「仕返し」について

小さい頃は何か自分にとって不快なことをされたり言われたりしたらその都度仕返しをしていた。その度に、先生には先に仕掛けてきた人間よりも分量が多く叱られたし、叱られて泣いたのはいつも私だけだった。ある時先生は後で私を呼び出し、「仕返さなければいいのよ」と言った。私も出来ればそうしたいといつも思っていた。どうしても、自分ばかりやられっぱなしで、後から先生の手によって制裁を「与えてもらう」ことが、むず痒くて出来そうになかった。どうして自分自身で相手に同じ分だけの仕返しをさせてはくれないのか。正直、理解できなかった。帰れば家には当たり障りのない人間ばかりであったが、その家族は皆、「やられたらやり返せ」と当たり前のように言うし、その通りだと信じ私はやり返すし、要領が悪く加減も分からないので、結局また余分に叱られるのだった。

それから紆余曲折あって、私は少し大人になった。大人になった気でいた。何か気に障ることをされても仕返しをしなくなった。それによって起きる揉め事によって、自分になんの利益も無いのだと気づいたからだ。何か言われても何も言い返さず、何かされても何もし返さず、それが正解なんだと、心が美しくて、賢い人間のすることなのだと、長らく思っていた。幸いそのことに気づいた頃には悪事をけしかけてくる輩もおらず、己の信念を美しいままに貫けた、というのもあるが。

だが、それは果たして最善の行動なのだろうか?ここ最近よく考える。先日、友人の口から出た心無い一言に、何も言い返さず笑って流したことが忘れられず、このような疑問を抱くようになった。

何も言い返さない、何もし返さない、このことこそまさに、自分にとってなんの利益も無いのではないだろうか?言い返さなければ、相手は悪口を言い続けても構わないのだと判断するし、何もし返さなかった場合も、相手は同じように判断するだろう。結局は自分ばかりが傷つく羽目になる。

自分を自分で守るには他者からの攻撃に自分で対応していかなければならない。歳を重ねれば重ねるほど、守ってくれる人間は自分自身だけになるんだなと痛感した。

嫌味に嫌味で返すいや~な人間になる覚悟が、最近できた。だって嫌味言ってくる人って大体全体的に嫌な人間じゃない?嫌いな人間に嫌われても別にいいでしょ!という、よく叫ばれる言葉ではあるが、「嫌われる勇気」が持てるようになった。自分にとって大切な人々を大切に、そうでも無い人とは程々に、でありたい。