「資本主義」という「言葉」をやめよう


1 「資本主義」はマボロシ

 大ヒットした斉藤幸平氏を筆頭に、多くの方々が地球規模の多重的な危機を論じておられることに強い共感を抱いているのだけれど、その議論の中で「資本主義」という言葉がキーワードとして用いられることに、共感が強い分、同じくらいの違和感を禁じ得ない。
 なぜなら、「資本主義」など存在しないし、マボロシにしか過ぎないからだ。
 だから、「資本主義」というキーワードを乗り越えていかない限り、危機を克服する道は見えないはずなのだ。

 資本主義とは何か、という問いは20世紀を貫く大きな問いであって、その言葉としての歴史や、長期的な経済史における姿などについての研究は、おそらく数え切れないほど存在するだろう。
 ここで、知ったかぶりをしてその一端を語ろうとするのも片腹痛いので、私自身の信ずるところを端的に申し上げるなら、「資本主義」とは「市場」のある時点の姿を、ある角度から切り取ったスナップショットに過ぎない、ということだ。
 だから、地球規模の多重的危機を論ずるならば、「市場」を論ずるべきなのだ。


2 「雲」としての「市場」

 しかし、「市場」は「雲」であって、これを眺め、あるいはその時々のスナップショットを撮影して、ザックリと分類することは可能だけれど、定量的に記述したり、まして操作すること不可能である。
 現に、市場操作を試みても、意図した効果が上がらなかったり、予期せぬ悪影響が生じたりすることは歴史の中で幾度も反復された経験である。
 「市場」が「雲」であることを知ることはけして難しいことではない。

ア、参加者の人数
 まずは「市場」には必ずそこで活動する人間、つまり「参加者」がいる。
 しかし、この参加者の数を定量的に知ることは不可能である。
 もちろん、市場と期間を限定すれば、ある定量的な記述を得ることは可能である。
 例えば、今年度の兜町の株式市場で行われた売買件数や、そこに参加した実人員、延べ人員などを定量的に把握することは可能である。
 しかし、世の中には、青物や花卉、魚や鉄や銅や石油や劣化ウランや麻薬やロケット砲やメルカリやアマゾンや・・・数え切れないほどの様々な取引があるし、それらの幾つかについて数を把握したところで市場の参加者数を記述したことにはならない。

イ、参加者の関係
 しかも、参加者の数が記述不可能なだけではない。
 参加者は必ずや他の複数の参加者と売買のいずれかの関係を、なんらかの期間にわたって、取り結んでいる。
 その際に、その関係をどの程度、持っているかも記述できない。
 私自身で言うなら、行きつけのお店と銀行が数件であるから、関係の糸はせいぜい10数本である。
 しかし、いわゆるGAFAや大手企業になれば何万から億単位の関係の糸を持っているはずである。
 しかも、その糸が売りの方向の糸か、買いの方向の糸か、しばしば変化し一定していない。
 あるときはアマゾンで買い物をし、あるときはメルカリで不要品を売ったりする人がたくさんいるし、そもそも商業を生業とする者はつねに売りと買いを繰り返している。
 さらにコンビニで弁当を買うような一瞬でおわる関係もあれば、35年ローンを払い続けるようなウンザリするくらいの長期にわたる関係もある。
 そこまで視野に入れるなら、もうお手上げである。

ウ、参加者の相対的な大きさ(重さ)
 そして、最後に参加者個々の大きさ(重さ)の問題がある。
 参加者の大部分は自分の時間を売って得た資金で生活の資を得るような者であって、その大きさ(重さ)にたいした違いは無いだろう。
 にもかかわらず、国会議員の先生方のような、銀座や赤坂の座るだけで何万円もとられるようなお店のご常連になる人も一定数、存在する。
 さらには大企業や大富豪もさらに少数とはいえ、全体の数%は存在するだろう。
 そうした図体の大きな参加者がいると市場はある方向に向かって傾いて、重たい参加者を一方向に集めるだろうが、やがて、重さに絶えきれずに復元力を発揮する場合もあるだろう(その際の大混乱をリーマンショックは私たちに実演してくれた)。
 そうした大きく、重たい参加者によって傾いた市場の、重く垂れ下がった部分を撮影したスナップショットを一言で表現しようとするなら、おそらく資本主義という言葉がふさわしいだろう。
 さらに付言するなら、大きさ(重さ)に違いが生まれる理由や経緯を説明しようとする一般的な法則は、つねに違いを正当化し、大きくて重い参加者の既得権を保護するために利用されるので、そうした法則性を含めて、市場については法則性を訴える教説は、必ずや市場全体を危機に陥れる危険な謬見となる。


