して口から出た文字通りの情報ではなく、話し手の情報、話し手と聞き手の情報、他にも色々なことをexchangしているので、その情報の操作のためにより自分のニーズや相手のニーズに合致したバリエーションを選ぶのではないかと考えられるからである。……簡潔になど全くなっていないので、私の周りくどい話し言葉でさらに説明を深めることにする。
(てか、話が繋がってるからあれもこれも説明したいけどどっちかを言うとどっちかがまだ説明していないタームになってしまうのでは、とパニクっている。本書いてる人すごすぎ。)
そもそも、バリエーションとアティチュードとはなんぞやという方が大半のはずであった。バリエーションとは、日本語では変種と呼ばれるタームで、「同じものの別もの」みたいなやつである。社会言語学では例えば、「知らんけど」という若者がよく使うようになったこれ、アクセントに注目すると、(ここからはアクセントの分野苦手な私の予測解説なので、ご容赦)関東は平板型アクセント:第1拍が低くて、それ以降はその後の助詞を含め全て高く、アクセントが急に下がることがない、例えば「日本語が」のようなパターンである。それに対して関西では起伏式の中高型:第一拍は低く、その後高くなるが語が終わる前に低くなるパターンのアクセントである。「涼しい」が例。6月だか8月に京都に行ったときに驚いたものだ、こ、これは、関西ではとても東京と同じように「知らんけど」なんて言えない、出身がバレてしまう!というほど衝撃だった。さて、この二つのアクセントを見ればわかるように、「知らんけど」には同じ言葉を発していながらも違いがある。社会言語学ではこういうのをバリエーションとして扱う。バリエーションには基本的に軸のもの(標準)があって、それと同じだが違うもの、がバリエーションとなる。なので、今回扱う「…」表現も、この「…」という沈黙や澱みを含意する(勝手に考察)表記に、「……」や「。。。」あるいは「、、、」などのバリエーションがあるということになっている。さて、アティチュードの方は、ざっくりいうとそのバリエーションに対する評価である。その言語表現などに対してプラスやマイナスの特質的な捉え方をすることで、例えば標準語は「綺麗」「教養がある」という評価を持ち、関西弁は「強気」などの評価を持つ、みたいな部分である(今例に挙げた評価はかなりの独断と偏見と極端な表現になっているので、これまたご容赦。実際日本語では英語のようにAAVEが正しくないと評価されたりRPが教養が高いと評価されたりするほどのアティチュードの振り幅がないようにも思えるが、私は専門的に何か断言することはできない。)
そういうわけで、ここまでkindly読んだ人で勘のいい人ならわかったかもしれないが、バリエーションに対するアティチュードが関わるのではないかというのは、まさに、「…」「、」「。」どれを使うかで、それぞれの使用に対して各個人が持つアティチュードを見越して、自分がどう評価されるかを調整してバリエーションを選ぶかもしれないという具合に考えられるということである。

そうすると今度は、自分が相手にどう評価されるかを意識して調整する、という部分について話す必要が出てくる。これが、②なぜ受け手の存在がその表現の使用に関わるだろうと考えるか、というところにつながっている。これはもはや言語学というよりはもっぱら心理学やコミュニケーション論のあたりのような気がしてくるのだが、第一に、(辻et al. (2014)「コミュニケーション論をつかむ」Unit9自己とコミュニケーションを参照します)他者とのやり取りにおいて自己は他者との関係性の中で自己を見ている、構築している、表出している、という考えがある。この考えは、社会心理学者のG.H.ミードによって示されたもので、関わりの中に自己を見るという視点である。ただこれがまた、私の理解力では説明が難しい。辻et al.をあくまでも参考に私なりに噛み砕くと、コミュニケーションの相手が家族、友達、同僚、さらに深度を高めると相手との関係が親子、親友、上司部下、先生生徒などである時、それぞれの相手に対して「自分」が少しずつ異なった自分であることに気づくはずである。いや、「自分」は不変な自分であれど、相手との関係性においてはこの自分、あの自分、くらいにはちょっと違うはずである。この違いは社会集団をもとに自己という個人を捉えているというところにある。社会集団という「特定の社会的な特質を持ったメンバーからなる固有の集団」(辻et al., 2014)のフィルターをくぐると、私は母の前では「子」としての自分、生徒の前では「先生」としての自分、という具合に、

