バルクはなぜ走るのか?
あのハルクの、紫色かあ、なんて軽い気持ちで見始めたら食らってしまった。
『インクレディブル・バルク』
監督 ルイス・ショーンブラン
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開始早々、暴漢をやっつけて走り去るバルクを目にした瞬間「今、映画の事件が起きている」と背すじが伸びた。この作品は画面に映るものすべて、笑えるか笑えないかを天秤にかけて、笑えるほうを選択した結果でできている。
かつて映画監督の鈴木則文が自身の美学を語った際に「照明はまんべんなく当てて、人物に影は作らない。ピントも奥まで合わせて画面に深みを出さない。そのほうがどっちもバカに見えるだろ?」という名言を残しているが、その究極形がバルクといっても過言ではないくらいこの作品は笑いに賭けている。
いわゆる低予算パロディ映画はマーケットの狭さゆえに作り手の一方通行な映画愛を披露されがちなきらいがあるのだが、
ルイス・ショーンブラン監督はスタンリー・キューブリックへオマージュを捧げてみせても瞬時に態度を切り替えて愛をゴミ箱へ放り投げる。なぜならオマージュや愛あるパロディは観る人が笑いにくくなるからである。
こうした作品の態度をめぐる優先順位のちがいが同作がその他マニア向け作品と一線を画している点でもある。
鑑賞後、情報を漁っていると監督が御年64歳になる大ベテランであることを知り驚いた。
ある程度のキャリアを重ねれば作品に自然と年輪が刻み込まれる気がするものだが、この映画からベテランならではの技巧を見出すことは難しい。
人物の行動は鑑賞者の理解を突き放し、抱いた疑問は背景素材に吸収される。その世界観は年代すら不明でマリオ64然とした城やスペーシーな噴水が不意打ちのように現れる始末。それは成熟とは真逆の小学生の遊戯感覚に近い。
そうなってしまう理由はもちろん「そっちのほうが面白いと思っているから」だ。
キャリアを捨てて笑いに賭ける覚悟に恐れ入る。
それで、そこまでしてウケにこだわる監督がこの作品でもっとも面白がっていたものは何かというと「人が走るということ」であった。
素晴らしくピュアでするどい嗅覚だ。もっとも面白いと信じているユーモアが、「走る」というもっとも映画的な記号と重なっているのだから。
私が事件性を感じた冒頭のバルクの走り方はこの作品のテーマそのものだったのである。人が走ることにウケはじめたらその先はない。
映画のクライマックス、追っ手の襲撃から逃げるバルクが荒野をひた走り、この世の全てを逆走していく。
文字通りこの世の全てを逆走するので驚愕するのだが、走る目的は次第に変化する。
場面が切り替わるたびにバルクの「逃走」が純粋な「走りそのもの」へとシフトチェンジしていくように感じられるのだ。
走りそのものとは、おそらく己の運動のみに集中している状態だ。
"あらゆる刺激を無視して一定の速度でまっすぐ走り続けている人"それがルイス・ショーンブランが辿りついた究極のユーモアなのかもしれない。
果たしてバルクがゼウスの裁きを無視して走り去った瞬間、それは同作が「ウケるためなら私は神の存在も否定できます」と意志表明した決定的瞬間でもあった。
孤高のマラソンはバルクの頭上に核爆弾が直撃することで幕を閉じる。
実際に起きた事件であることを証明するかのごとく監督のフィルモグラフィーはここで途絶えている。
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