かいほてつたは謝らない

昨日、母親の仕事着を乾燥機にかけてだめにしてしまった。
なかなか謝ることができなかった。結局6時間後ぐらいにLINEで謝罪したが、文面は「弁償します」とのこと。つまり金で解決しているだけで謝罪ではない。

僕は人に謝れない。もちろんシニフィアンとしても謝罪はできる。ただそれは空虚なシニフィアンなのだ。つまり、あくまでシニフィエを伴っていないときにのみできる。むしろそういうのは非常に得意で、それが僕を愛嬌のあるキャラにしてくれているのだろう。

この謝罪のできなさは、僕の典型的な有害な男性性の一側面である。
一見、これが不思議に思えるのは、僕のアイデンティティーは、典型的な左翼、つまり自己否定のアイデンティティーなのだ。
謝罪と自己否定。これは似ているように思えるのだが、そうではないのではないかと言う事について論じてみる。


謝罪とは、生き延びるため行為である。
自己否定とは、死ぬための思想である。
自己否定は、禊であり、一度死んで復活する。しかし、謝罪は地続きに生きていくことの選択である。
禊は楽だ。象徴的死によって全てが償われる。

アナロジーに移る。
謝罪は贈与行為。自己否定は交換行為。
贈与は、後生ひきずっていく必要がある。時にはトラウマ的にフラッシュバックすることもあるだろう。謝れレイ(これはover the sunを聞いている者しかわからない)にとりつかれている。ハウだ。
交換行為は一回きり。精算ができる。その後のうのうと生きることができる。母の仕事着を金で解決しようとしたのがまさにだ。


結びに
贈与行為のグロテスクさはよく知っている。むしろぼくは嫌いだ。交換行為に軸足を置いている自分を中庸に向けていくためのこの記事だ。
なぜぼくは贈与行為が嫌いなのかはまた今度。

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