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いや、ここまで書いていて辻et al.の内容をstraightforwardに理解できてないかもしれないと思い始めた。なんだこれ???わからないからと、g.h.ミードでググったら、哲学関連でたくさん出てきてしまって何が何だかわからなくなってしまった。哲学なんてもはや分野としていい名前がついて確立しているものの極端に言えば誰か様の頭の中を覗くような学問なのだから、どんなものでも簡単なものなどないよね。そういうわけで、ちょっと挫折してしまった。
本の本章ではこの後もミードの「一般化された他者」とか「役割期待」というタームが出てくるが、これも全然理解できない。というわけで一旦これを理解するところから振り出したいと思う。
「一般化された他者」とは、コトバンクでは、『人はさまざまな他者の,自分に対する役割期待を取入れ自己を形成していくが,このように個人に内在化される他者の社会的期待が個々の他者のそれにとどまらず,総体的規範として社会の成員の一般化された反応に高まる。こうして社会的規範を表象するような役割体系としての他者を一般化された他者という。』と書いてある。
「役割期待」の方は、『社会学的には,特定の地位の占有者に対して規範的に期待される行動と定義される。社会心理学的には,相互作用において言語や身ぶり,表情などの表出的シンボル expressive symbolを媒介にして伝達される自我ならびに他者の充足期待』と定義されているらしい。
この二つを読んで理解した人は純粋にすごいので是非私に教えていただきたい。

他では、例えば以下のブログではコミュニケーションの過程、社会化の過程で、自己は他者の見る自分を意識し、その自分に他者を取り込むのだというようなことが書いてある。そしてその時取り込む他者こそが「一般化された他者」という、社会全体におけるある種の役割のような存在(?)であって、(本に戻ると、)その役割から期待されるもの、というのがどうやら「役割期待」ということらしい。

うーん、さっきよりはまだなんとなくわかってきた感がある。何度も読み返せばわかるようになるかもしれないのだが、ついでにもう一冊、対人社会心理学重要研究集という本からミードのまとめ部分を参考にしたい。ここでは一般化された他者について、子どものごっこ遊びをその初歩の例に取っている。子どもが母の役、父の役、兄の役、はたまた犬の役をするとき、それが遊びとして成り立つためにはそれぞれの他者(ここでは、上にあげた母、父、兄、犬など)の役割を取得している必要があるという。確かに、おっしゃる通りである。これがさらに共同体全体の態度を取得した時が、一般化された他者の役割を取得した時となるんだとか。なるほど、共同体の中での自己を対象化するこの様子をミードはコミュニケーションにおける自己の有り様だと捉えたのだと、少なくとも私は解釈した。いや、どうなんだろうね。

これだけ漁ってみたのだから、一旦次へ進みたいと思う。実際は、先に進むというよりは一歩前に戻って、書き途中から再開せねばなのだが。

ミードの役割取得や一般化された他者のことを踏まえると、対話者、コミュニケーションの相手次第で「私」が取得する役割?一般化された他者は異なってくるはずである。その時のスピーチやツールとしての言語は、相手の役割期待(役割に対する期待)の影響を受けるというのが、受け手の存在次第で「…」のバリエーションの選択に違いが出ると考える裏付けになっている。

ちなみに、これだと相手の「評価」を気にしてバリエーションを選択する部分に関しての裏付けが足りない。ここで、言語学のオーディエンス・デザインを紹介したい。以前からも私の研究の中心的部分に関わるため何度か(※一度でした)記事で触れているのだが、ここでも簡単に述べておくこととする(※コピペしちゃった)。

Audience Design はスタイル(社会的意味と結びついた言語変種)シフト(style-shifting)にまつわる、話者は聞き手の存在によって話し方(スタイル)を調整するよっていうモデル。聞き手が実際の聞き手か、それとも話が聞こえているであろうこちらはaddressしていない人かとかでその影響もまた違うわけですが、その存在によって自分を相手に合わせにいくとか、別だというのを強調したりとか、そういう戦略的なところが楽しいよねぇ。ちなみにそのオーディエンスの分類には3つの基準;known(その文脈において聞き手と認識されているか)、ratified(その文脈においてその聞き手がいるということを話者が認めているか)、addressed(話してが話しかけている人か)があって、四つのタイプに分けられる:Addressee(聞き手)、Auditor(直接話しかけられてはいない傍聴人)、overhearer(存在は分かっているけど話しかけてないし認めてないよっていう偶然聞く人)、Eavesdropper(話し手の認識の範囲外の盗み聞く人)。