3 「雲」を掴めないなら読めばいい

 私は数学が苦手なのでだけれど、このような「雲」状の何かを定量的に記述することができないのに、まして、その運動法則を明らかにした上で、これを操作する技術があり得るとは到底思えない。*
 ただし、定性的に観察して、もっとも適切な対処法を教える知識は、人類の歴史の中で豊かな蓄積を持っていて、それを私たちは神学や哲学と呼んでいる。
 つまり、地球規模の多重的な危機に適切に対応しうるのは、自然科学や高度先進技術ではなく、哲学や神学であり、モルトマンやヨナス、デュピュイなど神学や哲学の分野からなされる発言に人々が耳を傾けるのは、人々の判断の健全さを証明しているのだ。

*もし、そんなものが出現したら、それは研究者が勝手に作り出した公理系を見立てたニセモノの「雲」であって、ニセモノで通用した操作をホンモノの「雲」に適用した結果は、きわめて危険であろう。


 ところで、地球規模の多重的危機への対応にあたって、資本主義というキーワードを捨て、市場という「雲」の操作が難しいとなったら、どうするか。

 ここで留意願いたいのは「雲」を定量的に操作できないことは確認したけれど、定性的な操作は可能である、ということ、つまり、参加者は言葉が通じ、自ら責任を持って行動することを知っている人間である、と言うことである。
 だから、人間には地球環境についての定量的なお話だって通ずるし、そうした人々の民主的な合意に立って、政策的に参加人数を制限したり、その大きさを制限したりすることも可能だと言うことである。
 そして、おそらく操作可能な変数はこの二つ、つまり参加者の人数と参加者の大きさ(重さ)しかないだろう(関係の数と方向を規制することは複雑すぎる)。
 参加者数の操作に関しては、自給自足的な生活の拡大や、地場産品の利用促進、地域活動の活性化やセーフティネットの強化などがを通じて参加者を減らしていくことが当面、考えられるだろう。
 また、参加者の大きさの操作に関しては、税制の簡素化、消費税のような間接税を廃止し、簡単な構造と高度な累進性を持った直接税に移行するということなどにより極端に大きく重い参加者を抑制することが、考えられるだろう。
 この二つの変数操作を通じて、雲の大きさと異常な傾きを一定の変化の中で「読む」ことが出来るようになるだろう。
 具体的には、物価の変化と貧富の差を一つの指標とすることもできるだろうし、人口密度の地域間格差や耕作放棄地の面積なども重要な指標として浮かび上がるかもしれない。
 視点と見方をかえるなら、出来そうなことはたくさんある、と言うことだ。
 おそらく、その第一歩にあるのは、市場に生きる人間が真っ先に失うもの、つまり人の話に落ち着いて耳を傾ける姿勢と、誠実に説明し理解を求める姿勢を、すべての人が取り戻すことだろう。


*この記事を読んで関心を持ってくださった方は私の古い方のブログにもっと詳しい記事をあげてあります。あわせてご覧ください。

シリーズタイトル 頭を冷まして「頭」を冷やす 

Part1 「資本主義経済」を描写する

Part2 資本主義経済と物流

Part3 ルールを操る資本主義経済の姿

Part4 だったら「頭」を切り落とすか

Part5 「頭」を冷やすための具体策

Part6 不便になることの楽しみ

Part7 残された矛盾~自民党を野党に



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