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分断についてのエッセイ

分断とは、実は信条や能力の違いではなくアレルギーや自己免疫疾患のようなものではないだろうか。例えるなら花粉によって体内に嵐が巻き起こっている人と、そうでない人の違いではないだろうか。だとするなら適切な対処が見えてくる。


友人とイスラエルの虐殺行為について話していたとき、イスラエル支持者の態度が異様なほど頑なだということに話が及んだ。彼らの態度はいわゆる「保守」「ネット右翼」「Q」が自分たちの敵に見せる強烈な反発に似ていた。東西を問わずこの10年くらい散々味わってきた光景だ。

ここで簡単に定義しておきたい。ここでいう分断は「話せばわかる」が通じなくなった状況だ。事実や論理とは無関係に堂々巡りする議論、すっかりお馴染みの不毛なやり取りが繰り返される状況のことを指す。

一方が「エルビス・プレスリーは死んでいない」と訴えると、反対側から「事実だ」「証拠がある」「論理的ではない」と指摘される。これに「そうは思わない」「陰謀によって隠蔽されている」「目撃情報がある」と反論が起こり、議論は平行線をたどって、最後にはうやむやで放棄される。そしてしばらく経つと、再び、ゼロから、このやり取りが繰り返される。思い出して欲しいのだが、相手の無明を責める「差別主義者」「ネトウヨ化した」や「Q墜ち」という宣言も全く効果はなかった。

どんな人がこうなってしまうのか。

結論は、どんな人にも起こる可能性があるということになる。社会学者、宗教学者、歴史学者、(国際)政治学者、成功した企業家、科学者、エンジニアにも起こる。デリダを読めても応仁の乱を論じることができても起こる。アカデミックな訓練を受けていても、メンサ会員でも、公職についていても、常識があり世間を知っていると思われている人にも起こる。

一度起こると、徐々にその傾向が見えてきてある時表面化する。「親がある時ネットで真実に目覚めてしまった」を防ぐには早期介入しかない、というのが一応の答えだ。だがある段階を超えるとファクトは効き目がとても薄い。正しいファクトチェックさえ機能すれば分断が防げるというのは完全な幻想だった。もちろんそれがファクトチェックの必要性を損なうものではないが。

散々揶揄されてきたように、いったい彼ら彼女らは何と戦っているのか。彼ら彼女らが戦う相手は、彼ら彼女らが思う敵、多くの場合空想上に自ら作り上げた敵だ。具体的な人物がいる場合も含めて、ある時から自分の中に敵の像を作り上げ頭の中で延々と戦いを始める。

それは鏡の中の敵と戦うことと似ている。多くの仕上がった人の場合、空想との絶え間ない戦いを繰り返し、エスカレートし過激に残虐になっていく。そのうちに抑制の外れた発言や現実の暴力となって表に現れる。またあるいは、汚らしい敵をいじめることを娯楽として楽しみ、血なまぐさいリンチを期待するようになる。

こうした仕上がった人を事実や論理で徹底的に否定したとしても彼ら彼女らの「私はそう思わない」を正面から打ち破ることはめったにない。事実や筋道の通った論理を繰り返すことは社会全体には大事だけど、分断されている人には直接の効果はない。10年間効果がなかったのだ。今ここに至っては認めるしかないだろう。

「前はネット右翼だった人」の記事を読むとほとんど全てが、段々と違和感を感じてある時気がついたというパターンだ。レスバトルで負けたからおかしさに気づきましたという人は皆無に等しい。むしろ、「私はそうは思わない」を支えてくれた仲間やコミュニティがおかしさを気づかせてくれたという逆説がある。

逆側の事情についても、相手の間違いや正しくないことを繰り返し繰り返し繰り返し指摘し続けた結果、怒りで焼き切れてしまう現象がみえる。こうなると初手から怒りMAXのテンションで接してしまうようになる。同じミスを繰り返す子どもに対して条件反射でブチギレる親のように。レスバトルで人が変えられないと同じくらい頻出する怒りで人は変えられない。これは幸福なこととは思えない。

この仕上がるプロセスに一番大きな影響を与えるのは学校や職場、家庭や友人、メディアやSNSという周囲の環境になる。賢さは決定的な原因にはなり得ない。仮に歴史上で賢いと言われる人物を召喚したとして、男女の平等というテーマで現代の水準で満足できる発言を得られるか想像してみよう。どれだけ多く見積もっても半数は超えないだろうし、そんなこと今まで一度も考えたことがなかったと言われても驚かない。

つまり実際に起こっていることは、事実や理論を受け入れられないという賢さの問題ではなく、環境によって蓄積される考え方や方向が頭の中で敵を作り上げサンドバッグを叩き始めることではないだろうか。これはアレルギーや自己免疫疾患に似ていると言えるのではないだろうか? すなわち「分断」とは思想や知性の違いではなく花粉症とそうでない人との違いのようなものではないだろうか? 花粉症が僅かな耐性のアドバンテージの差でしかないなら別のアプローチが取れるのではないだろうか。

最近では食物アレルギーは口から吸収して体が慣れる前に皮膚から吸収されキャパを超えてしまうことが原因とされている。予防するためには肌から大量に吸収する前に口から食べて慣れておくことだという。また、一度アレルギーを起こしてしまった時には専門家の管理のもとごく微量の量を食べていき耐性を増やしていく方法が治療法として確立している。

あくまでも比喩になるけど、「分断」を乗り越えるのは炎症を抑える&耐性をつけるという二本立ての対処が解決案になる。しかし、例えばゴリゴリの人種差別を口にしてはばからない相手が、年配だったり、上司のような上の立場の人が相手だったらどうすればいいのだろうか。これは果てしなく難しい。

理想は入る情報を遮断して関心領域を変えて徐々に慣れてもらうことだ。例えば拒絶する反応が出ない程度に「女性だって実は人間なんですよ」「最近の中国や韓国製の電化製品は安くて質が高いですよ」「人の国に攻めていったら侵略ですよ」……もっと低い段階から始めないといけない場合もあるだろう。案外「もう令和なんですから」という言葉のほうが有効かもしれない。

一方で分断を解消したいと思う側にもある種の理解――花粉症に対するような理解――が必要だろう。1つのツイートに怒り心頭に発したとしても単に否定するに留めておこう。一歩引いた態度で見守ることも重要だ。「愛国心が足りない」や「知性が足りない」とさじを投げる前に。

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