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こんにゃくサイダー

二〇一七年一月二十三日月曜日

晴れと曇り

朝起きぬけ、今日行くか!と思いついてしまった。そう思ってしまった日は動いてみた方がいいとだめもとで訊いたらカモンの声。のんさんに行こうと思うのだけれどいいかしらと訊くとにこっと笑ってくれた。ということで、帽さんにカレーをつくり、朝ごはんのパンをセットして母の家へ。

夜ごはんは、お刺身の盛り合わせ(まぐろ、いか、鰹、かんぱち?、たい?)、ピーマンの炒めもの、ぶた肉の炒めもの、カブと菜の花のサラダ、きゃべつのお漬物、豚汁、ごはん。

わたしがたべてきた母の味だけれど、わたしの家の味ではなくてすっかりはなれてしまった。わたしの味は母よりはうす味になったのだな。出産直後はとくにたべもののことを細かく気にしていて、どんな調味料つかっているのかな、あぶらがすごいぞ、なんて思ったときもあった。つくってもらっているのだからありがたくいただいたらいいのだけれど、そのときは母乳づくりにとても繊細になっていた。いまは、じぶんのつくるものだけは気をつけて、ほかはありがたくいただいたらいいと思うようになっている。どんなきもちでいただくかでいいものに変わるような気がしてしまっている。ファンタジーな発想すぎるかもしれないけれど、間違ってもいないように思っている。ある子が言っていた、虹のひかりが口に入っていくようなそのイメージがあたまに時々浮かぶ。どんなものも生まれた命だなあと。いきものみんな愛でられていいじゃないかとそんなきもちになっておいしくいただくようになった。無視されやすい信号機のボタンを押して信号を守る理由も、ルールというより存在を無視したくないからなのだよな、ずっと。信号機もつり革もほうれん草もれんこんもポテトチップスも愛してやるというようなきもちなのだ(ポエジーなふわふわ理想主義者でも、スピリチュアルなわけでもないのだけれど、そんなふうにみえるかもしれない。むずかしい)。

母の作った豚汁をたべながら、同じ味は作れないかもしれないなあと。どんな具が入っているかしっかり覚えておかなくちゃなあと、なんとなく思った。細切りのこんにゃく、細かい豚バラ肉、じゃがいも、大根(いちょう切り)、人参(いちょう切り)、ごぼう(ささがき)、玉ねぎ。これでぜんぶだったかな。あしたまたたべるときにたしかめよう。

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