春の夜は短い、しかし夜は永く続く

こんばんは。昨日に続き夜分遅くに失礼します。RYOです。

昨日の記事よりもさらに夜中に執筆しています。

現在、2022/3/29,AM2:55。

もうすぐ午前3時になろうかとしているところです。


「春の夜の夢」という言葉を皆さんご存知でしょうか。

「短く儚いこと」のたとえをあらわす言葉です。

なぜ私がこのような題名をこの記事につけたかと申しますと、この記事では大まかではありますが「生きること」について再考したいと考えているからです。


私は、以前の記事で人間が生きてきたことに大した意味はないと述べたことがあります。

このことについて、少しだけ私の脳みその中をお見せしようかと思います。


単刀直入に申しますと、私は私の中に2人のRYOを認めています。

多重人格、ということではありません。しかし限りなくそれに近いかもしれません。

私は幼少期、とにかく不安症でした。

何をするにあたっても、不安要素がひとつでもある状態を嫌悪していました。

例えば、夏休みの宿題は夏休みが始まって1週間以内に全て終わらせていましたし、遠足があるというなら前日に必ず担任に電話をかけて集合時間や持ち物の確認作業を欠かしませんでした。

そんな人間、RYOが中学校に進学して、すなわち思春期に突入するとどうなったか。

真逆の、明るいRYOが徐々に形作られ、不安症のRYOは影を潜めていきました。

それは、”社交性を身につけていった”とも呼称できるかもしれません。

高校に進学しても、後者の私、陽と表現しましょうか。

陽の私はそのまま私を支配していました。

この頃の私は、最早前者の私、陰の私と表現しますが、陰の私を完全に忘れ去っていました。

しかし、大学生になり、高校のときより”人間”というものの醜さや社会の厳しさ、特に前者の人間というものをまじまじと見つめてしまったことにより、陰の私が再び顔を出してきました。

中学校、高校の6年間で形作られた陽の私を拭い去ることは至難である領域に達しており、こうして私は自分の中に2人の私を認めるに至りました。

この2人の私を見つけ出したのも、ここ最近、それこそ2022年に入ってからです。


ここで冒頭の話に戻りますが、人間に生まれた意味は大して無いと考えているのは陰の私です。

陰と陽という表現を用いたのは、この2人の私はコインの裏表のように、180°異なる考え方をしているからです。

しかし、私の中で人間は、人間として生を授かったことは素晴らしいことだ、と。

そう信じる、信じたい私がいるのです。

絶望している私がいるのにもかかわらず。


だから、私はこんな青二才の状態で、生きることの意味がわからなくなりつつあります。


我々は何処から来て、何処へ行くのか。人間は何故こんなにも醜く、争うことしかしないのか。人間として天寿を全うすることは、素晴らしいことだ。何故人間として生きることが素晴らしいのか。わかりません。

しかし、心は人間として生き、そして人間らしく、連帯して生きていくことを渇望している、それが何故なのかはわからないからこそ、その意義を見出すことができずにいます。


この記事を読まれている皆さんは、そのようなことを気にせずに生きていますか?

もしそうなのであれば、どんなに羨ましいことでしょうか。

そのようなことを気にして生きている皆さんは、その我々が生きているという事実に対してどのような解釈をお持ちでしょうか。

そのような非常に抽象的で、思索すれども全く底が見えないような、そういったことを考えている人間は私1人だけではないと信じています。


私自身も、そして皆さんにも。生きていく意義、意味を見つけ出せる。そんな瞬間がやってくれば良いですね。私はこのnoteを通じて、なんとか見つけ出せないものかと日々もがいています。


そんなこんなで記事を書いていたら、AM3:43。

もうすぐ4時になってしまいますので、ここらで今日は終わりたいと思います。


おやすみなさい。ではまた。

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