この理論はもともとアラン・ベルがスピーチを研究するのに使ったものであって、打ち言葉用ではない点には留意したい。もし打ち言葉や書き言葉にこれに対応するようなアプローチやセオリーが既に世の中に出ているのなら調査不足で申し訳ないのだが、もしまだならこの研究と修士での研究をもとに少し発展さられたらと願わくば思うのであった(本当に身の程を思い知った方がいい自分)。

さて、これを私がどのように今回の「…」のバリエーションに適用したいかというと、たとえばTwitterであれば、(一旦ここでは鍵垢=private accountを除き)Aの投稿に対するBのリプライ投稿は、AというAddressee(直接の受け手)、双方のフォロワーにはタイムラインに表示されることから彼らをAuditor(AとBにとって彼らがやり取りを目撃することは認識の範囲内)、そしてフォロワー外の検索などで巡り合わせのあったユーザーはOverhearer(フォロー外でやりとりにたどり着く人がいることは暗黙の了解(?) )とすることができるのではないかと思うのだ。(いや、ここまで書いてみてやはりSNSでの受け手の種類というのはなんらかの研究で明らかになっていなければと必要性を感じるし、その先行研究にいち早く出会いたいのだが、とりあえず来週のゼミ(?)で教授に聞いてみて、さらに早めに研究室に行って論文に当たってみたいと思う。ヒヤヒヤ。)

ANYWAYS, 聞き手の存在を意識すると選ぶバリエーションが調整されるというのはベルの研究でわかっていて(それらは彼の研究ではstyle-shiftだった)、いや、わかっていてと言っていいのかわからないが、彼の研究について軽くメンションすると、同じブロードキャスターが(アナウンサー的な?)同じスタジオで同じような内容について2種類の番組で放送した時、一方のYA(=ナショナル番組)ともう一方のZB(=ローカル番組)でブロードキャスターはそれぞれスタイル(言語変種の一種)をシフトしていたという(思い起こさせる社会的意味の異なる言語変種をうまく調整していた)。

これだけだと先ほどの分類に関わりがなくてハテナ?となってしまうので、audienceの分類に応じてどのようなスタイルシフトが見られたのかを追記しておきたい。ここでは、お会いしたことなどもないが尊敬する堀田隆一先生の英語史ブログであるhellogから話者が誰に対して注意を払っているかで文体が変わるという考えを裏付ける例を引用したい。

喫茶店で1組のカップルとその共通の友人がお茶しているシーンを想定する.カップルの男が女に話しかけるとき,当然ながらその女に注意を払いながら話すだろうが,傍聴人である友人がいる以上,カップル二人きりでいる場合とは異なる話し方をする可能性が高いだろう.話し手にとって,傍聴人の存在も聞き手である女の存在に次いで言葉を選ばせる要因として大きいのである.そこへ,ウェイトレス(偶然聞く人)が注文したお茶を運んできた場合,話し手はこのウェイトレスに聞かれていることを意識した言葉遣いに変わるかもしれない.また,背後にこの3人の会話に耳を傾ける盗聴者(盗み聞く人)がいたとしても,それに気づかない限り,話し手は盗聴者を意識して言葉を選ぶという考えすら及ばないだろう.
 日本語を用いる日常的な場面でも,友人と二人で話しているところに,先生や上司など目上の人がやってくるのに気づくと,敬語を交えた話し方へ切り替えることは珍しくない.また,討論会では,直接話しかけていなくとも,会場の支持を得るべく傍聴者を意識して言葉を選ぶのも普通である.その場に誰がいるのか,またその人にどの程度の注意を払うのかによって,話し手は文体を変える,あるいは変えることを余儀なくされる.その意味で,audience は話し手に言葉を選択させる力をもっていると考えられる

以上、5000字以上にわたってダラダラと述べてきた3点:バリエーションに対するアティチュード、一般化された他者と役割期待、オーディエンスデザインとオーディエンス分類を今回の3点リーダー「…」の研究において重要な立ち位置を示す理論的枠組みとする。

書きながら、こういう調査ならできるかもしれない!とワクワクが止まらなくなってきた。今は誰にも評価されなくても、自分が意味のある調査ができた!と思えることにつながったらいいなという気持ちが大きめ。

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