対話・地球的危機・コモンズ(後編)
2 対話を生み出す
今日、大の大人同士が真剣に対話するオープンな場がどのくらいあるでしょうか。
どんな場か、どんな時間か、即座には思いつきません。
そういう現状を踏まえながら問いたいのは、古今の教師たちが行っていた対話が人々を引きつけたのは、もっぱら彼らの優れた資質だけに起因するのか、ということです。
やや今日的な問い方を用いるなら、対話型の教育を行える教師がどのくらいいるのか、という供給側の問題がある一方で、そうした教育を望んでいる学生や大人がどのくらいいるか、という需要側の問題も大きいのではないか、ということです。
もし、この問題に市場原理を適用するなら、まず、需要を開拓することが近道でしょう。
しかし、市場原理によって蝕まれている地球環境を問題とし、その背後にあるグローバル企業と富裕層の振る舞いを批判しようとするなら、まず、供給側を強くすること、つまり、対話型の教師を育成することが、仮に迂路であっても重要である、と考えられます。
そうした対話型教師を中心とした学びの場、例えば成人大学や成人講座のようなものが形成され、それが核となって新たな、そして批判的な「コモンズ」が形成される、そのようにして社会が変わっていくことが望ましいと思われますし、実際、ロブ・ホプキンスの「トランジションハンドブック」を見ると、成人大学を核として地域に人の輪を作り出した歩みを見ることができます。
落ち着いて考えれば当たり前の話かもしれません。
もし、市場原理が物を作り、売買することにより成立する社会を追求するのであるならば、逆に、市場原理を抑制し、制御することのできる社会を目指そうとすれば、人づくりから始めることは理にかなった話でしょう。
もちろん、最初から孔子や老子、お釈迦様やイエス様のような教師を養成することは無理な相談です(ホント?)。
だから、まずは対話できる大人を児童生徒や学生の頃から育成しようとすることが第一歩になるでしょう。
そして、対話できる大人が「コモンズ」、つまりともに暮らし、愛し、責任を担う故郷としての公共空間を形成し、それが分厚くなるに従って教師を招き、教師を生み出すことを可能にするのです。
そのためには、まず、対話できる大人になること、それも一対一の私的な対話ではなく、一対多の公共的な場で対話できる大人になること、そこから多くの学びの道と展望が開けるのではないでしょうか。
もしそうなれば、国会質疑で答弁を留保するしか能のない政治家を排除することなど、簡単に、かつ、真っ先に実現するはずです。
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