事務職員による『事務に踊る人々』読書感想文

阿部公彦の『事務に踊る人々』でその存在を忘去されているのは、事務職員である。とでもいいたくなる。阿部先生は、事務が立脚するところの「規則」や「制度」に、いつも一人で立ち向かっている訳ではないだろう。特に東京大学内で事務手続きを進める場合、事務職員にメールや書類を出すことで、手続きを進めているはずである。事務職員、つまり事務を生業にする人々は、『事務に踊る人々』に書かれている以上の、実務的な苦しみと面倒くささがある。

阿部は、書かれた言葉には、<書き言葉性>と、<話し言葉性>の二つの要素があるという。前者は他者や読者を抹消し「絶対」を演出するのに対し、後者は「絶対からの漏れ」に対応する。事務仕事においては、<書き言葉性>は書かれた規則そのもの、<話し言葉性>は運用上の解釈に相当すると考えられる。規則は状況に関わらずあてはめられるべきという「絶対」性を装うが、実際には状況にあわせてそれを運用し、「絶対からの漏れ」に対応する必要があるのである。規則の運用は、「絶対」を装いながら「絶対からの漏れ」にも対応するというダブルスタンダードが常に潜んでいる。

阿部は、<話し言葉性>について、三島由紀夫と太宰治の会話を例にあげる。三島由紀夫が太宰を訪ね、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言ったところ、太宰が「そんなこといったって、こうして来てるんだから、やっぱりすきなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。」と返したというものだ。ここでは、三島由紀夫の「嫌いなんです」が、テキストとして太宰治によって読み替えられる。ここでは下記のような対比が生まれる。

・絶対=<書き言葉性>=自閉(読み手の抹消)=三島「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」
・全体からの漏れ=<話し言葉性>=太宰「そんなこといったって、こうして来てるんだから、やっぱりすきなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。」

私のような事務職員は、三島と太宰の両方を心の中で飼っている。自閉的で状況に対応しない規則=三島と、柔軟に読み替え、状況に対応しようとする太宰だ。阿部は太宰的なこの読み替えを、事務文書がによる「愛」や「善意」による読者への語り掛けに対応させる。

私の仕事のストレスは、「愛」や「善意」による語り掛け、つまり自閉していない自由な規則の読み替えによって生じる。私はみずからの恣意性を持って、規則の解釈という主体性を発揮し、それに責任を負わなければならない。しかし規則は自閉してもいるから、規則を持って、私の読み替えは却下されることもあるのである。私には規則を解釈する責任があるが、同時に解釈による責任を追うことはできない、というダブルスタンダードが生じているのである。これが、事務職員特有の、曖昧な態度を生み出す。事務職員たる「私」は、読み替えられるべき/自閉すべきテキストとして、申請者、あるいは質問者の前に現前する必要に駆られる。

事務は重い「絶対」を背負っているが、まるで愛にあふれる人間のような声をも隠し持っているのだ。というより、事務が暴力的なまでに「絶対」だからこそ、そこには「漏れ」としての善意の人が必要となる。この「絶対からの漏れ」を処理するための制度が事務には用意されてきた。それを本当の意味で担えるのが、<事務能力のある人>なのだろう。彼らは自在に事務から漏れ出すことができる。

『事務に踊る人々』p.373

あえていうならば、特別なルールの運用は、事務職員と研究室両方を危険に晒している。本当は、規則を自閉したものとして運用し、なるべくなんでもかんでもダメ、という方が事務職員としては楽である。善意の人とかいう妖精みたいな存在になどなりたくない。それでも、ルールをこのように運用すれば、あなたの願いを叶えてあげられますよ、と伝えているのだ。これはほとんど愛と善意の行為だ。私は本当にそう思う。だから、一度きりの特別なルールの運用を、「前回はこれでいいっていいましたよね」と持ち出すのは、愛への裏切りだとも言える。口頭で伝えた秘密の「愛してる」を、「愛してるっていったよね!?」と周りの人に見られる環境で書いて送ることで、私を脅してきているのだから。


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