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新しい友達ができました!

波を眺めるのが好きだ。二年前の夏、柄にもなく友人たちと海辺で花火あそびをした夜、月の灯りに照らされる波の模様を眺めているうちに放心状態になってしまった出来事がきっかけだ。とはいえ、そのきっかけはまだ波を習慣的に観察したくなるほどの感動ではなかった。それは日中、岩場に置いていたバッグが満潮によって波にさらわれ、ニンテンドースイッチが故障したことで胸中穏やかではなかった事情もある。水没は修理の保証外という悪いニュースも聞いていた。精神的ショックを受けていただけかもしれない。

去年の秋ごろ、深夜にふとあの波の感動を思い出し、今度はひとりで海へ行こうと思った。自宅からもっとも近い海岸まで車を走らせること2時間、大洗海岸に到着。日の出前なので辺りにはまだ誰の影もなく、季節がら来訪者も少ないのか浜辺にはゴミや足跡ひとつない。そして天候はよく、波は穏やかだった。違法薬物に熱心な人たちがよく「セッティングが大事」と口にするけれど、その夜の大洗海岸はまさにセッティングがばっちりで、波を眺めるにはうってつけであったといえる。ズボンの裾をまくり、押しては引きくねってはうねる無限の運動を眺めているうちに精神は波に溶け出すように消えていき、やがて深い瞑想のような放心状態になった。やはり、あの夏の感動は正しかったのだ。今回は誰の視線もないのでかつて以上の没入感がある。無心のまま空間に身を委ねていると、波の音は世界の真理をそっと告げてくる。
海とは、波のうねりや弾ける泡の音ひとつひとつにこの世の情報が刻み込まれているレコードであり、浜辺とは、わたしという針を通してそのレコードを聴くことで宇宙と繋がる空間なのだと。
浜辺に立つことは、宇宙を知ることに深く関わってくるかもしれない。

海の神秘に触れてしまったおれはそれから大洗海岸に入り浸るようになるのだが、初動がうまく行きすぎたのかこの時のような感動はいまだ得られていない。ジョギングするじいさんが近づいてくる気配、砂浜に落ちているバーベキューのゴミやたばこの吸い殻、出航する漁船など、ちょっとしたノイズがあるだけで宇宙に飛べなくなってしまうのだ。そういう回は車のガソリンを無駄にしたという後悔で胸がいっぱいになる。おれが思うに、セッティングとは「人間という存在と痕跡をいかに消せるか」が何よりも重要だ。セッティングに失敗すると、そこにたばこの吸い殻ひとつあるだけで、豊かな海はSNSのような人工的な空間に変わってしまうのだ。そういう海へ行くくらいなら、いっそ誰もいない深夜の高速道路で車を走らせているほうが神秘的な体験を得られるだろう。飛ぶためにも海のゴミは持ち帰ろう。
以前、作家の爪切男さんとのトークイベントでこの時の体験を語ったら、なんの前触れもなく話しはじめたのが余計にまずかったのか、新興宗教にハマっている信者のようになってしまい会場を引かせてしまった。その節はすみませんでした。

それでもめげずに、おれは浜辺という空間がなぜ特別なのかについて考えてみたい。思うに陸でも海でもあるという概念が大きな要素としてある。浜辺という空間は時間帯によって陸になるし海にもなる。それは同時に陸ではないし海でもないということになってくる。つまりその空間は「複数の世界がダブっている場所」ということになる。世界がダブっているということは、それだけ自然の情報密度が生まれる空間ということだ。土や水や植物が一緒くたになっている沼地が生物の多様性に貢献しているのもおそらくそういうことだ。密度ある自然は宇宙につながる秘密が隠されているに違いなく、その象徴的空間のひとつである浜辺は宇宙と繋がるためのゲートになっているはずなのだ。そんな考察を経ているうちに陸上と水中で生活できる生き物にも魅力を感じはじめたおれは、彼らに人生を学ぶべく亀を飼うことを決意した。そして間もなくコロナウイルスが流行りはじめる。同時期、都心に住んでいた姉が出産し、大事をとって人口密度の少ない茨城の実家で赤子を育てるという段取りとなった。そうなってくると自宅でライバルのように亀を育てはじめるのもなんだかばつが悪くなり、亀に学ぶ計画はいったん白紙となった。

コロナ禍の自粛によって海岸が封鎖されていることに気づかず海まで車を走らせた夜、世界への呪詛を吐きながらとんぼ帰りをするおれはさぞかし哀れに写ったことだろう。果たして海なき世界を受け入れたおれは今では海の神秘を忘れて人恋しくなり、「お前だけは友達でいてくれ」と願いを込めてマジックペンで壁掛け時計に笑顔を描いてしまうのであった。

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