帰属意識は戦争の源である

ある集団への帰属意識。小さなものは家族、友人から、大きなものは国や地球、宇宙まで。この帰属意識が、戦争や諍いのほとんどの原因ではないだろうか?それが町や市や県などの地域社会にとどまっているかぎり、比較的問題も起きにくい。それが血を連想させる「民族」とか、同じ風土、言語、食べ物、感覚の中で生きる「国」のレベルになると、その集団への帰属意識は、排他的で愛族的、愛国的な色合いに、いつ何時変わるかもしれない危険性をはらんでくる。

ウクライナのロシアによる侵攻、イスラエルとパレスチナの終わりなき戦争。すべての紛争の根底は、ある個人がある集団に属しているという強い意識があり、その上で自分の属する集団がないがしろにされたり、攻撃されることへの生存本能的な瞬時の反発や反応が、あらゆる形の争いの源である。そこに、さらに各関係者の政治的経済的思惑が絡みついて、取り返しのつかない大きな渦をつくっていく。渦は、あたかも一つの有機的な生き物であるかのように、それ自体が命を持ち、その動きはいったん加速し始めると、一定の期間は継続し、なんらかの力が働いて、その動きが緩慢になるか、急停止されるまで、止まらない。

帰属意識がすべての争いの源にあるといっても、それをなくすことは、人間が集団的な生き物であるかぎり、難しい。どんなに帰属意識が薄い人間でも(私もその一人だが)、自分の生まれ故郷や、家族がけなされたりするのを聞くと、多少なりともムッとする。
そのムッとする、という気持ちを持たない人は、真に悟っている宗教人、つまり集団を超えた人間全体、さらにはすべての生き物、宇宙という大きさの中で一人一人の個人を見ている人だけだろう。そんな人に今まで出会ったことがないのだけれども、想像の範囲ではそういう人はすべての人間に対する愛で溢れている。しかし、自分の母親が物理的精神的に傷つけられている時に、その人がどういう言動に出るのか。ひとつの諍いを諭すような冷静さと愛を持って、自分の母親を傷つける人間に対峙できるのか。そこに私的感情が介入しないとは言い切れないのではないか。つまり帰属意識とは、例えば「母と子」の絆のような、密接な人と人との絆を裂こうとする他者に対しての、またはそのような自分の身体的精神的な延長にあるかのような存在が傷付けられた時に反射的に生じる、なにか動物的な本能的なもののような気がする。

だから、戦争はこの世の中になくならないのかもしれないが、せめて自分の帰属意識をある程度、制御する、つまり大きな集団へと強度の執着を持って発展しないように、意識的になることはできるはずだ。それだけでも、大きい戦争抑止力かもしれない。つまり、熱して理性を失い危険な方向へと濁流のように流れている群衆の中で、ひとり冷めていること。国を守るために戦争に参加せよ、と国に促された時に即座にNOと言える自分でいること。強制的に徴兵をしないような政府を形成するであろう代表に投票すること。そういう意識や努力は日常的にできるのではないだろうか?

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