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わたしの舟とあなたの舟が

小学6年生のとき、成人した自分に向けて手紙を書いた。

その8年後、成人式のときに12歳の自分からの手紙を受け取った。

内容は大方、その頃のわたしがハマっていることを教えてくれていたり、いま何しているかや、友人関係のことを気にしていたり。

20歳の自分には小っ恥ずかしい文章と内容で、読んですぐ封筒に戻した。


それから何年後だっただろうか。
まだ実家に住んでいた頃、部屋の片付けをしていたら埃だらけのその手紙を見つけ、また読み返してみた。

ハタチの時には感じ得なかった、なんとも寂しい気持ちになった。

「いま何をしていますか?目標を持って行動していますか?…わたしには今これといった目標がありません。だからその歳で見つけていなかったらヤバいです笑 なにか見つけているといいな。」

「○○ちゃんと○○と○○とは今でも交流がありますか?」


(目標なんてなんにもないし、名前が上がってる誰とももう交流がないよ。)


読んでも不憫で寂しい気持ちにしかならないから、わたしはその手紙をシュレッダーにかけた。




20240511(Sat.)

地元のカフェで、わたしはあの手紙に名前を載せた友達と話していた。

大人になってからまともに話したことがなくて、
最後に話したのは成人式以来?
それとも去年偶然会ったあの時?

会ったら泣くんじゃないかなと思うほど嬉しかった。こんな日が来るなんて…!って、大袈裟だけれど思っていたから。

気がついたらカフェの閉店までいて、外を歩きながらトータル6時間ぐらい話していた。
沈む夕陽が三日月に変わっていた。


もうすぐ三十路を迎えるわたしは、「友達」に対しての考えも変わってきている。


学校を離れても集まることが多かった関係性もなくなって、なんだか自然消滅してしまったような友達も何人かいて。
でもそんなにそれに対して寂しさを感じていない自分は薄情なのかなとか思ったり。
はたまた、仲の良い友達は交友関係が広くてそれが羨ましかったり、友達が変化していくことが寂しかったり。
アラサーなりかけの自分はこんな感じだった。

でもそれぞれの人生なんだよな、と思っていたときに、このエッセイに出会った。

「友は恋よりうつろいやすく」 おとなの小論文教室。(ほぼ日刊イトイ新聞) https://u.lin.ee/XoMEvpn?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none

LINE「ほぼ日出張所」


友情に縛りはなくて儚いことが主に書かれているのだけれど、その中でも人を舟に喩えているのが印象的で、何かと人間関係を考える際は舟の話を思い出して想像する。


わたしたちはそれぞれの舟を漕いで進んできた。

学校にいた頃は、学校という大きな船に一緒に乗っていたから、その貴重な時間に気付けなかったけれど、その時だって自分自身の舟を持っていた。

わたしは暫く、いや今も、どこに行けばいいのかなと思いながら、とりあえずやってみたいことをやってみる道を進み漕いでいたら、いろんな人と出会って、かつての友達と再び出会うことができた。

だから謝りたい。
12歳のわたしが、12歳なりに書いてくれたあの手紙を粉々にして棄ててしまったこと。

(ごめんね。
何を書いていたか朧げだから、また読み返したいよ。
あなたが望む関係性じゃなかったかもしれないけれど、わたしたちは奇跡的に同じ学校で出会って、必然的に仲良くなっただけ。
それぞれがそれぞれの場所で頑張っているのを、想っているだけで充分なんだよ。) 


ライフステージはどんどん変わっていく。
十人十色の道がある。


わたしは誰かの道を時に羨ましく思うときもあるけれど、「わたしはわたし」と意識して漕ぐのだ。
そうしていくうちに、また舟が交わるかもしれない。 

でもそれに期待しちゃいけないことも、もう弁えている。
交わることを目指すのは「執着」でしかないから。

アラサーなりかけの自分と比べたら、友達への憂いは減ったと思う。
去る者追わず、だけれど応援はしている。
そんな感じ。


本当に昨日は良い日だったよ。
わたしの片思いが伝わったような…笑

そして、学校からの帰り道を思い出した。
もう怒られないから、時間なんてなければ、いつまでも話していられそうだった。

カフェにて





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